アシュフォード公爵家へ嫁いでから、二週間が経った。
エレノアの生活は、少しずつ変わっていた。
朝起きる。
朝食を食べる。
マリアと庭へ行く。
トーマスに花のことを教えてもらう。
昼にはローズの料理を食べる。
時々、レオンハルトと食事をする。
そして夜になれば眠る。
それだけの毎日。
けれど、エレノアにとっては今まで知らなかったことばかりだった。
「おはようございます」
「おはようございます、お嬢様」
庭へ出ると、トーマスが手を振る。
「今日は何を教えてくださいますか?」
「今日は花の植え替えをしてみますか?」
「はい」
エレノアは楽しそうに頷いた。
以前の彼女なら、こんなことをする自分など想像もしなかっただろう。
土に触れる。
花を植える。
水をやる。
少し汚れた手を見る。
「……不思議です」
「何がです?」
「手が汚れているのに、嫌ではありません」
トーマスが笑った。
「それは楽しいからでしょう」
「……楽しい」
エレノアはその言葉を繰り返した。
最近、その言葉をよく使うようになった。
◇
昼食の時間。
「お嬢様、今日は新しい料理ですよ」
ローズが大きな皿を運んできた。
「これは何ですか?」
「鶏肉のクリーム煮です」
「……美味しそうです」
エレノアはそう言ってから、自分で少し驚いた。
以前なら、料理を見てそんなことを言うことはなかった。
「では、どうぞ」
一口食べる。
「……美味しいです」
「ふふ。おかわりもありますよ」
「……いただきたいです」
「はい、どうぞ!」
エレノアが二杯目を食べる。
以前に比べれば、ずっと食べられるようになった。
それでも身体はまだ細い。
ローズは少しずつ食事の量を増やしていた。
「お嬢様、最近よく食べるようになりましたね」
「はい」
「嬉しいですか?」
「……はい」
今度は迷わなかった。
◇
その日の夕方。
レオンハルトが仕事から戻ってきた。
玄関へ入ると、いつもなら出迎える使用人たちの姿に混じって――
「お帰りなさいませ、公爵様」
エレノアが立っていた。
「……エレノア?」
「はい」
「どうした?」
「マリアさんに、公爵家の夫人は夫を出迎えるものだと教えていただきました」
レオンハルトはマリアを見る。
少し離れた場所で、彼女が笑っていた。
「そうか」
「はい」
「……わざわざ出迎えなくてもいい」
「そうなのですか?」
「ああ。君がしたいときだけでいい」
「……」
エレノアは少し考える。
「では、明日もしたいです」
レオンハルトが黙る。
「……好きにしろ」
「はい」
エレノアが微笑む。
レオンハルトは一瞬、その笑顔を見つめた。
そして、なぜか目を逸らした。
◇
夕食の席。
今日は二人きりだった。
「今日は何をしていた?」
レオンハルトが聞く。
「庭で花を植えました」
「そうか」
「トーマスさんが教えてくださいました」
「上手くできたのか?」
「はい」
エレノアは少し誇らしげに頷いた。
「明日、花が元気か見に行く予定です」
「……そうか」
以前なら。
こんな話をすることはなかった。
エレノア自身が、自分の一日を話すようになった。
それがレオンハルトには妙に新鮮だった。
「公爵様は今日は何をされていたのですか?」
「仕事だ」
「大変ですか?」
「そうでもない」
「そうですか」
それで終わるかと思った。
しかし。
「……公爵様は、お仕事がお好きなのですか?」
レオンハルトは少し考えた。
「好きというより、必要だからしている」
「私と同じですね」
「……?」
「私も以前は、必要だから仕事をしていました」
エレノアはスープを飲む。
「でも今は、花を見るのが楽しいです」
「……」
「食事も好きです」
レオンハルトは思わず彼女を見る。
「好きなのか?」
「はい」
「何が一番好きだ?」
「……」
エレノアは真剣に考える。
「卵料理です」
「そうか」
「でも、ローズさんが作ってくださるものは全部美味しいです」
「なら、好きなものが増えたな」
「はい」
エレノアは嬉しそうに笑った。
レオンハルトはその顔を見ながら、ふと考える。
――彼女がもっと色々なものを知れば、もっと笑うのだろうか。
もっと色々な場所へ連れていけば。
もっと色々なものを見せれば。
もっと――。
「公爵様?」
「……何でもない」
「そうですか?」
「ああ」
レオンハルトは食事を続けた。
だが、その夜。
執務室で仕事をしていても、エレノアの笑顔が頭から離れなかった。
◇
数日後。
王都では、社交シーズンが始まった。
貴族たちが集まる夜会や茶会が増える季節だ。
セバスチャンがレオンハルトへ予定表を差し出した。
「旦那様、今月の夜会についてですが――」
「すべて断れ」
「……すべて、ですか?」
「ああ」
「ですが、アシュフォード公爵家として出席が必要なものもございます」
「なら、私一人で行く」
「奥様は?」
「……」
レオンハルトは書類へ目を落とした。
「まだ早い」
「奥様は公爵夫人でございますが」
「わかっている」
なぜか。
エレノアを社交界へ出すことに抵抗があった。
彼女はまだ何も知らない。
貴族たちの視線。
噂。
駆け引き。
そして、彼女へ向けられる男たちの視線。
そこまで考えたところで。
「……」
レオンハルトは眉を寄せた。
なぜ、そんなことを気にしている?
公爵夫人なのだから守るのは当然。
そう結論づけた。
◇
その日の夜。
レオンハルトが自室へ戻る途中、廊下でエレノアと出会った。
「公爵様」
「ああ」
「お仕事、お疲れ様です」
「……ありがとう」
エレノアは少しだけ笑った。
「おやすみなさいませ」
「待て」
「はい?」
レオンハルトは、なぜか彼女を呼び止めていた。
「……明日」
「はい」
「時間があるなら、庭を案内してくれないか」
言ってから、自分でも少し驚く。
なぜそんなことを言ったのか。
エレノアは嬉しそうに頷いた。
「はい。もちろんです」
「……そうか」
「明日、楽しみですね」
「……ああ」
エレノアが去っていく。
レオンハルトはその背中を見送った。
胸の奥が、少しだけ騒がしい。
仕事の疲れとは違う。
不快でもない。
むしろ――。
「……楽しみ、か」
自分が先ほど口にした言葉を思い出す。
そして初めて。
自分もまた、明日を少し楽しみにしていることに気づいた。
◇
その夜。
エレノアはベッドの中で明日のことを考えていた。
公爵様と庭を歩く。
どの花を見せよう。
新しく咲いた花もある。
それから――。
「……楽しみです」
小さく呟いて、目を閉じる。
二人の距離は、まだ夫婦と呼ぶには遠い。
けれど。
少しずつ。
ほんの少しずつ。
互いの日常の中に、互いの存在が入り始めていた。
エレノアの生活は、少しずつ変わっていた。
朝起きる。
朝食を食べる。
マリアと庭へ行く。
トーマスに花のことを教えてもらう。
昼にはローズの料理を食べる。
時々、レオンハルトと食事をする。
そして夜になれば眠る。
それだけの毎日。
けれど、エレノアにとっては今まで知らなかったことばかりだった。
「おはようございます」
「おはようございます、お嬢様」
庭へ出ると、トーマスが手を振る。
「今日は何を教えてくださいますか?」
「今日は花の植え替えをしてみますか?」
「はい」
エレノアは楽しそうに頷いた。
以前の彼女なら、こんなことをする自分など想像もしなかっただろう。
土に触れる。
花を植える。
水をやる。
少し汚れた手を見る。
「……不思議です」
「何がです?」
「手が汚れているのに、嫌ではありません」
トーマスが笑った。
「それは楽しいからでしょう」
「……楽しい」
エレノアはその言葉を繰り返した。
最近、その言葉をよく使うようになった。
◇
昼食の時間。
「お嬢様、今日は新しい料理ですよ」
ローズが大きな皿を運んできた。
「これは何ですか?」
「鶏肉のクリーム煮です」
「……美味しそうです」
エレノアはそう言ってから、自分で少し驚いた。
以前なら、料理を見てそんなことを言うことはなかった。
「では、どうぞ」
一口食べる。
「……美味しいです」
「ふふ。おかわりもありますよ」
「……いただきたいです」
「はい、どうぞ!」
エレノアが二杯目を食べる。
以前に比べれば、ずっと食べられるようになった。
それでも身体はまだ細い。
ローズは少しずつ食事の量を増やしていた。
「お嬢様、最近よく食べるようになりましたね」
「はい」
「嬉しいですか?」
「……はい」
今度は迷わなかった。
◇
その日の夕方。
レオンハルトが仕事から戻ってきた。
玄関へ入ると、いつもなら出迎える使用人たちの姿に混じって――
「お帰りなさいませ、公爵様」
エレノアが立っていた。
「……エレノア?」
「はい」
「どうした?」
「マリアさんに、公爵家の夫人は夫を出迎えるものだと教えていただきました」
レオンハルトはマリアを見る。
少し離れた場所で、彼女が笑っていた。
「そうか」
「はい」
「……わざわざ出迎えなくてもいい」
「そうなのですか?」
「ああ。君がしたいときだけでいい」
「……」
エレノアは少し考える。
「では、明日もしたいです」
レオンハルトが黙る。
「……好きにしろ」
「はい」
エレノアが微笑む。
レオンハルトは一瞬、その笑顔を見つめた。
そして、なぜか目を逸らした。
◇
夕食の席。
今日は二人きりだった。
「今日は何をしていた?」
レオンハルトが聞く。
「庭で花を植えました」
「そうか」
「トーマスさんが教えてくださいました」
「上手くできたのか?」
「はい」
エレノアは少し誇らしげに頷いた。
「明日、花が元気か見に行く予定です」
「……そうか」
以前なら。
こんな話をすることはなかった。
エレノア自身が、自分の一日を話すようになった。
それがレオンハルトには妙に新鮮だった。
「公爵様は今日は何をされていたのですか?」
「仕事だ」
「大変ですか?」
「そうでもない」
「そうですか」
それで終わるかと思った。
しかし。
「……公爵様は、お仕事がお好きなのですか?」
レオンハルトは少し考えた。
「好きというより、必要だからしている」
「私と同じですね」
「……?」
「私も以前は、必要だから仕事をしていました」
エレノアはスープを飲む。
「でも今は、花を見るのが楽しいです」
「……」
「食事も好きです」
レオンハルトは思わず彼女を見る。
「好きなのか?」
「はい」
「何が一番好きだ?」
「……」
エレノアは真剣に考える。
「卵料理です」
「そうか」
「でも、ローズさんが作ってくださるものは全部美味しいです」
「なら、好きなものが増えたな」
「はい」
エレノアは嬉しそうに笑った。
レオンハルトはその顔を見ながら、ふと考える。
――彼女がもっと色々なものを知れば、もっと笑うのだろうか。
もっと色々な場所へ連れていけば。
もっと色々なものを見せれば。
もっと――。
「公爵様?」
「……何でもない」
「そうですか?」
「ああ」
レオンハルトは食事を続けた。
だが、その夜。
執務室で仕事をしていても、エレノアの笑顔が頭から離れなかった。
◇
数日後。
王都では、社交シーズンが始まった。
貴族たちが集まる夜会や茶会が増える季節だ。
セバスチャンがレオンハルトへ予定表を差し出した。
「旦那様、今月の夜会についてですが――」
「すべて断れ」
「……すべて、ですか?」
「ああ」
「ですが、アシュフォード公爵家として出席が必要なものもございます」
「なら、私一人で行く」
「奥様は?」
「……」
レオンハルトは書類へ目を落とした。
「まだ早い」
「奥様は公爵夫人でございますが」
「わかっている」
なぜか。
エレノアを社交界へ出すことに抵抗があった。
彼女はまだ何も知らない。
貴族たちの視線。
噂。
駆け引き。
そして、彼女へ向けられる男たちの視線。
そこまで考えたところで。
「……」
レオンハルトは眉を寄せた。
なぜ、そんなことを気にしている?
公爵夫人なのだから守るのは当然。
そう結論づけた。
◇
その日の夜。
レオンハルトが自室へ戻る途中、廊下でエレノアと出会った。
「公爵様」
「ああ」
「お仕事、お疲れ様です」
「……ありがとう」
エレノアは少しだけ笑った。
「おやすみなさいませ」
「待て」
「はい?」
レオンハルトは、なぜか彼女を呼び止めていた。
「……明日」
「はい」
「時間があるなら、庭を案内してくれないか」
言ってから、自分でも少し驚く。
なぜそんなことを言ったのか。
エレノアは嬉しそうに頷いた。
「はい。もちろんです」
「……そうか」
「明日、楽しみですね」
「……ああ」
エレノアが去っていく。
レオンハルトはその背中を見送った。
胸の奥が、少しだけ騒がしい。
仕事の疲れとは違う。
不快でもない。
むしろ――。
「……楽しみ、か」
自分が先ほど口にした言葉を思い出す。
そして初めて。
自分もまた、明日を少し楽しみにしていることに気づいた。
◇
その夜。
エレノアはベッドの中で明日のことを考えていた。
公爵様と庭を歩く。
どの花を見せよう。
新しく咲いた花もある。
それから――。
「……楽しみです」
小さく呟いて、目を閉じる。
二人の距離は、まだ夫婦と呼ぶには遠い。
けれど。
少しずつ。
ほんの少しずつ。
互いの日常の中に、互いの存在が入り始めていた。

