氷の公爵様は、愛を知らない令嬢を離してくれない

 その日の朝。

 エレノアはいつものように食堂へ向かった。

 最近は、朝食が少し楽しみになっていた。

 今日の料理は何だろう。

 昨日と違うものはあるだろうか。

 そんなことを考えながら席につく。

「おはようございます、公爵様」

「ああ。おはよう」

 レオンハルトはすでに席についていた。

 エレノアが席につくと、料理が運ばれてくる。

「本日はフレンチトーストをご用意しております」

 ローズが皿を置く。

「……フレンチトースト」

「はい。甘すぎないようにしてありますよ」

 エレノアは嬉しそうに頷いた。

「ありがとうございます」

 フォークを手に取り、一口。

「……美味しいです」

「よかったです」

 ローズが笑う。

 以前のエレノアなら、食事をすることすら義務だった。

 今では少しずつ、食事そのものを楽しめるようになっている。

 そんな彼女を、レオンハルトは向かいから眺めていた。

「エレノア」

「はい?」

「今週末、王都へ行く」

「……はい」

「君も来い」

「……私も、ですか?」

「ああ」

「よろしいのでしょうか」

「妻なのだから当然だろう」

「……はい」

 エレノアは小さく頷いた。

 そして、ほんの少しだけ口元が緩む。

 レオンハルトはそれを見逃さなかった。

「楽しみか?」

「……」

 エレノアは考える。

「はい」

 今度は迷わなかった。

 レオンハルトは一瞬だけ目を細める。

「そうか」

 たったそれだけ。

 けれど、その日の朝はいつもより少しだけ穏やかだった。



 ◇

「お嬢様、こちらのドレスはいかがでしょう!」

 週末。

 エレノアの部屋では、朝からマリアが大忙しだった。

 いくつものドレスを並べ、髪飾りを選び、髪を整えていく。

「こちらは少し大人っぽすぎますね……では、こちらは?」

 淡い青色のドレスを見せる。

 エレノアはじっと眺めた。

「……これがいいです」

「こちらですか?」

「はい」

「どうしてですか?」

 エレノアは少し考える。

「……好きな色です」

 マリアの顔がぱっと明るくなる。

「まあ!」

「……?」

「お嬢様、自分で好きな色を選べるようになったんですね」

「……はい」

 エレノアは鏡を見る。

 以前なら、何を着ても同じだった。

 似合うと言われれば着る。

 着ろと言われれば着る。

 けれど今は。

 自分で選んだ。

 それだけのことが、少し嬉しかった。




 ◇

 支度を終えると、部屋の外にレオンハルトが待っていた。

「お待たせいたしました」

「……」

 レオンハルトはエレノアを見る。

 淡い青のドレス。

 髪には、以前街で買った小さな青い花の髪飾り。

「……似合っている」

「ありがとうございます」

 エレノアは微笑んだ。

 その笑顔を見て、レオンハルトは一瞬言葉を失う。

 最近。

 彼女が笑うことが増えた。

 最初に会った頃は、人形のようだった。

 今は違う。

 少しずつ表情が増えている。

 それがなぜか、嬉しかった。

「行くぞ」

「はい」

 二人は並んで歩き始めた。




 ◇

 王都へ着くと、エレノアは馬車の窓から外を眺めていた。

 以前来たときよりも、街が少し違って見える。

 人が多い。

 店も多い。

 色々な匂いがする。

 そして何より。

 レオンハルトが隣にいる。

「公爵様」

「何だ?」

「あちらのお店は、何のお店でしょうか?」

 エレノアが指を差す。

「菓子店だ」

「……お菓子」

「気になるのか?」

「はい」

 レオンハルトは少し驚いた。

 以前なら、気になっても「わかりません」で終わっていた。

「入るか?」

「よろしいのですか?」

「構わない」

 二人は店へ入った。

 色とりどりの菓子が並んでいる。

 エレノアは目を輝かせながら眺めていた。

「好きなものを選べ」

「……」

「どうした?」

「……選んでもよろしいのですか?」

「君のために来たんだ。好きなものを選べ」

 エレノアは一つ一つのお菓子を見ていく。

 そして、小さな焼き菓子を一つ手に取った。

「これがいいです」

「それだけか?」

「はい」

「もっと選んでもいい」

「……」

 エレノアは少し迷った。

 そして、もう一つだけ追加した。

「これも……」

「それでいい」

レオンハルトは店員へ目を向ける。

「これを全部」

「かしこまりました」

 エレノアが驚く。

「全部……ですか?」

「ああ」

「多いです」

「なら、少しずつ食べればいい」

「……はい」

 エレノアは大切そうに菓子の袋を抱えた。




 ◇

 店を出てしばらく歩いたところで、エレノアの足が止まった。

「どうした?」

「……」

 視線の先に、小さな雑貨店があった。

 店先に並んでいるのは、花瓶や置物、アクセサリーなど。

 その中に、小さな白い猫の陶器の置物があった。

 エレノアはじっと見つめる。

「欲しいのか?」

「……」

 すぐには答えない。

 けれど。

「……はい」

 レオンハルトは少しだけ目を見開いた。

「なら、買えばいい」

「……よろしいのですか?」

「君が欲しいと言ったんだろう」

「はい」

 店へ入る。

 エレノアは猫の置物を手に取った。

 小さくて、白くて、丸い。

「可愛いです」

 ぽつりと呟く。

「そうか」

「庭に置いたら、可愛いと思います」

「なら、庭に置けばいい」

「……はい」

 エレノアは嬉しそうに笑った。

 レオンハルトはその笑顔を見つめる。

 まただ。

 この笑顔を見ると、胸の奥が少しだけ温かくなる。

 理由は、まだわからない。




 ◇

 帰りの馬車。

 エレノアは膝の上に猫の置物を抱えていた。

 大切そうに、両手で包んでいる。

 しばらく窓の外を眺めていたが、やがて口を開いた。

「……公爵様」

「何だ?」

「お願いがございます」

 レオンハルトがエレノアを見る。

「言ってみろ」

 エレノアは少しだけ緊張していた。

 お願いをする。

 それは、今までしたことがない。

「……また、街へ連れてきていただけますか?」

 馬車の中が静かになる。

 レオンハルトは彼女を見つめた。

 エレノアは少し不安そうにしている。

「……駄目、でしょうか」

「いや」

 レオンハルトはすぐに答えた。

「構わない」

「……本当ですか?」

「ああ」

「ありがとうございます」

 エレノアは笑った。

「また来たいです」

「なら、また来ればいい」

「はい」

 レオンハルトは窓の外へ視線を向けた。

 けれど。

 自分の口元が僅かに緩んでいることには気づいていなかった。




 ◇

 屋敷へ戻ると、エレノアは早速庭へ向かった。

「ここに置きたいです」

 庭師のトーマスに猫の置物を見せる。

「おや、可愛いものを買いましたね」

「はい」

「どこに置きましょうか?」

 エレノアは庭を見渡す。

「……あそこがいいです」

 小さな花壇の隣。

 そこへ置いてもらう。

 白い猫の置物が、花の隣でちょこんと座っている。

「……可愛いです」

「お気に召しましたか?」

「はい」

 エレノアは嬉しそうに頷いた。

 少し離れた場所から、その様子をレオンハルトが見ていた。

「旦那様」

 隣に立ったセバスチャンが声をかける。

「奥様はずいぶん楽しそうでございますね」

「ああ」

「また街へ連れて行ってほしいとお願いされたそうですね」

「……ああ」

「旦那様も、随分と嬉しそうでいらっしゃいます」

「そうか?」

「はい」

 レオンハルトはエレノアを見る。

 庭で笑っている。

 猫の置物を眺めている。

 あんなに楽しそうな彼女を見るのは、初めてだった。

「……妻が喜ぶなら、それでいい」

 そう言った。

 セバスチャンは何も言わず、静かに微笑んだ。

 レオンハルト自身も、まだ気づいていない。

 ――彼女が喜ぶことが、自分にとっても嬉しくなっていることに。

 そして。

 彼女の「また」が、いつの間にか自分にとっても楽しみになり始めていることに。