四浦のあまやどり〜雨のち晴れ、ときどき青い奇跡〜

 四浦の海には、朝から細かな雨が降っていた。

 窓ガラスを伝う雨粒の向こうで、海は白い霧に包まれている。

 夕凪は、いつものように「あまなぎ」の店内を整えていた。

 雨の日だけ開く、小さな喫茶店。

 今日もまた、誰かの心に雨が降っているのかもしれない。

 カラン、カラン。

「いらっしゃいませ」

 扉が開いた。

 入ってきたのは、若い女性と小さな男の子だった。

 二歳くらいの男の子は、母親の手をしっかり握っている。

「こんにちは」

 女性が小さく頭を下げる。

「こんにちは。こちらのお席へどうぞ」

 二人は窓際の席に座った。

 男の子は窓の外を眺めていた。

「秀くん、何食べたい?」

 母親がメニューを開いて尋ねる。

「からあげ!」

 秀くんが元気よく答えた。

「唐揚げ?」

「うん!」

 夕凪は笑った。

「それなら、お子様ランチがありますよ。唐揚げもついています」

「じゃあ、それをお願いします」

「飲み物はいかがしますか?」

「オレンジジュース!」

「オレンジジュースですね」

 秀くんは嬉しそうに頷いた。

 夕凪は母親に目を向ける。

「お客様はいかがなさいますか?」

「私は……唐揚げ定食と、ウーロン茶をお願いします」

「かしこまりました」

 夕凪は注文を受けると、厨房へ向かった。

 秀くんのお子様ランチには、食べやすい大きさの唐揚げを盛り付ける。

 ご飯と野菜を添え、オレンジジュースをグラスに注ぐ。

 女性には、揚げたての唐揚げ定食とウーロン茶。

「お待たせしました」

 テーブルに料理を並べる。

「わぁ!」

 秀くんの顔がぱっと明るくなる。

「からあげ!」

「熱いから、気をつけて食べてね」

「うん!」

 秀くんは嬉しそうに唐揚げを食べ始めた。

「おいしい?」

「おいしい!」

 母親も、そんな秀くんを見て少し笑った。

 けれど、その笑顔はすぐに消えた。

 女性はウーロン茶を一口飲み、窓の外を見つめた。

 夕凪は、無理に話しかけなかった。

 しばらくして、女性が小さな声で口を開いた。

「……あの」

「はい」

「少し……話を聞いてもらってもいいですか?」

「もちろんです」

 夕凪は穏やかに答えた。

「主人と……別れようか悩んでいるんです」

「そうなんですね」

 女性は、両手でグラスを包んだ。

「友人から聞いたんです」

「はい」

「主人に、他の女性がいるんじゃないかって」

 夕凪は黙って聞いた。

「友人が見たらしいんです。主人が、知らない女性と子どもを連れて歩いていたって」

「……」

「女の子だったそうです」

 女性は俯いた。

「最初は、信じたくありませんでした」

 少し間を置いて、続ける。

「でも、気になって……調べたんです」

「はい」

「相手の女性は、短い髪の毛だった」

「……」

「一緒にいた女の子は、髪の毛が長かった」

 女性の手が震える。

「それに主人は、土日は夜にしか家にいないことが増えていました」

 夕凪は、静かに耳を傾けていた。

「ある日、友人のお子さんと公園で遊んでいたんです」

「はい」

「そこに……主人と、その女性と、子どもが来たんです」

 女性は一度、言葉を止めた。

「友人が、私のことを心配してくれて……」

「……」

「主人たちが遊んでいる間に、その子の髪の毛を一本、持ってきてくれたんです」

「髪の毛を?」

「はい。『ゴミがついているよ』って言って」

 女性は俯いた。

「それを鑑定に出しました」

 夕凪は何も言わずに聞いている。

「親子関係が認められたんです」

「……」

「主人の子どもでした」

 女性の目から、涙が落ちた。

「私……どうしたらいいんですか?」

 夕凪は、すぐには答えなかった。

「秀くんが可哀想で……」

「……」

「主人と別れたら、秀くんからパパがいなくなる」

 女性は、秀くんを見つめる。

「私は……秀くんからパパを奪いたくないんです」

 夕凪はゆっくりと話した。

「まず、今すぐ離婚するかどうかを決めなくてもいいと思います」

「……」

「お子さんがいるからこそ、これからの生活や住む場所のことも含めて、落ち着いて考えていいんです」

「でも……主人に何て言えばいいのか」

「一人で話し合うのが難しいなら、信頼できる家族や友人に同席してもらう方法もあります」

「はい」

「すでに持っているメッセージや写真、記録などがあるなら、大切に保管しておくことも必要です」

「分かりました」

「そして、一人で調べ続けて、自分の心を追い詰めすぎないでください」

 女性は黙って頷いた。

「必要なら、専門の相談窓口や法律の専門家に相談することもできます」

「……相談していいんですね」

「もちろんです」

 夕凪は優しく笑った。

「別れることが正解とも、別れないことが正解とも、私は言えません」

「はい」

「でも、ママがずっと苦しいままでいる必要もないと思います」

 女性の目から、また涙がこぼれた。

「私も……幸せになっていいんでしょうか」

「もちろんです」

「母親なのに?」

「母親だからこそ、自分の心も大切にしていいんですよ」

 そのときだった。

「ママ」

 秀くんが、母親の顔を覗き込んでいた。

「ん?」

「ママ、泣いてる?」

 女性は慌てて涙を拭った。

「……ちょっとだけね」

「なんで?」

 女性は、答えられなかった。

 秀くんはしばらく母親の顔を見つめていた。

 そして、小さな手で母親の手をぎゅっと握る。

「ママ……」

「うん?」

「ママの苦しい顔、見たくない」

 女性の目から、涙がこぼれた。

「秀くん……」

「ママ、笑ってほしい」

 その言葉に、女性は口元を震わせた。

「……うん」

 涙を拭いながら、笑顔を作る。

「ありがとう、秀くん」

「笑った?」

「うん」

「よかった!」

 秀くんは嬉しそうに笑った。

 夕凪も、静かに微笑んだ。

「秀くん、ママのこと大好きなんだね」

「うん!」

 小さな手は、まだ何も解決できない。

 けれど、ママの苦しさを感じ取っている。

 その純粋な優しさは、確かに母親の心に届いていた。

 夕凪は、ふと厨房へ目を向ける。

 そして、少し考えてから秀くんに声をかけた。

「秀くん」

「ん?」

「デザート、サービスで出そうと思うんだけど……どれがいい?」

「サービス?」

「そう。あまなぎからのプレゼント」

 夕凪は、ショートケーキ、プリン、チーズケーキを見せた。

 秀くんは三つをじっと見比べる。

「どれがいい?」

 しばらく考えたあと――。

「これ!」

 小さな指がショートケーキを指した。

「ショートケーキ?」

「うん!」

「どうしてショートケーキがいいの?」

 夕凪が尋ねる。

 秀くんは、ショートケーキを見て、それからママを見る。

「ママにあげる」

 女性が驚いた。

「え?」

「ママ、これ食べて」

「……」

「ママ、苦しい顔してるの、やだ」

 女性の目から、また涙がこぼれた。

「秀くん……」

「ママ、笑ってほしい」

 夕凪は微笑んだ。

「じゃあ、ショートケーキにしようね」

「うん!」

 夕凪は厨房へ向かい、ショートケーキを一皿に盛り付けた。

 真っ白な生クリーム。

 赤いいちご。

 小さな子どもでも食べやすいように、少し小さめに切った。

 そして、テーブルへ運ぶ。

「お待たせしました」

 女性が顔を上げる。

「こちら、あまなぎからのサービスです」

「ありがとうございます……」

 秀くんは嬉しそうにショートケーキを見る。

「ママの!」

「私に?」

「うん!」

 女性は、ショートケーキを見つめた。

「秀くんが選んでくれたの?」

「うん!」

「ママのために?」

「うん!」

 女性は秀くんの頭を優しく撫でた。

「ありがとう」

「笑った?」

 秀くんが顔を覗き込む。

 女性は涙を流しながら笑った。

「うん」

「ちゃんと笑ったよ」

「よかった!」

 秀くんも嬉しそうに笑った。

「一緒に食べようか」

「うん!」

 二人でショートケーキを食べる。

「美味しい?」

「おいしい!」

「ママも?」

「うん。美味しいよ」

 女性の顔には、来店したときにはなかった笑顔が浮かんでいた。

 夕凪は、その姿を静かに見つめていた。

 夫とのことは、まだ何も決まっていない。

 これからどうするのかも、分からない。

 けれど――。

 今日、女性は一人で抱え込まなくていいと知った。

 そして、秀くんの小さな手が、母親の心を少しだけ支えてくれた。

「ママ」

「なあに?」

「また笑ってね」

「うん」

 女性は秀くんを抱きしめた。

「いっぱい笑うね」

「いっぱい?」

「うん。いっぱい」

 秀くんは嬉しそうに笑った。

 やがて二人は食事を終え、レジへ向かった。

「ありがとうございました」

 女性は深く頭を下げた。

「こちらこそ、ありがとうございました」

 秀くんが夕凪に手を振る。

「バイバイ!」

「また来てね、秀くん」

「うん!」

 カラン、カラン。

 二人が店を出ていく。

 雨は、いつの間にか止んでいた。

 雲の切れ間から、四浦の海へ光が差し込んでいる。

 まだ、親子の未来は決まっていない。

 夫とどうするのか。

 これからどこで暮らすのか。

 すぐに答えを出す必要はない。

 ただ、一つだけ。

 この親子が安心して笑える未来を探していく。

 そのために、誰かの力を借りてもいい。

 一人で抱えなくてもいい。

 それだけは、今日から変えていける。

 夕凪は、空になったショートケーキの皿を片付けながら、窓の外を見た。

「秀くんとママが、これからも笑っていられますように」

 四浦の海が、雨上がりの光を受けて輝いていた。

 雨のあとには、必ず光が差す。

 「あまなぎ」は今日も、誰かの心に降った雨が、少しだけ凪ぐ場所だった。