春の終わりを知らせる風が、音楽室の窓をやさしく揺らしていた。
放課後の校舎は静かで、遠くから聞こえる運動部の声だけが、かすかに空気を震わせている。
私はピアノの前に座って、そっと鍵盤に指を置いた。
あの日から、少しずつ。
ほんとうに少しずつだけど、私はまたピアノに触れるようになった。
毎日じゃない。
弾けない日もある。
怖くなる日だって、まだある。
でも、もう前みたいに全部を閉ざしてしまうことはなかった。
うまく弾くためじゃなくて。
誰かの期待に応えるためでもなくて。
ただ、自分の音を確かめるために。
そう思えるようになったのは、きっと大きな変化だった。
静かな旋律が音楽室に広がっていく。
難しい曲じゃない。
でも今の私には、このくらいがちょうどいい。
一音ずつ、やさしく。
自分の心をなぞるみたいに弾いていく。
曲が終わって、最後の音が消えるころ。
後ろから小さな拍手が聞こえた。
振り返らなくてもわかる。
「……恒一くん」
「うん」
低い声に、自然と笑みがこぼれる。
「いつからいたの」
「途中から」
「ずるい」
「邪魔したくなかった」
私は椅子に座ったまま、少しだけ後ろを振り返る。
制服姿の恒一くんが、音楽室の入り口近くに立っていた。
あの日と同じように、でも少しだけ違うやわらかい目で、私を見ている。
「今日、弾くって言ってなかったのに」
そう言うと、彼は静かに近づいてきた。
「なんとなく、いる気がした」
「なにそれ」
「当たった」
少し得意そうに言うから、私は小さく笑う。
恒一くんはピアノのそばまで来ると、私の手元を見る。
「前より、力抜けてた」
「わかるの?」
「わかる」
その返事に、私は少しだけ目を伏せた。
前ならきっと、そんなふうに言われただけで緊張していた。
ちゃんと弾けていたかな。
変じゃなかったかな。
また期待させてしまったかな。
そんなことばかり考えていたと思う。
でも今は違う。
「……今日ね、自分でも少しそう思った」
私がそう言うと、恒一くんの表情がやわらぐ。
「そっか」
「まだ怖い日はあるよ」
「うん」
「でも、好きかもしれないってまた思えた」
その言葉は、前よりずっと自然に口から出た。
恒一くんは何も急いで返さなかった。
ただ、ちゃんと聞いてくれている顔をする。
「それで十分だよ」
やっぱり、そう言う。
ずっと変わらないそのやさしさが、胸にあたたかく広がる。
私は立ち上がって、ピアノの蓋をそっと閉じた。
「最初はね、また弾けるようにならなきゃって少し思ってた」
歩きながら、小さく話す。
「でも今は、弾ける日があったらうれしいなってくらい」
恒一くんは隣に並んだ。
「そのほうが星音らしい」
「そうかな」
「うん。無理してない感じがする」
私は少しだけ笑った。
「恒一くんって、ほんとによく見てる」
「好きだから」
あまりにも自然に言うから、足が止まりそうになる。
「……そういうの、急に言う」
「事実」
真顔なのがずるい。
私は少しだけ頬が熱くなるのを感じながら、窓の外に目を向けた。
夕焼けが、校庭の向こうを淡く染めている。
あの日、泣いた音楽室で見た景色とよく似ていた。
でも今は、あのときよりずっと心が軽い。
「ねえ、恒一くん」
「なに」
「私、たぶんすぐには変われない」
「うん」
「また立ち止まるかもしれないし、怖くなるかもしれない」
そう言うと、彼は迷わず答えた。
「知ってる」
その一言に、私は彼を見る。
「でも、そのたびに隣にいる」
まっすぐな声だった。
「星音が弾く日も、弾けない日も」
胸の奥がじんわり熱くなる。
私は少しだけ笑って、そっと彼の袖をつまんだ。
「……ありがとう」
すると恒一くんは、私の手をやさしく取る。
指先が重なる。
強すぎない、でも離さない手。
「帰ろう」
「うん」
音楽室を出て、夕暮れの廊下を並んで歩く。
大きな約束はない。
はっきりした未来も、まだ見えていない。
それでも不思議と、怖くなかった。
好きな人がいて。
好きだったものが、また少しずつ好きになれて。
全部が完璧じゃなくても、それでいいと思える。
階段を下りる途中、恒一くんがふいに立ち止まった。
「星音」
「なに」
「今の曲、また聞かせて」
私は目を瞬く。
「上手く弾けた日じゃなくても?」
「星音が弾きたい日に」
その答えに、胸がやわらかくほどける。
「……うん」
そう返すと、恒一くんは少しだけ目を細めた。
夕方の光の中でつないだ手は、あの日と同じようにあたたかい。
でも今は、そのぬくもりを前よりちゃんと信じられる。
私はもう一度だけ、閉じた音楽室の扉を振り返る。
終わったものもある。
戻れないものもある。
それでも、ここから始められるものもきっとある。
そう思えた。
そして私は、隣を歩く恒一くんの手を少しだけ握り返す。
未来はまだ、まっさらだ。
だからこそ、こわくて、やさしい。
その先にどんな音が待っていても。
今ならきっと、少しずつ見つけていける。
大切な人と一緒に。
ー完ー
放課後の校舎は静かで、遠くから聞こえる運動部の声だけが、かすかに空気を震わせている。
私はピアノの前に座って、そっと鍵盤に指を置いた。
あの日から、少しずつ。
ほんとうに少しずつだけど、私はまたピアノに触れるようになった。
毎日じゃない。
弾けない日もある。
怖くなる日だって、まだある。
でも、もう前みたいに全部を閉ざしてしまうことはなかった。
うまく弾くためじゃなくて。
誰かの期待に応えるためでもなくて。
ただ、自分の音を確かめるために。
そう思えるようになったのは、きっと大きな変化だった。
静かな旋律が音楽室に広がっていく。
難しい曲じゃない。
でも今の私には、このくらいがちょうどいい。
一音ずつ、やさしく。
自分の心をなぞるみたいに弾いていく。
曲が終わって、最後の音が消えるころ。
後ろから小さな拍手が聞こえた。
振り返らなくてもわかる。
「……恒一くん」
「うん」
低い声に、自然と笑みがこぼれる。
「いつからいたの」
「途中から」
「ずるい」
「邪魔したくなかった」
私は椅子に座ったまま、少しだけ後ろを振り返る。
制服姿の恒一くんが、音楽室の入り口近くに立っていた。
あの日と同じように、でも少しだけ違うやわらかい目で、私を見ている。
「今日、弾くって言ってなかったのに」
そう言うと、彼は静かに近づいてきた。
「なんとなく、いる気がした」
「なにそれ」
「当たった」
少し得意そうに言うから、私は小さく笑う。
恒一くんはピアノのそばまで来ると、私の手元を見る。
「前より、力抜けてた」
「わかるの?」
「わかる」
その返事に、私は少しだけ目を伏せた。
前ならきっと、そんなふうに言われただけで緊張していた。
ちゃんと弾けていたかな。
変じゃなかったかな。
また期待させてしまったかな。
そんなことばかり考えていたと思う。
でも今は違う。
「……今日ね、自分でも少しそう思った」
私がそう言うと、恒一くんの表情がやわらぐ。
「そっか」
「まだ怖い日はあるよ」
「うん」
「でも、好きかもしれないってまた思えた」
その言葉は、前よりずっと自然に口から出た。
恒一くんは何も急いで返さなかった。
ただ、ちゃんと聞いてくれている顔をする。
「それで十分だよ」
やっぱり、そう言う。
ずっと変わらないそのやさしさが、胸にあたたかく広がる。
私は立ち上がって、ピアノの蓋をそっと閉じた。
「最初はね、また弾けるようにならなきゃって少し思ってた」
歩きながら、小さく話す。
「でも今は、弾ける日があったらうれしいなってくらい」
恒一くんは隣に並んだ。
「そのほうが星音らしい」
「そうかな」
「うん。無理してない感じがする」
私は少しだけ笑った。
「恒一くんって、ほんとによく見てる」
「好きだから」
あまりにも自然に言うから、足が止まりそうになる。
「……そういうの、急に言う」
「事実」
真顔なのがずるい。
私は少しだけ頬が熱くなるのを感じながら、窓の外に目を向けた。
夕焼けが、校庭の向こうを淡く染めている。
あの日、泣いた音楽室で見た景色とよく似ていた。
でも今は、あのときよりずっと心が軽い。
「ねえ、恒一くん」
「なに」
「私、たぶんすぐには変われない」
「うん」
「また立ち止まるかもしれないし、怖くなるかもしれない」
そう言うと、彼は迷わず答えた。
「知ってる」
その一言に、私は彼を見る。
「でも、そのたびに隣にいる」
まっすぐな声だった。
「星音が弾く日も、弾けない日も」
胸の奥がじんわり熱くなる。
私は少しだけ笑って、そっと彼の袖をつまんだ。
「……ありがとう」
すると恒一くんは、私の手をやさしく取る。
指先が重なる。
強すぎない、でも離さない手。
「帰ろう」
「うん」
音楽室を出て、夕暮れの廊下を並んで歩く。
大きな約束はない。
はっきりした未来も、まだ見えていない。
それでも不思議と、怖くなかった。
好きな人がいて。
好きだったものが、また少しずつ好きになれて。
全部が完璧じゃなくても、それでいいと思える。
階段を下りる途中、恒一くんがふいに立ち止まった。
「星音」
「なに」
「今の曲、また聞かせて」
私は目を瞬く。
「上手く弾けた日じゃなくても?」
「星音が弾きたい日に」
その答えに、胸がやわらかくほどける。
「……うん」
そう返すと、恒一くんは少しだけ目を細めた。
夕方の光の中でつないだ手は、あの日と同じようにあたたかい。
でも今は、そのぬくもりを前よりちゃんと信じられる。
私はもう一度だけ、閉じた音楽室の扉を振り返る。
終わったものもある。
戻れないものもある。
それでも、ここから始められるものもきっとある。
そう思えた。
そして私は、隣を歩く恒一くんの手を少しだけ握り返す。
未来はまだ、まっさらだ。
だからこそ、こわくて、やさしい。
その先にどんな音が待っていても。
今ならきっと、少しずつ見つけていける。
大切な人と一緒に。
ー完ー



