春が来た。
「あまなぎ」の窓から見える四浦の海も、冬の頃とは少し違って見える。
柔らかな風が吹き、雨の日の海もどこか優しく見える季節になっていた。
夕凪は、いつものように店の準備をしていた。
コーヒー豆を確認して、パンを焼く。
ショーケースには、チーズケーキやプリン。
厨房からは、焼きたてのパンの香りが漂っている。
そんな「あまなぎ」に――。
カラン、カラン。
扉が開いた。
「いらっしゃいませ」
顔を上げた夕凪は、少し驚いた。
「……蒼くん」
「こんにちは、夕凪さん」
そこにいたのは、蒼だった。
高校三年生だった頃と比べると、少しだけ大人っぽくなったように見える。
けれど、緊張したときに少しだけ視線を逸らすところは変わっていない。
「今日はどうしたの?」
夕凪が尋ねる。
蒼は少しだけ笑った。
「報告したいことがあって」
「うん?」
「大学、合格しました」
一瞬、夕凪は言葉を失った。
そして――。
「本当?」
「はい」
「おめでとう!」
夕凪の顔がぱっと明るくなる。
「蒼くん、本当におめでとう!」
「ありがとうございます」
「頑張ったね」
「はい」
蒼は嬉しそうに笑った。
高校三年生の頃。
蒼は「あまなぎ」に何度も通っていた。
雨の日には、ほとんど決まったように店へ来た。
ココアを飲みながら勉強して。
焼きたてのパンのサンドイッチを食べて。
疲れたときには、夕凪と少し話をした。
そして、帰るときには――。
「また来ます」
そう言って帰っていった。
夕凪にとっても、その姿はいつの間にか「あまなぎ」の日常の一部になっていた。
けれど今日の蒼は、いつもと違う。
合格を伝えに来ただけではない。
夕凪には、なんとなく分かっていた。
蒼は、何かを伝えようとしている。
「夕凪さん」
「うん?」
蒼が少し緊張した顔で、夕凪を見る。
「もう一つ、伝えたいことがあります」
夕凪は静かに頷いた。
「聞くよ」
蒼は一度、深く息を吸った。
「僕、夕凪さんのことが好きです」
夕凪は、何も言わずに蒼を見る。
蒼は続けた。
「高校三年生の梅雨の時期から」
その言葉に、夕凪は少し驚いた。
「梅雨の頃から……?」
「はい」
「ずっと?」
「ずっとです」
蒼はまっすぐ夕凪を見た。
「あまなぎに来るようになって、夕凪さんと話すようになって……」
少し照れながら笑う。
「いつの間にか、好きになってました」
「……そっか」
「最初は、自分でもよく分からなかったんです」
「うん」
「でも、雨が降ると、あまなぎに行きたいって思うようになって」
「うん」
「夕凪さんに会えるのが嬉しくて」
蒼は言葉を選びながら続けた。
「受験で苦しいときも、夕凪さんに『頑張ってね』って言ってもらえると、もう少し頑張ろうって思えました」
夕凪は静かに聞いていた。
「前にも言いましたけど……」
蒼が少し笑う。
「僕、本気です」
「うん」
「受験が終わったら、気持ちが変わるかもしれないって思ったこともありました」
「……うん」
「でも、変わりませんでした」
蒼は夕凪を見つめた。
「僕は、夕凪さんと一緒にいたいです」
夕凪は胸の奥が温かくなるのを感じた。
嬉しい。
その気持ちは、嘘ではなかった。
蒼の頑張っている姿を見てきた。
何度も「あまなぎ」に来てくれた。
受験に向き合い、今日、合格を掴んだ。
そして今、自分の気持ちをまっすぐ伝えている。
夕凪は少し考えてから、ゆっくり口を開いた。
「蒼くん」
「はい」
「合格、本当におめでとう」
「ありがとうございます」
「そして……気持ちを伝えてくれてありがとう」
「……はい」
「私も、蒼くんのことを大切に思ってる」
蒼の目が少し大きくなる。
けれど、夕凪は続けた。
「でも、今すぐ一緒にいることはできない」
蒼は少しだけ寂しそうな顔をした。
けれど、すぐに頷いた。
「……分かってます」
「蒼くんは、これから大学生になるでしょう?」
「はい」
「これから新しい友達もできるし、いろんな人に出会う」
「はい」
「大学生活の中で、いろんな経験をしてほしい」
夕凪は優しく笑った。
「だから、今は蒼くん自身の未来を大切にしてほしい」
「分かりました」
そして夕凪は、少しだけ考えてから言った。
「大学を卒業して――」
蒼が顔を上げる。
「そのときにも、まだ私のことが好きだったら」
夕凪は、まっすぐ蒼を見つめた。
「そのときは、一緒にいよう」
蒼は驚いたように目を見開いた。
「……本当に?」
「うん」
「大学を卒業したら?」
「うん」
「そのときも僕が好きだったら?」
「うん」
夕凪は笑った。
「一緒にいよう」
蒼の顔に、嬉しそうな笑顔が浮かぶ。
けれど夕凪は、もう一つ伝えておきたいことがあった。
「ただね、蒼くん」
「はい?」
「そのときは――」
少しだけ笑って。
「私はもう二十九歳だよ」
「……二十九歳」
蒼が小さく繰り返す。
「そう」
「四年後……」
「そうだね」
「夕凪さん、二十九歳になるんですね」
「うん」
蒼は少し考えた。
そして、笑った。
「僕は二十二歳です」
「そうだね」
「七歳差は変わらないですね」
「変わらないね」
二人は顔を見合わせた。
七歳。
今も七歳。
四年後も七歳。
でも、その意味はきっと違う。
今は十八歳と二十五歳。
そして四年後は、二十二歳と二十九歳。
二人とも、それぞれの時間を過ごした大人同士になる。
夕凪は言った。
「だから、今は何も急がなくていいよ」
「……はい」
「蒼くんは大学で、いろんなことを経験して」
「はい」
「楽しいことも、嬉しいことも、もしかしたら大変なこともあると思う」
「うん」
「その中で、気持ちが変わってもいい」
蒼は黙って聞いている。
「誰かを好きになってもいい」
「……」
「そのときは、その人を大切にしてね」
蒼は少しだけ笑った。
「分かってます」
「本当に?」
「はい」
そして、蒼はまっすぐ夕凪を見る。
「でも、今の僕は夕凪さんが好きです」
夕凪は微笑んだ。
「うん。ありがとう」
「大学を卒業したときにも、まだ好きだったら……」
「うん」
「そのときは、またちゃんと伝えます」
「待ってる」
その言葉を口にしてから、夕凪は少し照れたように笑った。
「……でも、待ってるっていうのも、ちょっと違うかな」
「どうして?」
「蒼くんには、蒼くんの人生を歩いてほしいから」
「……はい」
「だから、四年間、私のために待つんじゃなくて」
「はい」
「自分のために過ごしてね」
蒼はしっかり頷いた。
「分かりました」
「そして、四年後」
「はい」
「それでも好きだったら」
「はい」
「そのときは、ちゃんと向き合おう」
蒼は笑った。
「約束ですね」
「うん」
「七歳差のままですね」
「そうだね」
「二十二歳と二十九歳」
「うん」
蒼は少し照れながら笑った。
「なんか、楽しみです」
「ふふ」
夕凪も笑った。
その日、蒼は何かを手に入れたわけではない。
恋人になったわけでもない。
けれど、未来を完全に閉ざされたわけでもなかった。
今は、それぞれの道を歩く。
蒼は大学へ。
夕凪は「あまなぎ」へ。
そして四年後。
もし同じ気持ちでいられたなら。
そのときは、二十二歳と二十九歳の二人として、もう一度向き合う。
「夕凪さん」
「ん?」
蒼は帰る前に、もう一度振り返った。
「僕、大学頑張ります」
「うん」
「卒業します」
「うん。頑張ってね」
「そして……」
蒼は少し笑った。
「二十二歳になった僕が、まだ夕凪さんを好きだったら」
夕凪も笑う。
「そのときは、二十九歳の私がちゃんと話を聞くよ」
「はい」
蒼は嬉しそうに頷いた。
「じゃあ、また来ます」
「うん」
「雨の日に」
「雨の日にね」
カラン、カラン。
扉が閉じる。
蒼の姿が、春の道の向こうへ消えていく。
夕凪はしばらく、その背中を見つめていた。
そして、窓の外を見る。
春の雨が、いつの間にか静かに降り始めている。
四浦の海も、雨に包まれていた。
高校三年生の梅雨。
蒼が夕凪を好きになった季節。
あれから時間が流れて。
今日、蒼は高校を卒業する未来へ一歩進んだ。
夕凪は、二十九歳の自分を想像する。
その頃の自分は、どんな「あまなぎ」をしているのだろう。
蒼はどんな大人になっているのだろう。
そして――。
そのときにも、同じ気持ちでいられるのだろうか。
それは、まだ誰にも分からない。
だからこそ、今はそれぞれの時間を大切にする。
雨は静かに降り続いている。
その向こうで、四浦の海がゆっくりと揺れている。
夕凪は小さく笑った。
「蒼くん、頑張ってね」
その声は、春の雨に溶けていった。
四年後。
二十二歳の蒼と、二十九歳の夕凪。
そのとき二人の心に残っているものが何なのか。
それは、未来だけが知っている。
けれど今は――。
雨の「あまなぎ」で交わした約束だけが、
静かに二人の未来へ続いていた。
「あまなぎ」の窓から見える四浦の海も、冬の頃とは少し違って見える。
柔らかな風が吹き、雨の日の海もどこか優しく見える季節になっていた。
夕凪は、いつものように店の準備をしていた。
コーヒー豆を確認して、パンを焼く。
ショーケースには、チーズケーキやプリン。
厨房からは、焼きたてのパンの香りが漂っている。
そんな「あまなぎ」に――。
カラン、カラン。
扉が開いた。
「いらっしゃいませ」
顔を上げた夕凪は、少し驚いた。
「……蒼くん」
「こんにちは、夕凪さん」
そこにいたのは、蒼だった。
高校三年生だった頃と比べると、少しだけ大人っぽくなったように見える。
けれど、緊張したときに少しだけ視線を逸らすところは変わっていない。
「今日はどうしたの?」
夕凪が尋ねる。
蒼は少しだけ笑った。
「報告したいことがあって」
「うん?」
「大学、合格しました」
一瞬、夕凪は言葉を失った。
そして――。
「本当?」
「はい」
「おめでとう!」
夕凪の顔がぱっと明るくなる。
「蒼くん、本当におめでとう!」
「ありがとうございます」
「頑張ったね」
「はい」
蒼は嬉しそうに笑った。
高校三年生の頃。
蒼は「あまなぎ」に何度も通っていた。
雨の日には、ほとんど決まったように店へ来た。
ココアを飲みながら勉強して。
焼きたてのパンのサンドイッチを食べて。
疲れたときには、夕凪と少し話をした。
そして、帰るときには――。
「また来ます」
そう言って帰っていった。
夕凪にとっても、その姿はいつの間にか「あまなぎ」の日常の一部になっていた。
けれど今日の蒼は、いつもと違う。
合格を伝えに来ただけではない。
夕凪には、なんとなく分かっていた。
蒼は、何かを伝えようとしている。
「夕凪さん」
「うん?」
蒼が少し緊張した顔で、夕凪を見る。
「もう一つ、伝えたいことがあります」
夕凪は静かに頷いた。
「聞くよ」
蒼は一度、深く息を吸った。
「僕、夕凪さんのことが好きです」
夕凪は、何も言わずに蒼を見る。
蒼は続けた。
「高校三年生の梅雨の時期から」
その言葉に、夕凪は少し驚いた。
「梅雨の頃から……?」
「はい」
「ずっと?」
「ずっとです」
蒼はまっすぐ夕凪を見た。
「あまなぎに来るようになって、夕凪さんと話すようになって……」
少し照れながら笑う。
「いつの間にか、好きになってました」
「……そっか」
「最初は、自分でもよく分からなかったんです」
「うん」
「でも、雨が降ると、あまなぎに行きたいって思うようになって」
「うん」
「夕凪さんに会えるのが嬉しくて」
蒼は言葉を選びながら続けた。
「受験で苦しいときも、夕凪さんに『頑張ってね』って言ってもらえると、もう少し頑張ろうって思えました」
夕凪は静かに聞いていた。
「前にも言いましたけど……」
蒼が少し笑う。
「僕、本気です」
「うん」
「受験が終わったら、気持ちが変わるかもしれないって思ったこともありました」
「……うん」
「でも、変わりませんでした」
蒼は夕凪を見つめた。
「僕は、夕凪さんと一緒にいたいです」
夕凪は胸の奥が温かくなるのを感じた。
嬉しい。
その気持ちは、嘘ではなかった。
蒼の頑張っている姿を見てきた。
何度も「あまなぎ」に来てくれた。
受験に向き合い、今日、合格を掴んだ。
そして今、自分の気持ちをまっすぐ伝えている。
夕凪は少し考えてから、ゆっくり口を開いた。
「蒼くん」
「はい」
「合格、本当におめでとう」
「ありがとうございます」
「そして……気持ちを伝えてくれてありがとう」
「……はい」
「私も、蒼くんのことを大切に思ってる」
蒼の目が少し大きくなる。
けれど、夕凪は続けた。
「でも、今すぐ一緒にいることはできない」
蒼は少しだけ寂しそうな顔をした。
けれど、すぐに頷いた。
「……分かってます」
「蒼くんは、これから大学生になるでしょう?」
「はい」
「これから新しい友達もできるし、いろんな人に出会う」
「はい」
「大学生活の中で、いろんな経験をしてほしい」
夕凪は優しく笑った。
「だから、今は蒼くん自身の未来を大切にしてほしい」
「分かりました」
そして夕凪は、少しだけ考えてから言った。
「大学を卒業して――」
蒼が顔を上げる。
「そのときにも、まだ私のことが好きだったら」
夕凪は、まっすぐ蒼を見つめた。
「そのときは、一緒にいよう」
蒼は驚いたように目を見開いた。
「……本当に?」
「うん」
「大学を卒業したら?」
「うん」
「そのときも僕が好きだったら?」
「うん」
夕凪は笑った。
「一緒にいよう」
蒼の顔に、嬉しそうな笑顔が浮かぶ。
けれど夕凪は、もう一つ伝えておきたいことがあった。
「ただね、蒼くん」
「はい?」
「そのときは――」
少しだけ笑って。
「私はもう二十九歳だよ」
「……二十九歳」
蒼が小さく繰り返す。
「そう」
「四年後……」
「そうだね」
「夕凪さん、二十九歳になるんですね」
「うん」
蒼は少し考えた。
そして、笑った。
「僕は二十二歳です」
「そうだね」
「七歳差は変わらないですね」
「変わらないね」
二人は顔を見合わせた。
七歳。
今も七歳。
四年後も七歳。
でも、その意味はきっと違う。
今は十八歳と二十五歳。
そして四年後は、二十二歳と二十九歳。
二人とも、それぞれの時間を過ごした大人同士になる。
夕凪は言った。
「だから、今は何も急がなくていいよ」
「……はい」
「蒼くんは大学で、いろんなことを経験して」
「はい」
「楽しいことも、嬉しいことも、もしかしたら大変なこともあると思う」
「うん」
「その中で、気持ちが変わってもいい」
蒼は黙って聞いている。
「誰かを好きになってもいい」
「……」
「そのときは、その人を大切にしてね」
蒼は少しだけ笑った。
「分かってます」
「本当に?」
「はい」
そして、蒼はまっすぐ夕凪を見る。
「でも、今の僕は夕凪さんが好きです」
夕凪は微笑んだ。
「うん。ありがとう」
「大学を卒業したときにも、まだ好きだったら……」
「うん」
「そのときは、またちゃんと伝えます」
「待ってる」
その言葉を口にしてから、夕凪は少し照れたように笑った。
「……でも、待ってるっていうのも、ちょっと違うかな」
「どうして?」
「蒼くんには、蒼くんの人生を歩いてほしいから」
「……はい」
「だから、四年間、私のために待つんじゃなくて」
「はい」
「自分のために過ごしてね」
蒼はしっかり頷いた。
「分かりました」
「そして、四年後」
「はい」
「それでも好きだったら」
「はい」
「そのときは、ちゃんと向き合おう」
蒼は笑った。
「約束ですね」
「うん」
「七歳差のままですね」
「そうだね」
「二十二歳と二十九歳」
「うん」
蒼は少し照れながら笑った。
「なんか、楽しみです」
「ふふ」
夕凪も笑った。
その日、蒼は何かを手に入れたわけではない。
恋人になったわけでもない。
けれど、未来を完全に閉ざされたわけでもなかった。
今は、それぞれの道を歩く。
蒼は大学へ。
夕凪は「あまなぎ」へ。
そして四年後。
もし同じ気持ちでいられたなら。
そのときは、二十二歳と二十九歳の二人として、もう一度向き合う。
「夕凪さん」
「ん?」
蒼は帰る前に、もう一度振り返った。
「僕、大学頑張ります」
「うん」
「卒業します」
「うん。頑張ってね」
「そして……」
蒼は少し笑った。
「二十二歳になった僕が、まだ夕凪さんを好きだったら」
夕凪も笑う。
「そのときは、二十九歳の私がちゃんと話を聞くよ」
「はい」
蒼は嬉しそうに頷いた。
「じゃあ、また来ます」
「うん」
「雨の日に」
「雨の日にね」
カラン、カラン。
扉が閉じる。
蒼の姿が、春の道の向こうへ消えていく。
夕凪はしばらく、その背中を見つめていた。
そして、窓の外を見る。
春の雨が、いつの間にか静かに降り始めている。
四浦の海も、雨に包まれていた。
高校三年生の梅雨。
蒼が夕凪を好きになった季節。
あれから時間が流れて。
今日、蒼は高校を卒業する未来へ一歩進んだ。
夕凪は、二十九歳の自分を想像する。
その頃の自分は、どんな「あまなぎ」をしているのだろう。
蒼はどんな大人になっているのだろう。
そして――。
そのときにも、同じ気持ちでいられるのだろうか。
それは、まだ誰にも分からない。
だからこそ、今はそれぞれの時間を大切にする。
雨は静かに降り続いている。
その向こうで、四浦の海がゆっくりと揺れている。
夕凪は小さく笑った。
「蒼くん、頑張ってね」
その声は、春の雨に溶けていった。
四年後。
二十二歳の蒼と、二十九歳の夕凪。
そのとき二人の心に残っているものが何なのか。
それは、未来だけが知っている。
けれど今は――。
雨の「あまなぎ」で交わした約束だけが、
静かに二人の未来へ続いていた。

