四浦のあまやどり〜雨のち晴れ、ときどき青い奇跡〜

第一章 心に降る雨

 四浦の海を見下ろす、一本の細い道。

 晴れた日には、青い海と空がどこまでも広がっている。

 けれど、雨の日になると景色は一変する。

 海は白い霧に包まれ、山道には雨音だけが響く。

 そんな道の途中に、一軒の小さな喫茶店があった。

 木々に囲まれた、ガラス張りの店。

 入口には、手作りの木の看板が掛かっている。

 そこには、柔らかな文字でこう書かれていた。

 『喫茶 あまなぎ』

 店主の名前は、夕凪。

 この喫茶店は、雨の日だけ営業している。

 変わった店だと思われることもある。

 けれど夕凪には、雨の日だけ店を開ける理由があった。

 心にも、雨が降ることがあるから。

 仕事に疲れた人。

 恋に悩む人。

 家族との関係に苦しむ人。

 学校で居場所をなくした人。

 自分の将来が分からなくなった人。

 そんな人たちが、なぜか雨の日になると、この店へたどり着く。

 今日も、朝から激しい雨が降っていた。

 夕凪はカウンターの中で、お湯を沸かしていた。

 そのとき――。

 カラン……。

 小さなベルの音が鳴った。

「いらっしゃいませ」

 一人の女の子が、濡れた傘をたたみながら入ってきた。

「……あの、ここ……入っても大丈夫ですか?」

「もちろん。雨宿りしていってください」

 夕凪が微笑む。

 女の子は少し安心したように、窓際の席へ座った。

「メニュー、どうぞ」

「ありがとうございます」

 女の子はメニューを開き、しばらく眺めていた。

「チーズケーキと……カフェラテをお願いします」

「ホットとアイス、どちらにしますか?」

「ホットでお願いします」

「かしこまりました」

 夕凪はカフェラテを丁寧に淹れ、冷蔵庫からチーズケーキを取り出した。

 このチーズケーキは、夕凪が大切にしているものだった。

 湯布院にある洋菓子店――むすび洋菓子店から仕入れている。

 店を営んでいる結月は、夕凪の幼馴染だ。

 小さい頃から一緒に過ごしてきた大切な友人。

 結月が作るお菓子には、人と人との縁を結ぶような温かさがある。

「お待たせしました」

 夕凪は、チーズケーキとカフェラテをテーブルに置いた。

「わぁ……」

 女の子の顔が少し明るくなった。

「いただきます」

 一口。

「……美味しい」

「よかった」

「このチーズケーキ、どこのお店なんですか?」

「湯布院の『むすび洋菓子店』です」

「あ……知ってます。有名ですよね」

「ええ。そこの結月っていう人が作ってるんです。私の幼馴染なんですよ」

「そうなんですね」

 女の子はもう一口、チーズケーキを食べた。

 少しずつ表情が柔らかくなっていく。

 けれど、どこか寂しそうだった。

 夕凪は、それ以上何も聞かなかった。

 話したくなったときに話せばいい。

 それが「あまなぎ」の決まりだった。

 雨音だけが店内に響く。

 しばらくして、女の子がぽつりと口を開いた。

「……あの」

「はい」

「ちょっと、聞いてもらってもいいですか?」

「もちろん」

 夕凪は、女の子の向かいに座った。

「私、友達と仲良くしてるんです」

「うん」

「一緒に笑ったり、学校で話したり、遊びに行ったりもします」

「うん」

「でも……」

 女の子はカップを両手で包んだ。

「時々、嫌われてるように感じるんです」

 夕凪は静かに聞いた。

「返信が少し遅かっただけで、何か悪いことしたかなって思ったり……」

「うん」

「他の子と楽しそうに話してるのを見ると、私よりその子のほうが好きなのかなって……」

 女の子の声が小さくなる。

「本当は、友達と仲良くしたいだけなんです。でも、嫌われるのが怖くて……。ずっと相手の顔色を見ちゃって」

 夕凪は、急いで答えなかった。

 女の子が話し終えるまで、ただ静かに耳を傾けた。

「……疲れちゃいました」

「そうだったんだね」

 夕凪は優しく言った。

「仲良くしたいからこそ、その友達のことを大切に思っているからこそ、小さなことまで気になってしまうのかもしれないね」

「……はい」

「でも、返信が遅いことも、他の子と話していることも、それだけで『嫌われている』とは限らないよ」

 女の子は顔を上げた。

「分からない……ってことですか?」

「うん」

 夕凪は微笑んだ。

「嫌われているとも、嫌われていないとも、今は分からない。それだけでいいんじゃないかな」

「それだけ……?」

「そう。『嫌われてるかも』って思ったときに、すぐ答えを決めなくていいの」

 女の子は黙って聞いている。

「これは、あくまでも私からの助言だけどね」

 夕凪はカフェラテを見つめた。

「相手の気持ちを想像しすぎて苦しくなったら、『まだ分からない』って、一度立ち止まってみて」

「……まだ、分からない」

「うん」

「それなら……少し楽かもしれません」

 女の子の口元に、小さな笑顔が浮かんだ。

「よかった」

 そのとき、女の子が店の看板を思い出したように尋ねた。

「そういえば……『あまなぎ』って、どういう意味なんですか?」

 夕凪は窓の外を見た。

 雨はまだ降っている。

「雨が訪れた心が、ここで少しでも凪いでくれますように――っていう願いを込めた名前なの」

「雨が訪れた心……」

「人の心にも、雨が降るでしょう?」

 女の子は、静かに頷いた。

「だから、ここでは無理に元気にならなくてもいいの。話したければ話せばいい。何も話したくなければ、美味しいものを食べて、ゆっくりしていけばいい」

 夕凪は笑った。

「そして、いつか心が晴れたら、また美味しいものを食べに来てくれたら嬉しいな」

 女の子はチーズケーキを見つめた。

「……また来てもいいですか?」

「もちろん」

「今度は、悩みがなくても?」

「もちろん」

 夕凪は笑った。

「ここは、悩んでいる人だけの場所じゃないから」

 女の子も笑った。

 窓の外では、まだ雨が降っている。

 けれど――。

 さっきまで曇っていた女の子の表情には、小さな晴れ間ができていた。

 会計を済ませ、女の子は傘を開いた。

「ありがとうございました」

「こちらこそ、来てくれてありがとう」

「また来ます」

「うん。待ってるね」

 ドアが閉まる。

 カラン……。

 夕凪は窓の外を見た。

 雨の向こうには、四浦の海がある。

 いつかこの雨が止んだら、きっと青い海が見える。

 その日まで――。

 今日も「あまなぎ」は、心に雨が降った誰かのために、静かに灯りを灯していた。