四浦のあまやどり〜雨のち晴れ、ときどき青い奇跡〜

雨の四浦は、いつもより静かだった。

山から降りてくる霧が、海を白く包んでいる。

晴れている日なら、道路の先には美しいリアス式海岸と、青く輝く海が見える。

けれど今日は、どこを見ても灰色だった。

そんな雨の日にだけ、静かに扉を開けている喫茶店がある。

「あまなぎ」。

カラン、カラン。

小さなベルの音が響いた。

夕凪がカウンターの奥から顔を上げる。

「いらっしゃいませ」

入ってきたのは、中学生くらいの男の子と、小さな女の子だった。

女の子は、男の子の手をぎゅっと握っている。

二人とも、雨に濡れていた。

「まあ……ずいぶん濡れたね」

夕凪はタオルを二枚持ってきた。

「これ、使ってね」

「ありがとうございます」

男の子はタオルを受け取った。

女の子にも渡す。

「しずく、頭拭いて」

「うん」

しずくはタオルで髪を拭きながら、店内を見回した。

「ここ、いい匂いする」

「ありがとう。何か食べたいものがあったら、ゆっくり選んでね」

夕凪がメニューを渡す。

二人は窓際の席に座った。

しずくはメニューを両手で持って、一生懸命写真を眺めている。

「お兄ちゃん、これ食べたい」

「どれ?」

「プリン」

「じゃあ、プリンにするか」

「うん!」

男の子はメニューを見ながら言った。

「僕は……カフェラテで」

「カフェラテね。ホットでいい?」

「はい」

「しずくちゃんは?」

「りんごジュース!」

「うん。りんごジュースとプリンね」

夕凪は注文を受けて、厨房へ向かった。

しばらくすると、二人の前に飲み物が運ばれてきた。

「お待たせしました」

しずくの前には、冷たいりんごジュース。

そして、つやつやのプリン。

「わぁ……!」

しずくが目を輝かせる。

「いただきます!」

スプーンですくって、一口。

「おいしい!」

その声に、お兄ちゃんも笑った。

「よかったな、しずく」

「うん!」

しずくは嬉しそうにプリンを食べ続ける。

お兄ちゃんはカフェラテを一口飲んだ。

温かさが身体に広がっていく。

けれど――

どこか落ち着かない。

何度も窓の外を見る。

夕凪は、それに気づいていた。

でも、急かさない。

しばらくして。

お兄ちゃんがカップをテーブルに置いた。

そして、夕凪のほうを見た。

「……あの」

「はい」

「夕凪さん」

「どうしたの?」

夕凪が優しく返事をする。

男の子は、少し迷ってから口を開いた。

「……僕、ちょっと相談してもいいですか?」

「もちろん」

夕凪はカウンターから出て、二人のテーブルの近くまで来た。

「話したくなったことからで大丈夫だよ」

男の子は俯いた。

「……家で、パパとママがずっとケンカしてるんです」

しずくの手が止まった。

「……うん」

「最近、毎日のようにケンカしてて」

男の子はカフェラテのカップを見つめている。

「大きな声で言い合ったりして……」

「うん」

「しずくが怖がるから、僕が別の部屋に連れて行ったりしてます」

しずくが、お兄ちゃんを見る。

「お兄ちゃん……」

「大丈夫だよ」

そう言ってから、お兄ちゃんは夕凪を見る。

「でも……本当は僕も怖いんです」

その言葉が、店内に静かに落ちた。

夕凪はすぐには答えなかった。

ただ、ゆっくりとうなずいた。

「……そうだよね」

「僕、お兄ちゃんだから……しっかりしなきゃって思って」

「うん」

「しずくの前では、怖くないふりしてるんです」

「うん」

「でも……」

男の子の声が震えた。

「どうしたらいいのか、わからないです」

夕凪は静かに言った。

「ここでは、怖くないふりをしなくていいよ」

男の子が顔を上げる。

「……え?」

「お兄ちゃんだからって、いつも強くいなくていいの」

男の子は、しばらく夕凪を見つめていた。

「……僕、しずくを守りたいんです」

「うん」

「でも、僕一人じゃ無理です」

「そうだね」

夕凪は否定しなかった。

「一人で全部解決しようとしなくていいよ」

男の子の目に、少しだけ涙が浮かぶ。

「……でも、パパとママが離れたら、しずくがかわいそうで」

しずくが顔を上げた。

「しずく、お兄ちゃんがいれば大丈夫だよ」

お兄ちゃんは、しずくを見る。

「……そっか」

夕凪は二人に向かって話した。

「パパとママがどうするかは、大人が考えることだからね」

「……はい」

「二人が仲直りできるようにすることも、離れることも、それは二人の問題」

夕凪は続けた。

「だから、お兄ちゃんもしずくちゃんも、自分たちが悪いんだって思わなくていいよ」

「……僕たち、悪くない?」

「うん。悪くないよ」

しずくが小さな声で言った。

「しずくも?」

「もちろん。しずくちゃんも悪くない」

「……よかった」

しずくは、ほっとしたように笑った。

お兄ちゃんも、少しだけ肩の力が抜けた。

「それからね」

夕凪が続ける。

「家でケンカが続いて怖いときは、学校の先生や保健室の先生、信頼できる大人に話していいんだよ」

「……親に言わなくても?」

「一人で抱え込むより、助けてくれる大人に相談することは大切だから」

「……はい」

「もし、家で危ないことが起きそうなときは、しずくちゃんを連れて安全な場所に逃げてね。そして、近くの大人に助けを求めること」

お兄ちゃんは真剣な顔でうなずいた。

「わかりました」

そして、しずくを見る。

「しずく」

「なあに?」

「怖かったら、すぐ僕に言って」

「うん」

「でも、僕にもできないことがあるから……先生にも相談しよう」

「先生?」

「うん」

「一緒に?」

「一緒に」

「わかった」

しずくが笑った。

その笑顔を見て、お兄ちゃんも笑った。

その様子を見ながら、夕凪は少し安心した。

「二人とも、今日はよく話してくれたね」

「……ありがとうございます」

お兄ちゃんが頭を下げる。

「話してよかったです」

「そう思ってくれたならよかった」

夕凪が微笑む。

「ところで……」

夕凪は、しずくの前に残っているプリンを見る。

「しずくちゃん、プリンまだあるよ?」

「うん!」

「ゆっくり食べていいからね」

「はい!」

しずくはまたプリンを食べ始めた。

その姿を見て、お兄ちゃんが笑う。

「しずく、プリン好きだもんな」

「大好き!」

「知ってる」

「あのね、お兄ちゃん」

「ん?」

「お兄ちゃんも食べる?」

「いいよ」

「一口だけ!」

「じゃあ、一口」

しずくがスプーンでプリンをすくって、お兄ちゃんに差し出す。

「はい」

「ありがとう」

お兄ちゃんが食べる。

「……おいしい」

「でしょ?」

二人が笑った。

その笑い声を聞いた夕凪は、厨房へ向かった。

しばらくして、二人のテーブルに小さなお皿を置く。

「はい。これはサービス」

お兄ちゃんの前には、チーズケーキ。

しずくの前には、チョコレートケーキ。

「え……?」

お兄ちゃんが驚く。

「いいんですか?」

「うん」

「なんで?」

「今日は二人とも、いっぱい頑張ったから」

「……ありがとうございます」

しずくはチョコレートケーキを見つめて大喜び。

「しずくちゃんのケーキだよ」

「ありがとう、夕凪さん!」

「どういたしまして」

しずくはフォークを持って、一口。

「おいしい!」

「よかった」

「夕凪さんのお店、大好き!」

「ふふ。ありがとう」

お兄ちゃんもチーズケーキを一口食べる。

「……おいしい」

「でしょう?」

「これ、どこのチーズケーキですか?」

「湯布院の『むすび洋菓子店』から仕入れてるの」

「へえ……」

「私の友達のお店なんだよ」

「そうなんですね」

二人はケーキをゆっくり食べた。

さっきまでの緊張が、少しずつほどけていく。

窓の外では、まだ雨が降っている。

けれど、さっきより音が小さくなっていた。

しずくが窓の外を見る。

「雨、弱くなったね」

「ほんとだな」

お兄ちゃんも外を見る。

霧の向こうに、ほんの少しだけ明るい空が見えた。

「雨が止んだら、海見える?」

しずくが夕凪に聞く。

「うん。きれいな海が見えるよ」

「見たい!」

「じゃあ、また晴れた日に来たらいいよ」

「お兄ちゃんと?」

「うん」

「また来ようね、お兄ちゃん」

「うん。また来よう」

お兄ちゃんが笑う。

しずくも笑う。

その笑顔を見て、夕凪も笑った。

やがて二人は席を立った。

「今日はありがとうございました」

お兄ちゃんが頭を下げる。

「こちらこそ。話してくれてありがとう」

しずくもぺこっと頭を下げた。

「ありがとうございました!」

「どういたしまして」

扉の前まで行ったところで、しずくが振り返る。

「夕凪さん!」

「ん?」

「またプリン食べに来るね!」

「うん。待ってるよ、しずくちゃん」

カラン、カラン。

二人が外へ出ていく。

お兄ちゃんがしずくの手を握る。

しずくも、その手をぎゅっと握り返す。

雨はまだ降っている。

けれど、二人の歩く道の先には、少しだけ光が見えていた。

店内に戻った夕凪は、窓の外を眺める。

雨の向こうにある四浦の海。

心が曇っている日は、先のことが見えなくなる。

何をすればいいのかも。

どこへ行けばいいのかも。

わからなくなる。

それでも――

誰かに話すだけで、

少しだけ心が軽くなることがある。

一人で抱えなくてもいいと知るだけで、

少しだけ前を向けることがある。

そして、ほんの少し笑えるなら。

それだけでも、十分なのかもしれない。

「あまなぎ」は今日も、

雨の日に訪れた心を、

そっと休ませていた。

そして雨の中、小さな女の子――しずくの笑顔は、

まるで雲の隙間から差し込んだ光のように、

静かに輝いていた。