四浦のあまやどり〜雨のち晴れ、ときどき青い奇跡〜

それから、蒼は「あまなぎ」に毎日のように来るようになった。

雨の日だけ開く喫茶店。

だから、毎日雨が降るわけではない。

けれど、雨が降れば――蒼は来た。

「こんにちは、夕凪さん」

「いらっしゃい、蒼くん」

いつもの挨拶。

いつもの席。

そして、いつものように勉強道具を広げる。

「今日は何にする?」

「ココアと、サンドイッチお願いします」

「はい」

蒼は受験勉強をする。

夕凪は、そんな蒼をそっと見守る。

ときどき、蒼が参考書から顔を上げて夕凪を見る。

目が合うと、少し照れたように笑う。

そのたびに夕凪も笑い返す。

そんな日々が続いていた。

ある日には、陸と空も一緒にやって来た。

「お、蒼。またいるじゃん」

「毎日来てない?」

陸と空が笑う。

蒼は少しだけ顔を赤くした。

「……別にいいだろ」

「いいけどさ」

空が夕凪を見る。

それから蒼を見る。

「蒼って、夕凪さんのこと好きだよな」

「えっ」

蒼の顔が一気に赤くなる。

「お前、分かりやすすぎ」

陸も笑う。

「俺も気づいてた」

「……二人とも、うるさい」

「だって毎回、夕凪さんのこと目で追ってるじゃん」

「……」

蒼は何も言えなかった。

図星だった。

夕凪は厨房にいたため、三人の会話を全部聞いていたわけではない。

けれど、蒼が自分を気にしていることは、なんとなく分かっていた。

その日の帰り。

陸と空と別れたあと、蒼は一人で家へ帰った。

玄関を開ける。

「ただいま」

「おかえり、蒼」

母親が台所から顔を出した。

「今日も「あまなぎ」行ってきたの?」

「うん」

「最近よく行くね」

「……うん」

母親は、蒼の様子を見て少し笑った。

何か言いたそうだ。

「蒼」

「なに?」

「好きな人、できた?」

蒼の動きが止まった。

「……なんで?」

「分かるわよ。毎日楽しそうだもの」

蒼はしばらく黙っていた。

そして、意を決したように椅子へ座った。

「……いる」

母親も向かいに座る。

「そっか」

「本気で好きなんだ」

蒼の声は、いつもより真剣だった。

「その人はね……二十五歳」

母親は少し驚いた。

「二十五歳?」

「うん」

「蒼は十八歳だから……七歳差ね」

「うん」

蒼は俯いた。

「だから、変かなって思ってる」

「どうして?」

「だって、七歳も違うし……」

「その人は、蒼のことをどう思ってるの?」

「まだ分からない」

蒼は正直に答えた。

「でも、僕は本気」

その言葉には迷いがなかった。

「今すぐ付き合ってほしいとか、そういうことじゃない」

「うん」

「受験もちゃんと頑張る」

「うん」

「でも、好きっていう気持ちは、嘘じゃない」

母親はしばらく蒼を見つめていた。

そして、優しく笑った。

「じゃあ、大切にしなさい」

「……え?」

「その気持ち」

蒼は驚いた顔をする。

「お母さん、反対しないの?」

「反対する理由がないもの」

「でも、七歳差だよ?」

「七歳差だからって、好きになる気持ちまで否定する必要はないでしょう」

母親はそう言って、蒼の頭を軽く撫でた。

「ただし、相手の気持ちも大切にするのよ」

「うん」

「焦らないこと」

「うん」

「今は高校三年生なんだから、まずは受験」

「分かってる」

「それでも、その人を大切に思う気持ちは持っていていいと思う」

蒼は、少し目を潤ませた。

「……ありがとう」

「本当に好きなんでしょう?」

「うん。本気」

「じゃあ、ちゃんと自分の未来も大切にしなさい」

「未来?」

「その人といつかちゃんと向き合いたいなら、今の自分ができることを頑張るの」

蒼は静かに頷いた。

「うん」

「そして、いつか自分に自信が持てたときに、もう一度その気持ちを伝えたらいい」

「……分かった」

母親は笑った。

「お母さんは、蒼の味方よ」

「……ありがとう」

その夜。

蒼は自分の部屋へ戻った。

机の上には参考書。

そして、ペンケースの横には、以前「あまなぎ」で夕凪からもらった飴玉が一つ残っていた。

蒼はそれを手に取った。

包み紙を眺めながら、少し笑う。

「……頑張らないとな」

飴玉を口に入れる。

甘い味が広がった。

夕凪がくれた、小さな甘さ。

それを力に変えるように、蒼は参考書を開いた。

翌日。

雨が降った。

「あまなぎ」の扉が開く。

カラン、カラン。

「いらっしゃいませ」

夕凪が顔を上げる。

そこには蒼がいた。

「こんにちは、夕凪さん」

「こんにちは。今日も勉強?」

「はい」

蒼はいつもの席に座った。

そして、参考書を開く前に夕凪を見た。

「夕凪さん」

「ん?」

「僕、受験頑張ります」

突然の言葉に、夕凪は少し驚いた。

「うん。頑張ってね」

「はい」

蒼は笑った。

その笑顔は、昨日までより少しだけ強くなっていた。

窓の外では、雨が静かに降っている。

四浦の海も、雨に包まれていた。

まだ何も始まっていない。

けれど、蒼の中には確かに始まったものがある。

十八歳の少年が抱いた、

七つ年上の女性への片想い。

それは、焦って答えを求めるものではない。

今はただ、

自分の未来をしっかり歩くこと。

そしていつか――

胸を張って、

「本気でした」

そう伝えられる自分になること。

雨の「あまなぎ」で、

蒼は今日も参考書を開いた。

その隣には、

小さな飴玉の甘さと、

母親からもらった、

「自分の気持ちを大切にしていい」という背中押しがあった。