四浦のあまやどり〜雨のち晴れ、ときどき青い奇跡〜

 午後の「あまなぎ」。

 四浦の海は、穏やかだった。

 窓から差し込む光が、テーブルの上を柔らかく照らしている。

 店内には、コーヒーの香りと、焼きたてのパンの香りが静かに漂っていた。

 カラン、カラン。

「いらっしゃいませ」

 夕凪が顔を上げる。

 入ってきたのは、高齢の夫婦だった。

 旦那さんは、奥様の歩幅に合わせるように、ゆっくり歩いている。

「こちらのお席へどうぞ」

「ありがとう」

 二人は窓際の席に並んで座った。

 奥様は窓の外を眺める。

「海、綺麗ね」

「そうだね」

 旦那さんが優しく答える。

 夕凪は二人にメニューを渡した。

「ご注文がお決まりになったら、お声かけくださいね」

「はい」

 二人はしばらくメニューを眺めていた。

「何にする?」

 旦那さんが奥様に尋ねる。

「これがいい」

 奥様が指差したのは、レアチーズケーキだった。

「じゃあ、レアチーズケーキにしようか」

「うん」

 旦那さんは夕凪を見る。

「私はコーヒーとチーズケーキをお願いします」

「はい」

「妻は、レアチーズケーキとオレンジジュースを」

「かしこまりました」

 夕凪は厨房へ向かった。

 チーズケーキをお皿に盛る。

 レアチーズケーキも、崩れないようにそっと盛り付ける。

 コーヒーを淹れ、オレンジジュースをグラスに注ぐ。

 そして――。

 冷蔵庫から真っ赤ないちごを取り出した。

「今日は、これも添えよう」

 夕凪は、二人のケーキの横にいちごを一粒ずつ添えた。

 小さなサービスだった。

「お待たせしました」

 夕凪は二人の席へ料理を運んだ。

 旦那さんの前には、チーズケーキとコーヒー。

 奥様の前には、レアチーズケーキとオレンジジュース。

 そして、それぞれのケーキの横には、真っ赤ないちごが一粒。

「あら?」

 奥様がいちごを見つめる。

「いちご」

「はい。今日はサービスです」

 夕凪が笑った。

「お二人に一粒ずつです」

「まぁ……」

 奥様が嬉しそうに笑った。

「かわいいね」

「食べてみる?」

「うん」

 奥様はいちごを手に取り、一口食べた。

「甘い」

「美味しいね」

 旦那さんも笑った。

「ありがとうございます」

「いえいえ。ゆっくり召し上がってください」

 二人はケーキを食べ始めた。

 奥様はレアチーズケーキを一口。

「美味しい」

「よかったね」

 旦那さんはコーヒーを一口飲み、チーズケーキを食べる。

「うん。美味しい」

 しばらく二人は静かに食事をしていた。

 そのとき――。

 奥様が、ふと旦那さんの皿を見た。

「あなた」

「ん?」

「いちご、あるよ」

「うん」

 旦那さんの皿には、夕凪がサービスで添えたいちごが一粒残っていた。

 奥様は自分のいちごを見つめ、それから旦那さんのいちごを見る。

 そして、そっと手を伸ばした。

「これ……」

 旦那さんのいちごを指差す。

「あなたの」

「僕の?」

「うん」

 奥様は、いちごを旦那さんのほうへ、そっと差し出した。

「食べて」

 旦那さんは一瞬、言葉を失った。

 そして、優しく笑った。

「ありがとう」

 奥様は、嬉しそうに笑う。

「どういたしまして」

 旦那さんはいちごを受け取った。

「いただきます」

 一口食べる。

「甘いね」

「でしょう?」

 奥様は満足そうに笑った。

 その様子を、夕凪は少し離れたところから見ていた。

 旦那さんは、奥様を見つめている。

 その目には、寂しさと、それ以上の優しさがあった。

 しばらくして――。

「……実はね」

 旦那さんが、ぽつりと口を開いた。

「はい」

「私たち、今、これからのことを考えているんです」

「これからのこと?」

「ええ」

 旦那さんは奥様を見た。

「今は孫と一緒に暮らしているんです」

「そうなんですね」

「孫がよくしてくれてね」

 旦那さんは嬉しそうに話した。

「買い物をしてくれたり、病院に付き添ってくれたり」

「優しいお孫さんなんですね」

「ええ」

 けれど、その表情が少し曇った。

「だからこそ……迷惑をかけたくないんです」

 夕凪は静かに聞いた。

「妻がね」

 旦那さんは奥様を見る。

「アルツハイマーなんです」

 奥様は、何も言わずにレアチーズケーキを食べている。

「少しずつ、いろんなことを忘れていってます」

「……」

「最近は、私のことも分からなくなることがある」

 旦那さんは寂しそうに笑った。

「昔は、私の名前を呼んでくれたんですけどね」

 夕凪は、何も急かさずに話を聞いていた。

 すると――。

 奥様が旦那さんの顔を見る。

「あなた……」

「うん?」

「どなた?」

 旦那さんは、一瞬だけ目を伏せた。

 けれど、すぐに優しく笑った。

「僕だよ」

「僕?」

「そう。いつも一緒にいる人」

 奥様は少し考えた。

 そして、にこっと笑った。

「そうなの?」

「そうだよ」

「ふふ」

 奥様はまたレアチーズケーキを食べ始めた。

 旦那さんは、その姿を優しく見つめている。

「施設に夫婦で入ろうかとも考えているんです」

「……」

「でも、妻がどう思うのか」

 旦那さんはコーヒーを見つめた。

「孫に迷惑をかけたくない気持ちもある」

「うん」

「でも……」

 旦那さんは奥様を見る。

「妻には最後まで笑顔でいてほしいんです」

 その言葉だけは、迷いがなかった。

「名前を忘れてもいい」

 旦那さんの声が少し震える。

「私のことを忘れてもいいんです」

 夕凪は静かに聞いている。

「でも、妻が笑っていられる場所で暮らしてほしい」

 夕凪は二人を見つめた。

「だったら……」

「はい」

「ご夫婦で、ゆっくり話してみてはいかがでしょう」

 旦那さんが顔を上げる。

「施設に入るか、今の家で暮らすかだけじゃなくて」

「……」

「どんな場所なら奥様が安心できるのか」

「うん」

「お孫さんには、どこまでなら手伝ってもらえるのか」

「……はい」

「そして、旦那さん自身が無理をしすぎないためには、どうしたらいいのか」

 夕凪は優しく続けた。

「施設に入ることは、家族を大切にしていないことではないと思います」

 旦那さんは黙って聞いている。

「誰かに助けてもらうことも、奥様を大切にする方法の一つかもしれません」

「……そうですね」

「ご家族や専門の方にも相談しながら、お二人が安心して暮らせる場所を探してみてもいいと思います」

 夕凪は微笑んだ。

「私は、あくまでも助言しかできませんけど」

 旦那さんは、しばらく考えていた。

 そして――。

 奥様の手に、そっと自分の手を重ねた。

「一緒に考えようか」

 奥様が旦那さんを見る。

「何を?」

「これから、どこで暮らすか」

「あなたと一緒?」

「もちろん」

 奥様は嬉しそうに笑った。

「じゃあ、一緒がいい」

 旦那さんの目に、少し涙が浮かんだ。

「うん。一緒に考えよう」

 奥様は、残ったレアチーズケーキを食べる。

「美味しいね」

「美味しいね」

「また来たい」

「また来ようか」

「うん」

「また一緒に来よう」

 奥様は嬉しそうに笑った。

 その笑顔を見て、旦那さんも笑った。

 夕凪は、その二人を見ながら思った。

 忘れてしまうことが増えても。

 思い出せない日があっても。

 今、この瞬間に感じる安心や嬉しさまで、すべて消えてしまうわけではない。

 旦那さんのいちごを見つけて、そっと渡したこと。

 「食べて」と言ったこと。

 それは、長い年月を一緒に過ごしてきた二人の間にある、言葉だけでは表せない優しさなのかもしれない。

 だからこそ、これから先のことを二人だけで抱え込まなくていい。

 家族に相談してもいい。

 専門家に相談してもいい。

 施設を選んでもいい。

 今の家で暮らす方法を探してもいい。

 二人にとって、一番安心できる場所を探していけばいい。

 やがて二人は、ゆっくりと食事を終えた。

「ごちそうさまでした」

 旦那さんが笑った。

「今日は来てよかったです」

「そう言ってもらえてよかったです」

 奥様も笑っている。

「また来るね」

「はい。いつでもお待ちしています」

 二人は席を立った。

 旦那さんが奥様の手を取る。

 奥様はその手を握り返した。

「行こうか」

「うん」

 二人はゆっくりレジへ向かった。

「お会計お願いします」

「はい」

 夕凪が伝票を確認する。

「コーヒーとチーズケーキ、レアチーズケーキとオレンジジュースですね」

「はい」

 旦那さんは財布を取り出し、会計を済ませた。

「いちごはサービスなので、お会計には入っていません」

「ありがとうございます」

「こちらこそ、ありがとうございました」

 奥様が夕凪を見る。

「また、いちごある?」

 夕凪は笑った。

「もちろん。美味しいいちごを用意しておきますね」

「あなたの分もね」

 奥様が旦那さんを見る。

「うん。ありがとう」

 二人は顔を見合わせて笑った。

「また来てくださいね」

「ええ」

 二人は手を繋いだまま、店の扉へ向かった。

「また来ようね」

「うん。また一緒に来よう」

 カラン、カラン。

 二人が店を出ていく。

 夕凪は、二人の背中を見送った。

 きっと、これからも迷う日がある。

 それでも二人なら、何度でも話し合える。

 たとえ昨日のことを忘れてしまっても。

 今日、笑ったことは――。

 今日という一日は、確かに二人のものだから。

 窓の外では、四浦の海が静かに揺れている。

 夕凪は、二人が座っていたテーブルを片付けながら、小さく呟いた。

「ずっと、一緒に笑っていられますように」

 今日も「あまなぎ」で、誰かの心に降った雨が、ほんの少しだけ凪いでいた。