翌朝。
「おはようございます」
エレノアが食堂へ入ると、いつもより少し早くレオンハルトが来ていた。
「……おはよう」
席につく。
しばらくすると、料理が運ばれてきた。
「お嬢様、本日は卵料理ですよ」
ローズが嬉しそうに皿を置いた。
ふわりと焼かれた卵に、温かなソースがかかっている。
エレノアは目の前の料理を見つめた。
「……昨日、私が卵を食べたいと言ったからですか?」
「ええ。もちろんです」
「……」
エレノアは少しだけ目を伏せた。
自分が言ったことを覚えていてくれた。
それが、なんだか不思議だった。
「いただきます」
ナイフを入れる。
一口。
「……美味しいです」
「よかった!」
ローズが笑う。
エレノアはもう一口食べる。
昨日よりも自然にフォークが進んでいく。
向かいに座るレオンハルトは書類を読みながら、時々彼女の様子を見ていた。
食べている。
昨日よりも、ずっと。
それだけなのに、なぜか安心する。
「エレノア」
「はい」
「他に食べたいものはないのか?」
「……」
エレノアは考え込んだ。
「わかりません」
「そうか」
「申し訳ございません」
「謝る必要はない」
レオンハルトは紅茶を口にする。
「なら、これから探せばいい」
「……探す?」
「ああ」
エレノアが首を傾げる。
「食べたことのないものを食べればいい。好きなものが見つかるかもしれない」
「……好きなもの」
「そうだ」
レオンハルトは何でもないことのように言った。
「君はまだ若い。これから知ればいい」
エレノアは黙って彼を見た。
これから。
そんな言葉を、自分に向けられたことがなかった。
「……はい」
小さく頷く。
「探してみます」
◇
朝食を終えた後。
マリアがエレノアの部屋を訪れた。
「お嬢様」
「はい」
「今日は街へ出てみませんか?」
「街……ですか?」
「はい。王都には素敵なお店がたくさんありますよ」
エレノアは少し考えた。
「私が行ってもよろしいのでしょうか?」
「もちろんです」
「公爵様に許可をいただかないと……」
「もういただいていますよ」
「……そうですか」
エレノアは頷いた。
それからマリアに手伝ってもらい、外出用のドレスへ着替えた。
鏡の前に立つ。
淡い色のドレス。
髪も丁寧に整えられている。
「お綺麗ですよ、お嬢様」
「ありがとうございます」
「もっと喜んでくださってもいいんですよ?」
「……?」
エレノアは本気で意味がわからないという顔をした。
マリアは苦笑する。
「いえ。なんでもありません」
◇
王都の街は、エレノアが今まで見たことのない景色で溢れていた。
色とりどりの店。
行き交う人々。
露店から漂う甘い匂い。
聞こえてくる笑い声。
エレノアは馬車の窓から外を眺め続けていた。
「何か気になるものがありますか?」
「……」
「遠慮せずに言ってくださいね」
「はい」
けれど、エレノアは何も言わなかった。
ドレス店に入っても。
「こちらはいかがですか?」
「綺麗です」
「お好きですか?」
「わかりません」
靴屋に入っても。
「こちらなど、お似合いになると思います」
「ありがとうございます」
「買いましょうか?」
「必要ございません」
アクセサリー店でも同じだった。
「お嬢様、こちらの髪飾りはいかがでしょう?」
「綺麗ですね」
「お気に召しました?」
「……わかりません」
マリアは困ったように笑った。
「お嬢様は、本当に欲しいものがないのですね」
「……はい」
エレノア自身も、不思議だった。
どれも綺麗だった。
けれど、
「欲しい」
という気持ちは湧いてこない。
今まで欲しがることを許されなかったから。
何かを欲しいと言えば、贅沢だと言われた。
だから、いつの間にか欲しいと思うことそのものをやめていた。
◇
いくつかの店を回り、帰ろうとしたときだった。
「お嬢様?」
マリアが振り返る。
エレノアがついてきていない。
「どうされました?」
「……」
エレノアは、小さな店の前に立っていた。
店先に並べられた品々。
その中に、一つの髪飾りがあった。
細い銀色の飾りに、小さな青い花が一輪ついている。
朝、庭で見た花に少し似ていた。
エレノアはじっとそれを見つめる。
「これが気になりますか?」
「……はい」
マリアが髪飾りを手に取る。
「つけてみましょうか?」
「……」
エレノアは鏡を見る。
髪に飾られた小さな花。
「お似合いですよ」
「……」
「どうですか?」
エレノアは鏡の中の自分を見る。
しばらくして。
「……欲しいです」
マリアは目を丸くした。
「え?」
「これが……欲しいです」
エレノアは自分でも驚いていた。
胸の奥が、ほんの少しだけ温かい。
初めてだった。
自分から何かを欲しいと思ったのは。
「もちろんです」
マリアは嬉しそうに微笑んだ。
「では、買いましょう」
「……ありがとうございます」
◇
屋敷へ戻ったのは夕方だった。
エレノアは自分の部屋へ戻る前に、庭へ立ち寄った。
今日買った髪飾りを指先でそっと触れる。
小さな青い花。
朝に見た花を思い出す。
「……綺麗」
その声を、偶然通りかかった人物が聞いていた。
「何がだ?」
「……!」
振り返る。
そこにはレオンハルトが立っていた。
「公爵様」
「その髪飾りは?」
「今日、買っていただきました」
「君が選んだのか?」
「はい」
「……気に入った?」
エレノアは髪飾りへ触れた。
そして。
「はい」
はっきりと答えた。
レオンハルトは少しだけ目を見開いた。
初めて聞いた。
彼女が自分から「はい」と答えた。
「そうか」
「はい」
「なら、よかったな」
「……ありがとうございます」
エレノアが微笑む。
ほんの小さな笑顔だった。
けれどレオンハルトは、その顔を見てしまった。
今まで、彼女が笑うところを見たことがなかった。
――こんな顔をするのか。
胸の奥に、奇妙な感覚が生まれる。
すぐに消えたような気もした。
けれど。
なぜか、目を逸らせなかった。
「公爵様?」
「……何でもない」
レオンハルトは踵を返す。
数歩進んだところで、ふと振り返った。
エレノアはまだ髪飾りを大切そうに触っている。
「……」
そしてまた歩き出す。
◇
夜。
エレノアが眠りについた頃。
「旦那様」
執務室でセバスチャンが声をかける。
「エレノア様ですが、本日の買い物でご自分から欲しいとおっしゃったものがあったそうです」
「……髪飾りか」
「ご存じでしたか」
「ああ」
レオンハルトは書類から目を上げない。
「それから、エレノア様が庭の花を気に入っているようです」
「そうか」
しばらく沈黙が続く。
やがてレオンハルトが口を開いた。
「……明日から、エレノアの部屋に花を飾れ」
セバスチャンが少し驚いた顔をする。
「どのような花にいたしましょう?」
「本人に選ばせろ」
「かしこまりました」
セバスチャンが一礼する。
扉へ向かう。
その背中へ、レオンハルトが付け加えた。
「……毎日、新しいものを」
「承知いたしました」
扉が閉まる。
一人になったレオンハルトは、椅子に深く腰掛けた。
「……」
妻が好きな花を部屋に飾る。
ただそれだけ。
妻が少しでも快適に過ごせるようにする。
公爵家の人間として当然のことだ。
そう自分に言い聞かせる。
けれど。
ふと、夕方のエレノアの笑顔が脳裏に浮かんだ。
――はい。
あの小さな声。
あの笑顔。
レオンハルトは目を閉じる。
「……妙な女だ」
そう呟いた。
まだ、恋ではない。
ただ。
もう少しだけ、彼女のことを知りたい。
その程度の、小さな興味だった。
「おはようございます」
エレノアが食堂へ入ると、いつもより少し早くレオンハルトが来ていた。
「……おはよう」
席につく。
しばらくすると、料理が運ばれてきた。
「お嬢様、本日は卵料理ですよ」
ローズが嬉しそうに皿を置いた。
ふわりと焼かれた卵に、温かなソースがかかっている。
エレノアは目の前の料理を見つめた。
「……昨日、私が卵を食べたいと言ったからですか?」
「ええ。もちろんです」
「……」
エレノアは少しだけ目を伏せた。
自分が言ったことを覚えていてくれた。
それが、なんだか不思議だった。
「いただきます」
ナイフを入れる。
一口。
「……美味しいです」
「よかった!」
ローズが笑う。
エレノアはもう一口食べる。
昨日よりも自然にフォークが進んでいく。
向かいに座るレオンハルトは書類を読みながら、時々彼女の様子を見ていた。
食べている。
昨日よりも、ずっと。
それだけなのに、なぜか安心する。
「エレノア」
「はい」
「他に食べたいものはないのか?」
「……」
エレノアは考え込んだ。
「わかりません」
「そうか」
「申し訳ございません」
「謝る必要はない」
レオンハルトは紅茶を口にする。
「なら、これから探せばいい」
「……探す?」
「ああ」
エレノアが首を傾げる。
「食べたことのないものを食べればいい。好きなものが見つかるかもしれない」
「……好きなもの」
「そうだ」
レオンハルトは何でもないことのように言った。
「君はまだ若い。これから知ればいい」
エレノアは黙って彼を見た。
これから。
そんな言葉を、自分に向けられたことがなかった。
「……はい」
小さく頷く。
「探してみます」
◇
朝食を終えた後。
マリアがエレノアの部屋を訪れた。
「お嬢様」
「はい」
「今日は街へ出てみませんか?」
「街……ですか?」
「はい。王都には素敵なお店がたくさんありますよ」
エレノアは少し考えた。
「私が行ってもよろしいのでしょうか?」
「もちろんです」
「公爵様に許可をいただかないと……」
「もういただいていますよ」
「……そうですか」
エレノアは頷いた。
それからマリアに手伝ってもらい、外出用のドレスへ着替えた。
鏡の前に立つ。
淡い色のドレス。
髪も丁寧に整えられている。
「お綺麗ですよ、お嬢様」
「ありがとうございます」
「もっと喜んでくださってもいいんですよ?」
「……?」
エレノアは本気で意味がわからないという顔をした。
マリアは苦笑する。
「いえ。なんでもありません」
◇
王都の街は、エレノアが今まで見たことのない景色で溢れていた。
色とりどりの店。
行き交う人々。
露店から漂う甘い匂い。
聞こえてくる笑い声。
エレノアは馬車の窓から外を眺め続けていた。
「何か気になるものがありますか?」
「……」
「遠慮せずに言ってくださいね」
「はい」
けれど、エレノアは何も言わなかった。
ドレス店に入っても。
「こちらはいかがですか?」
「綺麗です」
「お好きですか?」
「わかりません」
靴屋に入っても。
「こちらなど、お似合いになると思います」
「ありがとうございます」
「買いましょうか?」
「必要ございません」
アクセサリー店でも同じだった。
「お嬢様、こちらの髪飾りはいかがでしょう?」
「綺麗ですね」
「お気に召しました?」
「……わかりません」
マリアは困ったように笑った。
「お嬢様は、本当に欲しいものがないのですね」
「……はい」
エレノア自身も、不思議だった。
どれも綺麗だった。
けれど、
「欲しい」
という気持ちは湧いてこない。
今まで欲しがることを許されなかったから。
何かを欲しいと言えば、贅沢だと言われた。
だから、いつの間にか欲しいと思うことそのものをやめていた。
◇
いくつかの店を回り、帰ろうとしたときだった。
「お嬢様?」
マリアが振り返る。
エレノアがついてきていない。
「どうされました?」
「……」
エレノアは、小さな店の前に立っていた。
店先に並べられた品々。
その中に、一つの髪飾りがあった。
細い銀色の飾りに、小さな青い花が一輪ついている。
朝、庭で見た花に少し似ていた。
エレノアはじっとそれを見つめる。
「これが気になりますか?」
「……はい」
マリアが髪飾りを手に取る。
「つけてみましょうか?」
「……」
エレノアは鏡を見る。
髪に飾られた小さな花。
「お似合いですよ」
「……」
「どうですか?」
エレノアは鏡の中の自分を見る。
しばらくして。
「……欲しいです」
マリアは目を丸くした。
「え?」
「これが……欲しいです」
エレノアは自分でも驚いていた。
胸の奥が、ほんの少しだけ温かい。
初めてだった。
自分から何かを欲しいと思ったのは。
「もちろんです」
マリアは嬉しそうに微笑んだ。
「では、買いましょう」
「……ありがとうございます」
◇
屋敷へ戻ったのは夕方だった。
エレノアは自分の部屋へ戻る前に、庭へ立ち寄った。
今日買った髪飾りを指先でそっと触れる。
小さな青い花。
朝に見た花を思い出す。
「……綺麗」
その声を、偶然通りかかった人物が聞いていた。
「何がだ?」
「……!」
振り返る。
そこにはレオンハルトが立っていた。
「公爵様」
「その髪飾りは?」
「今日、買っていただきました」
「君が選んだのか?」
「はい」
「……気に入った?」
エレノアは髪飾りへ触れた。
そして。
「はい」
はっきりと答えた。
レオンハルトは少しだけ目を見開いた。
初めて聞いた。
彼女が自分から「はい」と答えた。
「そうか」
「はい」
「なら、よかったな」
「……ありがとうございます」
エレノアが微笑む。
ほんの小さな笑顔だった。
けれどレオンハルトは、その顔を見てしまった。
今まで、彼女が笑うところを見たことがなかった。
――こんな顔をするのか。
胸の奥に、奇妙な感覚が生まれる。
すぐに消えたような気もした。
けれど。
なぜか、目を逸らせなかった。
「公爵様?」
「……何でもない」
レオンハルトは踵を返す。
数歩進んだところで、ふと振り返った。
エレノアはまだ髪飾りを大切そうに触っている。
「……」
そしてまた歩き出す。
◇
夜。
エレノアが眠りについた頃。
「旦那様」
執務室でセバスチャンが声をかける。
「エレノア様ですが、本日の買い物でご自分から欲しいとおっしゃったものがあったそうです」
「……髪飾りか」
「ご存じでしたか」
「ああ」
レオンハルトは書類から目を上げない。
「それから、エレノア様が庭の花を気に入っているようです」
「そうか」
しばらく沈黙が続く。
やがてレオンハルトが口を開いた。
「……明日から、エレノアの部屋に花を飾れ」
セバスチャンが少し驚いた顔をする。
「どのような花にいたしましょう?」
「本人に選ばせろ」
「かしこまりました」
セバスチャンが一礼する。
扉へ向かう。
その背中へ、レオンハルトが付け加えた。
「……毎日、新しいものを」
「承知いたしました」
扉が閉まる。
一人になったレオンハルトは、椅子に深く腰掛けた。
「……」
妻が好きな花を部屋に飾る。
ただそれだけ。
妻が少しでも快適に過ごせるようにする。
公爵家の人間として当然のことだ。
そう自分に言い聞かせる。
けれど。
ふと、夕方のエレノアの笑顔が脳裏に浮かんだ。
――はい。
あの小さな声。
あの笑顔。
レオンハルトは目を閉じる。
「……妙な女だ」
そう呟いた。
まだ、恋ではない。
ただ。
もう少しだけ、彼女のことを知りたい。
その程度の、小さな興味だった。

