その日の「あまなぎ」。
カラン、カラン。
「いらっしゃいませ」
夕凪が顔を上げると、まだ少しスーツが身体になじんでいない青年が入ってきた。
新社会人だろうか。
鞄を大事そうに抱えながら、店内を見渡している。
「お一人ですか?」
「はい……」
「好きな席へどうぞ」
青年は窓際の席に座った。
メニューを開いて、しばらく悩む。
「ナポリタンと……ウーロン茶をお願いします」
「はい。少々お待ちください」
夕凪は厨房へ向かった。
フライパンを温め、玉ねぎ、ピーマン、ウインナーを炒める。
ケチャップの香りが店内に広がっていく。
出来上がったナポリタンをお皿に盛り、ウーロン茶と一緒に運ぶ。
「お待たせしました」
「ありがとうございます」
青年はナポリタンを一口食べた。
「……美味しい」
けれど、その表情はどこか寂しそうだった。
夕凪は無理に話しかけず、少し離れたカウンターで見守った。
しばらくして――。
「……僕」
青年がぽつりと口を開いた。
「うん?」
「この仕事、向いてるか分かんないんです」
夕凪は青年のほうを向いた。
「そうなんだね」
「同期も、みんな辞めていきました」
「……」
「最初は何人もいたんです」
青年はウーロン茶を見つめた。
「一緒に頑張ろうって言ってたのに」
「うん」
「一人、また一人って辞めていって……」
気づけば、自分だけになっていた。
「僕も辞めたほうがいいのかなって思うんです」
夕凪は、すぐには答えなかった。
「辞めたい?」
「……分かりません」
「じゃあ、今すぐ答えを出さなくてもいいんじゃないかな」
「え?」
「向いているかどうかって、入ったばかりでは分からないこともあるから」
青年は黙って聞いている。
「同期が辞めたから、自分も辞めなきゃいけないわけじゃない」
「……」
「逆に、自分だけ残ったからって、残り続けなきゃいけないわけでもない」
夕凪は優しく続けた。
「大切なのは、周りがどうしたかじゃなくて、あなた自身がどうしたいか」
「僕自身……」
「うん」
青年は少し考えた。
「本当は……もう少しやってみたいです」
「じゃあ、もう少しやってみてもいいんじゃないかな」
「でも、向いてなかったら……」
「向いてないと思う日があってもいいよ」
夕凪は笑った。
「仕事って、得意なことだけじゃないから」
「……」
「失敗したり、怒られたり、落ち込んだりしながら、少しずつできるようになることもある」
青年はナポリタンをもう一口食べた。
「僕、辞めたいって思ったのに……辞めるって決めるのも怖くて」
「それなら、まだ決める時期じゃないのかもしれないね」
「……はい」
「明日辞めるか、十年続けるか。その二つだけじゃないよ」
青年の表情が、少しだけ緩んだ。
「明日行ってみる」
「うん」
「それで、もう一日やってみる」
「それでいいと思う」
「一日ずつ?」
「一日ずつ」
青年は小さく笑った。
そのとき、夕凪がカウンターから小さなお皿を持ってきた。
「これ、よかったらどうぞ」
「……プリン?」
「うん。サービス」
「えっ、いいんですか?」
「もちろん」
夕凪はプリンをテーブルに置いた。
「今日はいっぱい悩んだみたいだから、甘いものでも食べて帰って」
青年は、少し驚いたようにプリンを見つめる。
「ありがとうございます」
スプーンですくって、一口。
「……美味しい」
「ふふ」
「なんか……今日、ここに来てよかったです」
「そう思ってもらえたなら、よかった」
青年はプリンをゆっくり食べた。
そして、最後の一口を食べ終えると、少しだけ背筋を伸ばした。
「また来てもいいですか?」
「もちろん」
「今度は、仕事でいいことがあったときに来ます」
「待ってるね」
青年は会計を済ませ、店を出ていった。
カラン、カラン。
扉が閉まる。
夕凪は、その背中を見送った。
同期がいなくなった。
だからといって、自分の道までなくなったわけではない。
向いているかどうかなんて、今日だけでは決められない。
続けることも。
辞めることも。
最後に決めるのは、自分自身。
けれど今日の彼は、少なくとも明日を迎えてみようと思えた。
それだけで、十分だった。
窓の外には、夕暮れの四浦の海。
波は静かに寄せては返している。
「あまなぎ」では今日もまた。
迷っている誰かの心が、ほんの少しだけ凪いでいた。
カラン、カラン。
「いらっしゃいませ」
夕凪が顔を上げると、まだ少しスーツが身体になじんでいない青年が入ってきた。
新社会人だろうか。
鞄を大事そうに抱えながら、店内を見渡している。
「お一人ですか?」
「はい……」
「好きな席へどうぞ」
青年は窓際の席に座った。
メニューを開いて、しばらく悩む。
「ナポリタンと……ウーロン茶をお願いします」
「はい。少々お待ちください」
夕凪は厨房へ向かった。
フライパンを温め、玉ねぎ、ピーマン、ウインナーを炒める。
ケチャップの香りが店内に広がっていく。
出来上がったナポリタンをお皿に盛り、ウーロン茶と一緒に運ぶ。
「お待たせしました」
「ありがとうございます」
青年はナポリタンを一口食べた。
「……美味しい」
けれど、その表情はどこか寂しそうだった。
夕凪は無理に話しかけず、少し離れたカウンターで見守った。
しばらくして――。
「……僕」
青年がぽつりと口を開いた。
「うん?」
「この仕事、向いてるか分かんないんです」
夕凪は青年のほうを向いた。
「そうなんだね」
「同期も、みんな辞めていきました」
「……」
「最初は何人もいたんです」
青年はウーロン茶を見つめた。
「一緒に頑張ろうって言ってたのに」
「うん」
「一人、また一人って辞めていって……」
気づけば、自分だけになっていた。
「僕も辞めたほうがいいのかなって思うんです」
夕凪は、すぐには答えなかった。
「辞めたい?」
「……分かりません」
「じゃあ、今すぐ答えを出さなくてもいいんじゃないかな」
「え?」
「向いているかどうかって、入ったばかりでは分からないこともあるから」
青年は黙って聞いている。
「同期が辞めたから、自分も辞めなきゃいけないわけじゃない」
「……」
「逆に、自分だけ残ったからって、残り続けなきゃいけないわけでもない」
夕凪は優しく続けた。
「大切なのは、周りがどうしたかじゃなくて、あなた自身がどうしたいか」
「僕自身……」
「うん」
青年は少し考えた。
「本当は……もう少しやってみたいです」
「じゃあ、もう少しやってみてもいいんじゃないかな」
「でも、向いてなかったら……」
「向いてないと思う日があってもいいよ」
夕凪は笑った。
「仕事って、得意なことだけじゃないから」
「……」
「失敗したり、怒られたり、落ち込んだりしながら、少しずつできるようになることもある」
青年はナポリタンをもう一口食べた。
「僕、辞めたいって思ったのに……辞めるって決めるのも怖くて」
「それなら、まだ決める時期じゃないのかもしれないね」
「……はい」
「明日辞めるか、十年続けるか。その二つだけじゃないよ」
青年の表情が、少しだけ緩んだ。
「明日行ってみる」
「うん」
「それで、もう一日やってみる」
「それでいいと思う」
「一日ずつ?」
「一日ずつ」
青年は小さく笑った。
そのとき、夕凪がカウンターから小さなお皿を持ってきた。
「これ、よかったらどうぞ」
「……プリン?」
「うん。サービス」
「えっ、いいんですか?」
「もちろん」
夕凪はプリンをテーブルに置いた。
「今日はいっぱい悩んだみたいだから、甘いものでも食べて帰って」
青年は、少し驚いたようにプリンを見つめる。
「ありがとうございます」
スプーンですくって、一口。
「……美味しい」
「ふふ」
「なんか……今日、ここに来てよかったです」
「そう思ってもらえたなら、よかった」
青年はプリンをゆっくり食べた。
そして、最後の一口を食べ終えると、少しだけ背筋を伸ばした。
「また来てもいいですか?」
「もちろん」
「今度は、仕事でいいことがあったときに来ます」
「待ってるね」
青年は会計を済ませ、店を出ていった。
カラン、カラン。
扉が閉まる。
夕凪は、その背中を見送った。
同期がいなくなった。
だからといって、自分の道までなくなったわけではない。
向いているかどうかなんて、今日だけでは決められない。
続けることも。
辞めることも。
最後に決めるのは、自分自身。
けれど今日の彼は、少なくとも明日を迎えてみようと思えた。
それだけで、十分だった。
窓の外には、夕暮れの四浦の海。
波は静かに寄せては返している。
「あまなぎ」では今日もまた。
迷っている誰かの心が、ほんの少しだけ凪いでいた。

