翌朝。
エレノアはいつものように、朝日が昇る前に目を覚ました。
身支度を整え、寝台の上の布団を綺麗に整える。
それから、何か仕事がないかと部屋を出ようとしたところで――
「お嬢様」
扉の前に、マリアが立っていた。
「おはようございます」
「おはようございます。……朝食へ参りましょう」
「はい」
エレノアは素直についていく。
食堂へ入ると、すでにレオンハルトが席についていた。
「おはようございます、公爵様」
「ああ」
エレノアが席につく。
ほどなくして、料理が運ばれてきた。
パン。
卵。
野菜のスープ。
焼いた肉。
果物。
いつもと変わらない、豪華な朝食。
エレノアはパンを一切れだけ取り、卵を少しだけ皿へ乗せた。
それを見たレオンハルトが、眉を寄せる。
「……それだけか?」
「はい」
「昨日も同じだったな」
「そう、でしたでしょうか」
「そうだ」
レオンハルトは彼女の皿を見る。
小さすぎる。
十六歳の少女が食べる量とは到底思えない。
「なぜ食べない?」
「……」
エレノアは少し考える。
「食べてはいけないと言われておりましたので」
レオンハルトの手が止まった。
「誰に?」
「父にです」
「……いつ?」
「幼い頃からです」
あまりにも淡々とした口調だった。
まるで、どうでもいいことを話しているように。
レオンハルトは昨日の調査報告を思い出した。
十分な食事を与えられていなかった。
新しい衣服も買ってもらえなかった。
家事をさせられていた。
そして今。
食べることさえ、自分で制限している。
「……エレノア」
「はい」
「この家では、誰も君に食べるなとは言わない」
「……」
「むしろ逆だ」
レオンハルトは目の前の料理を指した。
「食べろ」
「はい」
「遠慮する必要もない」
「はい」
「好きなだけ食べていい」
エレノアは目を瞬かせた。
「……好きなだけ、ですか?」
「ああ」
「……残しても?」
「構わない」
「たくさん食べても?」
「構わない」
「……」
エレノアは料理を見る。
それからレオンハルトを見る。
「本当に、よろしいのでしょうか」
「何度言わせるつもりだ」
「申し訳ございません」
「だから、謝るな」
「……はい」
エレノアは少しだけ困った顔をした。
そして。
今までよりほんの少し多く、料理を皿へ取った。
それを見たレオンハルトは、何も言わなかった。
◇
朝食が終わる頃。
エレノアの前には、まだいくつか料理が残っていた。
彼女はフォークを置いた。
「ごちそうさまでした」
「もう終わりか?」
「はい」
「足りたか?」
「……」
エレノアは自分のお腹へ手を当てる。
「……わかりません」
レオンハルトは思わず目を細めた。
「わからない?」
「お腹がいっぱい、という感覚を……あまり知りませんので」
まただった。
この少女は、何も知らない。
空腹も。
満腹も。
好き嫌いも。
欲しいものも。
普通の人間なら幼い頃に自然と覚えるようなことを、何一つ教えられていない。
レオンハルトは静かに息を吐いた。
「ローズを呼べ」
「かしこまりました」
近くにいた侍女が頭を下げる。
しばらくして料理長のローズがやってきた。
「お呼びでしょうか、旦那様」
「エレノアの食事について、今後は少し考えてくれ」
「……はい?」
「食べられるだけ食べさせろ」
「承知しました」
レオンハルトはエレノアを見る。
「嫌いなものがあれば言え」
「……」
「何でも食べる必要はない」
「嫌いなもの……」
エレノアは真剣に考える。
「わかりません」
「……そうか」
ローズが困ったように笑った。
「では、少しずつ色々なものを食べていただきましょう」
「はい」
エレノアが頷く。
「お嬢様。明日の朝は何が食べたいですか?」
「……」
また、エレノアは考え込んだ。
しばらくして。
「……卵が、食べたいです」
ローズの目が丸くなる。
「卵ですか?」
「はい」
「では、明日は卵料理にしましょう!」
「……ありがとうございます」
エレノアは小さく頭を下げた。
その横顔を見ながら、レオンハルトは何も言わなかった。
ただ。
彼女が自分から「食べたい」と言ったことだけが、妙に印象に残った。
◇
その日の昼。
「お嬢様、昼食の時間ですよ」
マリアが呼びに来た。
「はい」
エレノアは食堂へ向かう。
そこには、ローズが用意した料理が並んでいた。
「今日はスープとパン、それから柔らかく煮込んだお肉です」
「……はい」
「無理に全部食べなくても大丈夫ですよ」
「わかりました」
エレノアは席につく。
そして、一口。
スープを飲む。
「……」
もう一口。
肉を食べる。
「……美味しいです」
ローズが嬉しそうに笑った。
「よかったです」
それでも、まだ量は少ない。
けれど。
食事が終わったとき、エレノアは小さく呟いた。
「……もう少し、食べてもよろしいでしょうか」
「もちろんです!」
ローズはすぐに料理を取り分けた。
「いくらでもどうぞ」
エレノアは少しだけ目を見開いた。
「……ありがとうございます」
そして、もう一口。
◇
その日の夕方。
レオンハルトは執務室で仕事をしていた。
そこへセバスチャンが入ってくる。
「旦那様」
「何だ」
「エレノア様ですが、本日の昼食はいつもより多く召し上がりました」
「そうか」
「それから、料理長に『もう少し食べてもいいか』と尋ねられたそうです」
レオンハルトのペンが止まった。
「……そうか」
「はい」
「それだけか?」
「はい」
「……」
なぜだろう。
ほんの少しだけ、胸の奥が軽くなった。
食べた。
それだけの話なのに。
「今後も食事の量には気をつけろ」
「かしこまりました」
セバスチャンが出ていく。
レオンハルトは再び書類へ目を落とす。
だが、しばらくして。
ペンを持つ手が止まった。
「……もう少し、食べたか」
誰もいない部屋で、ぽつりと呟く。
自分でも馬鹿らしいと思う。
妻が食事をした。
それだけのことだ。
けれど。
翌朝の朝食に、エレノアの好きだと言った卵料理を出すよう、無意識のうちに料理長へ伝えていた。
まだ彼は、それを「気遣い」だとは認めていなかった。

