翌朝。
エレノアが目を覚ますと、部屋の空気がいつもと少し違っていた。
「……?」
ベッドから起き上がり、窓へ近づく。
窓辺に置かれた小さな花瓶。
そこには、青や白の花が数本飾られていた。
昨日、自分が選んだ髪飾りとよく似た色の花だった。
「……綺麗」
エレノアは花の前にしゃがみ込む。
そっと花びらに触れようとして――手を止める。
それから、昨日のことを思い出した。
――触ってもいい。
――好きなだけ見ていていい。
そして。
――欲しいと言っていい。
エレノアは花にそっと触れた。
「……ありがとうございます」
誰もいない部屋で、小さく呟いた。
◇
朝食の席。
エレノアが食堂へ入ると、すでにレオンハルトが座っていた。
「おはようございます」
「ああ。おはよう」
エレノアが席につく。
今日の朝食には、焼きたてのパンと卵料理、それから果物が並んでいた。
「今日は卵の形が違います」
エレノアがぽつりと言う。
レオンハルトが顔を上げた。
「気づいたのか」
「はい」
「料理長が新しいものを作ったらしい」
「そうですか」
エレノアは一口食べる。
「……美味しいです」
「そうか」
それだけの会話。
けれど、以前より明らかに違っていた。
エレノアが自分から話した。
レオンハルトはそんな小さな変化を、いつの間にか気にするようになっていた。
「今日は何をする?」
「……」
エレノアが考える。
「マリアさんと庭を見に行こうと思っています」
「そうか」
以前なら、
『わかりません』
だった。
今日は違う。
自分で予定を決めている。
「好きにするといい」
「はい」
エレノアは小さく笑った。
◇
庭へ出ると、トーマスが花壇の手入れをしていた。
「お嬢様、おはようございます」
「おはようございます」
「今日はちょうどいいところですよ」
「?」
トーマスが手招きする。
「こちらの花、蕾が開きそうなんです」
エレノアがしゃがみ込む。
「昨日の花ですか?」
「そうです」
「……本当に開くのでしょうか」
「そろそろ咲くと思いますよ」
エレノアはじっと蕾を見る。
「見ていてもいいですか?」
「もちろん」
エレノアは花壇の前に座った。
しばらく何もせず、蕾を見つめる。
マリアが隣で笑った。
「お嬢様、ずっと見ているおつもりですか?」
「はい」
「飽きませんか?」
「……まだ、わかりません」
その答えに、トーマスが笑った。
「では、咲くまで見てみましょう」
「はい」
時間が過ぎていく。
風が吹く。
鳥が鳴く。
雲がゆっくり流れる。
そして。
「あ……」
エレノアが小さな声を漏らした。
蕾の先が、ゆっくりと開いていく。
「開いています」
「ええ」
「……」
花びらが一枚。
また一枚。
朝露を残したまま、ゆっくりと開いていく。
「……綺麗」
エレノアの瞳が輝いた。
そして、思わず笑う。
「咲きました」
「咲きましたね」
トーマスも笑う。
「待った甲斐がありましたね」
「はい」
エレノアは花を見つめながら、何度も頷いた。
「……楽しいです」
マリアが目を見開いた。
「え?」
エレノア自身も少し驚いた。
「……楽しい、です」
その言葉を、確かめるようにもう一度口にする。
胸の奥が温かい。
もっと見ていたい。
もっと知りたい。
そんな気持ちが自然に湧いてくる。
「これが……楽しい、ということなのですね」
マリアは笑顔になった。
「はい。きっとそうですよ」
エレノアは嬉しそうに花を眺めた。
◇
その光景を、少し離れた場所から見ている人間がいた。
レオンハルトだった。
庭を通りかかっただけだった。
だが、エレノアの笑い声が聞こえて、足を止めた。
――楽しいです。
彼女がそんな言葉を口にしたことが、意外だった。
そして。
笑っている。
これまで見たことのない笑顔だった。
花を見つめる瞳も、少しだけ明るい。
「……」
レオンハルトは、しばらくその場に立っていた。
「旦那様?」
後ろからセバスチャンが声をかける。
「何でもない」
レオンハルトは歩き出した。
だが数歩進んでから、
「……あの花は何という名前だ?」
「どの花でしょう?」
「エレノアが見ている花だ」
セバスチャンが庭を見る。
「あれはリュミエールです」
「そうか」
レオンハルトはそれだけ言って、屋敷へ戻った。
◇
昼食。
エレノアはいつもより少し食欲があった。
「今日はたくさん召し上がりますね」
ローズが嬉しそうに言う。
「朝、花が咲いたので」
「花が?」
「はい」
エレノアは楽しそうに話し始めた。
「昨日は蕾だったのですが、今日、開きました」
「まあ」
「ずっと見ていたら、少しずつ開いて……とても綺麗でした」
ローズは目を細める。
「お嬢様、ずいぶん楽しそうですね」
「……そうでしょうか?」
「ええ」
エレノアは少し考える。
「……楽しかったです」
「それならよかったです」
ローズが笑う。
「いっぱい食べて、もっと元気になってくださいね」
「はい」
エレノアは素直に頷いた。
そしてスープをもう一口飲む。
「……これも美味しいです」
「おかわりありますよ」
「……いただきたいです」
「もちろん!」
◇
午後。
レオンハルトが執務室で仕事をしていると、ノックの音がした。
「どうぞ」
「失礼いたします」
入ってきたのはエレノアだった。
レオンハルトは少し驚いた。
彼女が自分から執務室へ来るのは初めてだった。
「どうした?」
「……」
エレノアは手に何かを持っていた。
「これを、公爵様に」
「私に?」
「はい」
差し出されたのは、小さな花だった。
「庭の花です」
「……もらっていいのか?」
「はい」
「なぜ?」
エレノアは少し考えた。
「今日、とても楽しかったので」
「……」
「公爵様にも見ていただきたくて」
レオンハルトは花を受け取った。
小さな青い花。
彼女が今日、初めて「楽しい」と知った花。
「……ありがとう」
「はい」
エレノアは笑った。
「それでは、失礼いたします」
「ああ」
扉が閉まる。
静かな執務室。
レオンハルトは手の中の花を見る。
仕事の書類よりも、ずっと小さい。
価値だってない。
それでも。
なぜか捨てる気にはならなかった。
「……」
机の端に花を置く。
そして仕事へ戻ろうとする。
だが。
ふと気づく。
自分は今、笑っていた。
ほんの僅かに。
「……馬鹿らしい」
そう呟きながらも、花を片付けることはなかった。
◇
夜。
エレノアはベッドの中で今日一日を思い返していた。
朝、花を見た。
庭で蕾が開くところを見た。
美味しい食事を食べた。
そして、自分で選んだ花を誰かに渡した。
――楽しかった。
今まで知らなかった言葉。
知らなかった感情。
エレノアは胸元へ手を置いた。
「……明日も、楽しいといいな」
それは。
彼女が初めて、自分から願ったことだった。
その頃、レオンハルトの机の上には、小さな青い花が一輪。
彼はその花を見るたびに、なぜか今日のエレノアの笑顔を思い出していた。
まだ、それが何を意味するのか。
彼自身も知らなかった。
エレノアが目を覚ますと、部屋の空気がいつもと少し違っていた。
「……?」
ベッドから起き上がり、窓へ近づく。
窓辺に置かれた小さな花瓶。
そこには、青や白の花が数本飾られていた。
昨日、自分が選んだ髪飾りとよく似た色の花だった。
「……綺麗」
エレノアは花の前にしゃがみ込む。
そっと花びらに触れようとして――手を止める。
それから、昨日のことを思い出した。
――触ってもいい。
――好きなだけ見ていていい。
そして。
――欲しいと言っていい。
エレノアは花にそっと触れた。
「……ありがとうございます」
誰もいない部屋で、小さく呟いた。
◇
朝食の席。
エレノアが食堂へ入ると、すでにレオンハルトが座っていた。
「おはようございます」
「ああ。おはよう」
エレノアが席につく。
今日の朝食には、焼きたてのパンと卵料理、それから果物が並んでいた。
「今日は卵の形が違います」
エレノアがぽつりと言う。
レオンハルトが顔を上げた。
「気づいたのか」
「はい」
「料理長が新しいものを作ったらしい」
「そうですか」
エレノアは一口食べる。
「……美味しいです」
「そうか」
それだけの会話。
けれど、以前より明らかに違っていた。
エレノアが自分から話した。
レオンハルトはそんな小さな変化を、いつの間にか気にするようになっていた。
「今日は何をする?」
「……」
エレノアが考える。
「マリアさんと庭を見に行こうと思っています」
「そうか」
以前なら、
『わかりません』
だった。
今日は違う。
自分で予定を決めている。
「好きにするといい」
「はい」
エレノアは小さく笑った。
◇
庭へ出ると、トーマスが花壇の手入れをしていた。
「お嬢様、おはようございます」
「おはようございます」
「今日はちょうどいいところですよ」
「?」
トーマスが手招きする。
「こちらの花、蕾が開きそうなんです」
エレノアがしゃがみ込む。
「昨日の花ですか?」
「そうです」
「……本当に開くのでしょうか」
「そろそろ咲くと思いますよ」
エレノアはじっと蕾を見る。
「見ていてもいいですか?」
「もちろん」
エレノアは花壇の前に座った。
しばらく何もせず、蕾を見つめる。
マリアが隣で笑った。
「お嬢様、ずっと見ているおつもりですか?」
「はい」
「飽きませんか?」
「……まだ、わかりません」
その答えに、トーマスが笑った。
「では、咲くまで見てみましょう」
「はい」
時間が過ぎていく。
風が吹く。
鳥が鳴く。
雲がゆっくり流れる。
そして。
「あ……」
エレノアが小さな声を漏らした。
蕾の先が、ゆっくりと開いていく。
「開いています」
「ええ」
「……」
花びらが一枚。
また一枚。
朝露を残したまま、ゆっくりと開いていく。
「……綺麗」
エレノアの瞳が輝いた。
そして、思わず笑う。
「咲きました」
「咲きましたね」
トーマスも笑う。
「待った甲斐がありましたね」
「はい」
エレノアは花を見つめながら、何度も頷いた。
「……楽しいです」
マリアが目を見開いた。
「え?」
エレノア自身も少し驚いた。
「……楽しい、です」
その言葉を、確かめるようにもう一度口にする。
胸の奥が温かい。
もっと見ていたい。
もっと知りたい。
そんな気持ちが自然に湧いてくる。
「これが……楽しい、ということなのですね」
マリアは笑顔になった。
「はい。きっとそうですよ」
エレノアは嬉しそうに花を眺めた。
◇
その光景を、少し離れた場所から見ている人間がいた。
レオンハルトだった。
庭を通りかかっただけだった。
だが、エレノアの笑い声が聞こえて、足を止めた。
――楽しいです。
彼女がそんな言葉を口にしたことが、意外だった。
そして。
笑っている。
これまで見たことのない笑顔だった。
花を見つめる瞳も、少しだけ明るい。
「……」
レオンハルトは、しばらくその場に立っていた。
「旦那様?」
後ろからセバスチャンが声をかける。
「何でもない」
レオンハルトは歩き出した。
だが数歩進んでから、
「……あの花は何という名前だ?」
「どの花でしょう?」
「エレノアが見ている花だ」
セバスチャンが庭を見る。
「あれはリュミエールです」
「そうか」
レオンハルトはそれだけ言って、屋敷へ戻った。
◇
昼食。
エレノアはいつもより少し食欲があった。
「今日はたくさん召し上がりますね」
ローズが嬉しそうに言う。
「朝、花が咲いたので」
「花が?」
「はい」
エレノアは楽しそうに話し始めた。
「昨日は蕾だったのですが、今日、開きました」
「まあ」
「ずっと見ていたら、少しずつ開いて……とても綺麗でした」
ローズは目を細める。
「お嬢様、ずいぶん楽しそうですね」
「……そうでしょうか?」
「ええ」
エレノアは少し考える。
「……楽しかったです」
「それならよかったです」
ローズが笑う。
「いっぱい食べて、もっと元気になってくださいね」
「はい」
エレノアは素直に頷いた。
そしてスープをもう一口飲む。
「……これも美味しいです」
「おかわりありますよ」
「……いただきたいです」
「もちろん!」
◇
午後。
レオンハルトが執務室で仕事をしていると、ノックの音がした。
「どうぞ」
「失礼いたします」
入ってきたのはエレノアだった。
レオンハルトは少し驚いた。
彼女が自分から執務室へ来るのは初めてだった。
「どうした?」
「……」
エレノアは手に何かを持っていた。
「これを、公爵様に」
「私に?」
「はい」
差し出されたのは、小さな花だった。
「庭の花です」
「……もらっていいのか?」
「はい」
「なぜ?」
エレノアは少し考えた。
「今日、とても楽しかったので」
「……」
「公爵様にも見ていただきたくて」
レオンハルトは花を受け取った。
小さな青い花。
彼女が今日、初めて「楽しい」と知った花。
「……ありがとう」
「はい」
エレノアは笑った。
「それでは、失礼いたします」
「ああ」
扉が閉まる。
静かな執務室。
レオンハルトは手の中の花を見る。
仕事の書類よりも、ずっと小さい。
価値だってない。
それでも。
なぜか捨てる気にはならなかった。
「……」
机の端に花を置く。
そして仕事へ戻ろうとする。
だが。
ふと気づく。
自分は今、笑っていた。
ほんの僅かに。
「……馬鹿らしい」
そう呟きながらも、花を片付けることはなかった。
◇
夜。
エレノアはベッドの中で今日一日を思い返していた。
朝、花を見た。
庭で蕾が開くところを見た。
美味しい食事を食べた。
そして、自分で選んだ花を誰かに渡した。
――楽しかった。
今まで知らなかった言葉。
知らなかった感情。
エレノアは胸元へ手を置いた。
「……明日も、楽しいといいな」
それは。
彼女が初めて、自分から願ったことだった。
その頃、レオンハルトの机の上には、小さな青い花が一輪。
彼はその花を見るたびに、なぜか今日のエレノアの笑顔を思い出していた。
まだ、それが何を意味するのか。
彼自身も知らなかった。

