その日は、珍しく雨が降っていなかった。
「あまなぎ」は雨の日だけ開く喫茶店。
だから今日は、店の扉に「本日休業」の札がかかっている。
夕凪は朝から、なんとなく落ち着かなかった。
最近、頭から離れないことがある。
高校三年生の男の子。
蒼。
「あまなぎ」に最近よく来るようになった子だ。
受験勉強を頑張っていて、いつもココアや焼きたてパンのサンドイッチを頼む。
陸や空と一緒に来ることもあるけれど、最近は一人で来ることが多い。
そして――。
「夕凪さんのこと、ちょっと気になってます」
そう言われた。
最初は「ちょっと」だった。
けれど、蒼が「あまなぎ」に来るたびに見せる表情を見ていると、夕凪にも分かってきた。
蒼は、本気で自分に恋愛感情を持っている。
そして蒼自身も、それを母親に話しているらしい。
十八歳。
夕凪は二十五歳。
七歳の差。
それだけなら、いつか大人同士になれば珍しい年齢差ではないのかもしれない。
でも、今は違う。
蒼は高校三年生。
夕凪は二十五歳の大人。
「……どうしたらいいんだろう」
夕凪は一人で呟いた。
自分の店では、いつも誰かの悩みを聞いている。
けれど、自分のことになると、どうしていいのか分からない。
だから今日は、相談することにした。
向かった先は、湯布院。
結月が営む「むすび洋菓子店」だった。
扉を開ける。
カラン、と小さな音が鳴った。
「いらっしゃいませ――」
店の奥から結月の声がする。
そして夕凪の姿を見つけると、ぱっと笑顔になった。
「夕凪!」
「結月」
「どうしたの? 今日は「あまなぎ」休みでしょう?」
「うん」
「遊びに来てくれたの?」
「それもあるけど……」
夕凪は少し言葉を濁した。
「相談したいことがあって」
結月はすぐに夕凪の表情を見た。
「相談?」
「うん」
「もちろん。座って」
結月は夕凪を店の奥へ案内した。
「何か飲む?」
「紅茶、お願い」
「分かった」
結月が紅茶を淹れてくれる。
温かな香りが広がる。
夕凪はカップを両手で包んだ。
それでも、なかなか話し出せない。
結月は急かさず待っていた。
「……最近ね」
「うん」
「高校三年生の男の子が、あまなぎに来るの」
「高校三年生?」
「うん」
結月は少し驚いた。
「お客さん?」
「そう」
「そっか」
結月はそれ以上聞かず、夕凪の言葉を待つ。
夕凪は少し息を吐いた。
「その子ね、最近よく来るの」
「うん」
「受験生だから、あまなぎで勉強してる」
「真面目な子なんだね」
「うん。すごく頑張ってる」
夕凪は少し笑った。
「ココアを飲みながら勉強しててね。焼きたてのパンのサンドイッチを食べたりして」
「へえ」
「それで……」
夕凪の声が小さくなる。
「私のことを、恋愛的に好きみたいなの」
結月の目が少し大きくなった。
「……え?」
「そういうことを言われたの」
「夕凪に?」
「うん」
結月は驚いたまま夕凪を見る。
「その子の名前は?」
「蒼くん」
「蒼くん……」
結月が初めて聞く名前を口にする。
「その子、何歳なの?」
「十八歳」
「十八……」
「うん。高校三年生だから」
夕凪は紅茶を一口飲んだ。
「私は二十五歳」
「七歳差か……」
「うん」
結月はしばらく考えた。
「それで、夕凪はどう思ってるの?」
その質問に、夕凪は黙った。
「……いい子だと思う」
「うん」
「頑張ってるし、素直だし、人の話もちゃんと聞いてくれる」
「うん」
「だから、応援してあげたいと思う」
「うん」
「でも……」
夕凪はカップを見つめた。
「私も、蒼くんに好かれてるのが嫌なわけじゃないの」
結月は黙って聞いている。
「むしろ……嬉しいと思ってる自分もいる」
「うん」
「だから余計に、どうしたらいいのか分からない」
夕凪は小さく息を吐いた。
「未成年だし」
結月はゆっくり頷いた。
「そうだね」
「今、恋愛として応えるのは違うと思ってる」
「私も、そう思う」
結月の言葉は、はっきりしていた。
けれど、責めるようなものではなかった。
「蒼くんがいい子だからって、今すぐ恋愛として応えなくちゃいけないわけじゃないよ」
「うん」
「むしろ、夕凪が大人としてちゃんと線を引いてあげることが大事だと思う」
「……やっぱり、そうだよね」
「うん」
結月は優しく笑った。
「蒼くんの気持ちを否定する必要はないと思う」
「うん」
「好きって気持ちは、その子のものだから」
「うん」
「でも、夕凪がそれに応えるかどうかは別」
夕凪は静かに頷いた。
「今は、受験を応援するくらいがいいんじゃないかな」
「受験を?」
「うん」
「頑張ってねって言ったり?」
「そう。ちゃんと食べて、ちゃんと寝て、無理しないでって」
「……いつも私が言ってることだ」
「そうでしょう?」
二人は少し笑った。
結月は続ける。
「蒼くんが高校を卒業して、大人になって。それでもまだ同じ気持ちだったら、そのとき考えればいい」
「……そのとき」
「うん」
「今、答えを出さなくていい?」
「いいと思う」
夕凪は少しだけ肩の力を抜いた。
「未来のことなんて、誰にも分からないもの」
「うん」
「今は、蒼くんの未来を邪魔しないこと。そして、夕凪自身も無理しないこと」
「……ありがとう」
「ううん」
そのとき、店の奥から声がした。
「結月、紅茶もう一個いる?」
振り返ると、星川るいが立っていた。
「夕凪さん、来てたんですね」
「るいさん」
「こんにちは」
「こんにちは」
るいは二人の様子を見て、少し首を傾げた。
「何か相談?」
夕凪は少し迷った。
けれど、結月を見る。
結月が小さく頷いた。
「実はね」
夕凪が話し始める。
「最近、あまなぎに高校三年生の男の子がよく来るんです」
「高校生?」
「はい」
「それで?」
夕凪は少し恥ずかしそうに言った。
「私のことを、恋愛的に好きみたいで……」
るいも少し驚いた。
「そうなんですか」
「はい」
「夕凪さんは?」
「……私も、その子のことを嫌いなわけじゃないです」
夕凪は正直に話した。
「でも、十八歳で。私は二十五歳だから」
るいは少し考えてから言った。
「今は、焦らなくていいんじゃないですか」
「……はい」
「その子が本気なら、受験も頑張るでしょうし」
「はい」
「今は、その子自身の未来を応援してあげる。それで十分だと思います」
夕凪は頷いた。
「ありがとうございます」
るいが笑う。
「それに、夕凪さんなら大丈夫ですよ」
「どうして?」
「ちゃんと悩んでるから」
その言葉に、夕凪は少し笑った。
結月も頷く。
「そう。夕凪はちゃんと考えてる」
「……二人に相談してよかった」
夕凪の表情が少し柔らかくなった。
結月が立ち上がる。
「じゃあ、帰る前にこれ持って帰って」
「え?」
結月が箱を持ってくる。
「チーズケーキ」
「いいの?」
「もちろん」
夕凪は箱を受け取った。
「あまなぎでも使ってもらってるしね」
「いつもありがとう」
「こちらこそ」
夕凪はチーズケーキの箱を抱えた。
店を出る前、結月が声をかける。
「夕凪」
「うん?」
「蒼くんの気持ちを大切にすることと、蒼くんの気持ちに今すぐ応えることは、同じじゃないよ」
夕凪は静かに頷いた。
「うん」
「今は、待ってあげることも優しさだと思う」
「……分かった」
「そして、夕凪自身の気持ちも、無理に決めなくていい」
「うん」
夕凪は笑った。
「ありがとう、結月」
「いつでも相談して」
「うん」
外へ出る。
湯布院の空は、まだ曇っていた。
けれど、夕凪の心は来たときよりずっと軽くなっていた。
蒼の気持ちを否定しない。
でも、今は恋愛として応えない。
大人として、ちゃんと距離を守る。
そして、蒼が自分の未来へ進めるように、応援する。
もし、いつか。
蒼が高校を卒業して、さらに時間が経って。
それでも同じ気持ちを持っているのなら。
そのときに、改めて考えればいい。
今はまだ、何も決めなくていい。
夕凪はチーズケーキの箱を抱えながら、ゆっくり歩いた。
「あまなぎ」に戻ったら、また蒼が来るかもしれない。
そのときは、いつも通り迎えよう。
「いらっしゃいませ」
そう言って。
ココアを出して。
焼きたてのパンを出して。
そして――。
「勉強、頑張ってね」
今の夕凪にできるのは、それでいい。
誰かの悩みを聞くことはできても、
自分の悩みになると、こんなにも難しい。
だから今日は、
自分も誰かに話を聞いてもらった。
そして、少しだけ分かった。
好きという気持ちは、
急いで答えを出さなくてもいい。
大切だからこそ、
待つこともある。
距離を守ることもある。
応えないことも、
優しさになることがある。
夕凪は空を見上げた。
雲の隙間から、ほんの少しだけ光が差している。
その向こうには、四浦の海がある。
雨の日も、晴れの日も。
海は変わらず、そこにある。
夕凪は小さく笑った。
「……明日、ちゃんといつも通りにしよう」
そして、チーズケーキの箱を抱え直し、
ゆっくりと家へ帰っていった。
「あまなぎ」は雨の日だけ開く喫茶店。
だから今日は、店の扉に「本日休業」の札がかかっている。
夕凪は朝から、なんとなく落ち着かなかった。
最近、頭から離れないことがある。
高校三年生の男の子。
蒼。
「あまなぎ」に最近よく来るようになった子だ。
受験勉強を頑張っていて、いつもココアや焼きたてパンのサンドイッチを頼む。
陸や空と一緒に来ることもあるけれど、最近は一人で来ることが多い。
そして――。
「夕凪さんのこと、ちょっと気になってます」
そう言われた。
最初は「ちょっと」だった。
けれど、蒼が「あまなぎ」に来るたびに見せる表情を見ていると、夕凪にも分かってきた。
蒼は、本気で自分に恋愛感情を持っている。
そして蒼自身も、それを母親に話しているらしい。
十八歳。
夕凪は二十五歳。
七歳の差。
それだけなら、いつか大人同士になれば珍しい年齢差ではないのかもしれない。
でも、今は違う。
蒼は高校三年生。
夕凪は二十五歳の大人。
「……どうしたらいいんだろう」
夕凪は一人で呟いた。
自分の店では、いつも誰かの悩みを聞いている。
けれど、自分のことになると、どうしていいのか分からない。
だから今日は、相談することにした。
向かった先は、湯布院。
結月が営む「むすび洋菓子店」だった。
扉を開ける。
カラン、と小さな音が鳴った。
「いらっしゃいませ――」
店の奥から結月の声がする。
そして夕凪の姿を見つけると、ぱっと笑顔になった。
「夕凪!」
「結月」
「どうしたの? 今日は「あまなぎ」休みでしょう?」
「うん」
「遊びに来てくれたの?」
「それもあるけど……」
夕凪は少し言葉を濁した。
「相談したいことがあって」
結月はすぐに夕凪の表情を見た。
「相談?」
「うん」
「もちろん。座って」
結月は夕凪を店の奥へ案内した。
「何か飲む?」
「紅茶、お願い」
「分かった」
結月が紅茶を淹れてくれる。
温かな香りが広がる。
夕凪はカップを両手で包んだ。
それでも、なかなか話し出せない。
結月は急かさず待っていた。
「……最近ね」
「うん」
「高校三年生の男の子が、あまなぎに来るの」
「高校三年生?」
「うん」
結月は少し驚いた。
「お客さん?」
「そう」
「そっか」
結月はそれ以上聞かず、夕凪の言葉を待つ。
夕凪は少し息を吐いた。
「その子ね、最近よく来るの」
「うん」
「受験生だから、あまなぎで勉強してる」
「真面目な子なんだね」
「うん。すごく頑張ってる」
夕凪は少し笑った。
「ココアを飲みながら勉強しててね。焼きたてのパンのサンドイッチを食べたりして」
「へえ」
「それで……」
夕凪の声が小さくなる。
「私のことを、恋愛的に好きみたいなの」
結月の目が少し大きくなった。
「……え?」
「そういうことを言われたの」
「夕凪に?」
「うん」
結月は驚いたまま夕凪を見る。
「その子の名前は?」
「蒼くん」
「蒼くん……」
結月が初めて聞く名前を口にする。
「その子、何歳なの?」
「十八歳」
「十八……」
「うん。高校三年生だから」
夕凪は紅茶を一口飲んだ。
「私は二十五歳」
「七歳差か……」
「うん」
結月はしばらく考えた。
「それで、夕凪はどう思ってるの?」
その質問に、夕凪は黙った。
「……いい子だと思う」
「うん」
「頑張ってるし、素直だし、人の話もちゃんと聞いてくれる」
「うん」
「だから、応援してあげたいと思う」
「うん」
「でも……」
夕凪はカップを見つめた。
「私も、蒼くんに好かれてるのが嫌なわけじゃないの」
結月は黙って聞いている。
「むしろ……嬉しいと思ってる自分もいる」
「うん」
「だから余計に、どうしたらいいのか分からない」
夕凪は小さく息を吐いた。
「未成年だし」
結月はゆっくり頷いた。
「そうだね」
「今、恋愛として応えるのは違うと思ってる」
「私も、そう思う」
結月の言葉は、はっきりしていた。
けれど、責めるようなものではなかった。
「蒼くんがいい子だからって、今すぐ恋愛として応えなくちゃいけないわけじゃないよ」
「うん」
「むしろ、夕凪が大人としてちゃんと線を引いてあげることが大事だと思う」
「……やっぱり、そうだよね」
「うん」
結月は優しく笑った。
「蒼くんの気持ちを否定する必要はないと思う」
「うん」
「好きって気持ちは、その子のものだから」
「うん」
「でも、夕凪がそれに応えるかどうかは別」
夕凪は静かに頷いた。
「今は、受験を応援するくらいがいいんじゃないかな」
「受験を?」
「うん」
「頑張ってねって言ったり?」
「そう。ちゃんと食べて、ちゃんと寝て、無理しないでって」
「……いつも私が言ってることだ」
「そうでしょう?」
二人は少し笑った。
結月は続ける。
「蒼くんが高校を卒業して、大人になって。それでもまだ同じ気持ちだったら、そのとき考えればいい」
「……そのとき」
「うん」
「今、答えを出さなくていい?」
「いいと思う」
夕凪は少しだけ肩の力を抜いた。
「未来のことなんて、誰にも分からないもの」
「うん」
「今は、蒼くんの未来を邪魔しないこと。そして、夕凪自身も無理しないこと」
「……ありがとう」
「ううん」
そのとき、店の奥から声がした。
「結月、紅茶もう一個いる?」
振り返ると、星川るいが立っていた。
「夕凪さん、来てたんですね」
「るいさん」
「こんにちは」
「こんにちは」
るいは二人の様子を見て、少し首を傾げた。
「何か相談?」
夕凪は少し迷った。
けれど、結月を見る。
結月が小さく頷いた。
「実はね」
夕凪が話し始める。
「最近、あまなぎに高校三年生の男の子がよく来るんです」
「高校生?」
「はい」
「それで?」
夕凪は少し恥ずかしそうに言った。
「私のことを、恋愛的に好きみたいで……」
るいも少し驚いた。
「そうなんですか」
「はい」
「夕凪さんは?」
「……私も、その子のことを嫌いなわけじゃないです」
夕凪は正直に話した。
「でも、十八歳で。私は二十五歳だから」
るいは少し考えてから言った。
「今は、焦らなくていいんじゃないですか」
「……はい」
「その子が本気なら、受験も頑張るでしょうし」
「はい」
「今は、その子自身の未来を応援してあげる。それで十分だと思います」
夕凪は頷いた。
「ありがとうございます」
るいが笑う。
「それに、夕凪さんなら大丈夫ですよ」
「どうして?」
「ちゃんと悩んでるから」
その言葉に、夕凪は少し笑った。
結月も頷く。
「そう。夕凪はちゃんと考えてる」
「……二人に相談してよかった」
夕凪の表情が少し柔らかくなった。
結月が立ち上がる。
「じゃあ、帰る前にこれ持って帰って」
「え?」
結月が箱を持ってくる。
「チーズケーキ」
「いいの?」
「もちろん」
夕凪は箱を受け取った。
「あまなぎでも使ってもらってるしね」
「いつもありがとう」
「こちらこそ」
夕凪はチーズケーキの箱を抱えた。
店を出る前、結月が声をかける。
「夕凪」
「うん?」
「蒼くんの気持ちを大切にすることと、蒼くんの気持ちに今すぐ応えることは、同じじゃないよ」
夕凪は静かに頷いた。
「うん」
「今は、待ってあげることも優しさだと思う」
「……分かった」
「そして、夕凪自身の気持ちも、無理に決めなくていい」
「うん」
夕凪は笑った。
「ありがとう、結月」
「いつでも相談して」
「うん」
外へ出る。
湯布院の空は、まだ曇っていた。
けれど、夕凪の心は来たときよりずっと軽くなっていた。
蒼の気持ちを否定しない。
でも、今は恋愛として応えない。
大人として、ちゃんと距離を守る。
そして、蒼が自分の未来へ進めるように、応援する。
もし、いつか。
蒼が高校を卒業して、さらに時間が経って。
それでも同じ気持ちを持っているのなら。
そのときに、改めて考えればいい。
今はまだ、何も決めなくていい。
夕凪はチーズケーキの箱を抱えながら、ゆっくり歩いた。
「あまなぎ」に戻ったら、また蒼が来るかもしれない。
そのときは、いつも通り迎えよう。
「いらっしゃいませ」
そう言って。
ココアを出して。
焼きたてのパンを出して。
そして――。
「勉強、頑張ってね」
今の夕凪にできるのは、それでいい。
誰かの悩みを聞くことはできても、
自分の悩みになると、こんなにも難しい。
だから今日は、
自分も誰かに話を聞いてもらった。
そして、少しだけ分かった。
好きという気持ちは、
急いで答えを出さなくてもいい。
大切だからこそ、
待つこともある。
距離を守ることもある。
応えないことも、
優しさになることがある。
夕凪は空を見上げた。
雲の隙間から、ほんの少しだけ光が差している。
その向こうには、四浦の海がある。
雨の日も、晴れの日も。
海は変わらず、そこにある。
夕凪は小さく笑った。
「……明日、ちゃんといつも通りにしよう」
そして、チーズケーキの箱を抱え直し、
ゆっくりと家へ帰っていった。

