エレノアがアシュフォード公爵家へ嫁いでから、三日が経った。
その三日間。
レオンハルトとエレノアが交わした言葉は、驚くほど少なかった。
「おはようございます」
「……おはよう」
「おやすみなさいませ」
「おやすみ」
それだけ。
食事の席が同じでも、エレノアは静かに食事をしているだけ。
レオンハルトが仕事の話をしていても、彼女が口を挟むことはない。
彼女自身のことを話すこともない。
まるで、そこにいることさえ遠慮しているようだった。
――妙な女だ。
レオンハルトはそう思っていた。
◇
「旦那様」
その日の夜。
執務室で仕事をしていたレオンハルトのもとへ、執事のセバスチャンがやってきた。
「何だ」
「先日ご命令いただきました、ベルナール男爵家についての調査が完了いたしました」
レオンハルトの手が止まる。
「聞こう」
セバスチャンは一枚の書類を差し出した。
「まず、ベルナール男爵家の借金についてですが……こちらはかなり以前から続いていたものです」
「知っている」
「はい。問題は、エレノア様についてです」
レオンハルトは書類へ目を落とした。
「エレノア様は幼少期から、屋敷内の家事をほぼ一人で任されていたようです」
レオンハルトの眉が僅かに動く。
「教育は?」
「最低限の読み書きと礼儀作法のみです。家庭教師をつけた記録はありません」
「社交界には?」
「ほとんど出ておりません」
「友人は?」
「確認できませんでした」
「……」
レオンハルトは黙って書類をめくった。
「食事については?」
その質問に、セバスチャンは少し間を置いた。
「十分な量を与えられていたとは言えません」
「理由は?」
「男爵家の財政難です」
「娘一人の食費まで削るほどか」
「……それだけではないようです」
セバスチャンが一枚の紙を取り出した。
「エレノア様には、弟君が一人いらっしゃいます」
「弟?」
「はい。弟君には通常の食事が用意されていた記録があります」
レオンハルトは黙った。
つまり。
家が貧しかったから食べられなかったのではない。
――エレノアには、与えられなかった。
「衣服も同様です」
セバスチャンが続ける。
「成長に合わせた新しいドレスを購入された記録は、ほとんどありません。現在お召しになっているものも、古い仕立て直しだと思われます」
レオンハルトは、初めて彼女と会った日のことを思い出した。
確かに。
あのドレスは、十六歳の令嬢が着るにはあまりにも質素だった。
「それから……」
セバスチャンの声が少し低くなる。
「ベルナール男爵夫妻は、エレノア様を公爵家へ嫁がせることについて、一度も娘本人の意思を確認しておりません」
「……」
「男爵家が抱えていた借金の一部を肩代わりすることを条件に、エレノア様を差し出した形です」
レオンハルトは椅子に深く腰掛けた。
「そうか」
それだけ言った。
怒りはない。
同情もない。
少なくとも、本人はそう思っていた。
「もう一つ、気になる報告がございます」
「何だ」
「エレノア様が公爵家へ向かう前、男爵夫妻から何度もこう言われていたそうです」
セバスチャンが報告書を見る。
「『公爵家では絶対に逆らうな』」
「『捨てられたら、お前のせいだ』」
「……」
部屋が静まり返った。
暖炉の薪が、ぱちりと音を立てた。
レオンハルトは目を伏せる。
あの日。
エレノアに「私は君を愛するつもりはない」と伝えたとき。
彼女は何の感情も見せず、
『はい。承知しております』
と答えた。
普通なら。
自分が愛されないと知れば、少なくとも悲しむ。
政略結婚であったとしても、不安になる。
けれど彼女には、それがなかった。
――最初から、期待していなかったのだ。
「……もういい」
レオンハルトは書類を閉じた。
「下がれ」
「かしこまりました」
セバスチャンが頭を下げる。
扉が閉まる。
一人になった執務室で、レオンハルトはしばらく動かなかった。
◇
翌朝。
レオンハルトが食堂へ入ると、すでにエレノアが席についていた。
「おはようございます」
「……おはよう」
彼女の前には朝食が並んでいる。
だが、やはり食べる量は少ない。
パンを一切れ。
卵を少し。
それだけ。
レオンハルトは昨日の報告を思い出した。
「それだけしか食べないのか?」
「はい」
「足りないだろう」
「問題ございません」
「……」
同じ答え。
レオンハルトは彼女の顔を見る。
細い身体。
血色の薄い頬。
華奢な手。
「それは誰に教えられた?」
「……何がでしょうか」
「『問題ない』と言えば、何でも済むと思っているのか」
エレノアは少しだけ目を瞬かせた。
「……申し訳ございません」
「謝れと言っているわけではない」
「はい」
「……」
会話が続かない。
レオンハルトは頭を抱えたくなった。
なぜ、この女との会話はこんなにも噛み合わないのだ。
「今日は何をする?」
「……」
エレノアはまた困った顔をした。
「わかりません」
「昨日は?」
「庭を散歩いたしました」
「楽しかったか?」
「……」
エレノアはしばらく考えた。
「わかりません」
「そうか」
そこで会話は終わった。
だが。
食堂を出ていくエレノアの背中を、レオンハルトは無意識に目で追っていた。
◇
昼。
執務室へ向かう途中、レオンハルトは庭に人影を見つけた。
エレノアだった。
彼女は花壇の前にしゃがみ込み、庭師のトーマスと話している。
「こちらの花は、昨日より少し開いています」
「本当ですね」
「毎日見ていると変化がわかりますよ」
「……毎日、見てもいいのですか?」
「もちろんです」
「そうですか」
エレノアが花へ手を伸ばす。
触れる寸前で止めた。
「触ってもよろしいでしょうか?」
「もちろん」
トーマスが笑う。
エレノアはそっと花びらに触れた。
「……柔らかい」
その声には、ほんの少しだけ温度があった。
レオンハルトは足を止めた。
あの少女が。
初めて、自分から何かを口にした。
――柔らかい。
ただ、それだけ。
それなのに。
なぜかレオンハルトは、その光景から目を離せなかった。
「旦那様?」
後ろから声がする。
振り返ると、セバスチャンが立っていた。
「……何でもない」
そう言って歩き出す。
けれど、数歩進んだところで、もう一度だけ振り返った。
エレノアはまだ花を見ていた。
小さな身体で。
誰かに何かを求めることもなく。
ただ静かに、花を眺めている。
レオンハルトは目を細めた。
――不思議な女だ。
その日の夜。
レオンハルトは執務室の窓から、庭を見下ろした。
そこには、昼間と同じ花が咲いている。
そしてふと。
「……明日も、あそこにいるのだろうか」
そんなことを考えてしまった。
すぐに自分で気づく。
「……何を考えているんだ、私は」
馬鹿馬鹿しい。
妻の行動を気にする必要などない。
そう思いながらも。
レオンハルトは翌朝、いつもより少しだけ早く食堂へ向かうことになる。
――自分でも気づかないほど小さな変化だった。
その三日間。
レオンハルトとエレノアが交わした言葉は、驚くほど少なかった。
「おはようございます」
「……おはよう」
「おやすみなさいませ」
「おやすみ」
それだけ。
食事の席が同じでも、エレノアは静かに食事をしているだけ。
レオンハルトが仕事の話をしていても、彼女が口を挟むことはない。
彼女自身のことを話すこともない。
まるで、そこにいることさえ遠慮しているようだった。
――妙な女だ。
レオンハルトはそう思っていた。
◇
「旦那様」
その日の夜。
執務室で仕事をしていたレオンハルトのもとへ、執事のセバスチャンがやってきた。
「何だ」
「先日ご命令いただきました、ベルナール男爵家についての調査が完了いたしました」
レオンハルトの手が止まる。
「聞こう」
セバスチャンは一枚の書類を差し出した。
「まず、ベルナール男爵家の借金についてですが……こちらはかなり以前から続いていたものです」
「知っている」
「はい。問題は、エレノア様についてです」
レオンハルトは書類へ目を落とした。
「エレノア様は幼少期から、屋敷内の家事をほぼ一人で任されていたようです」
レオンハルトの眉が僅かに動く。
「教育は?」
「最低限の読み書きと礼儀作法のみです。家庭教師をつけた記録はありません」
「社交界には?」
「ほとんど出ておりません」
「友人は?」
「確認できませんでした」
「……」
レオンハルトは黙って書類をめくった。
「食事については?」
その質問に、セバスチャンは少し間を置いた。
「十分な量を与えられていたとは言えません」
「理由は?」
「男爵家の財政難です」
「娘一人の食費まで削るほどか」
「……それだけではないようです」
セバスチャンが一枚の紙を取り出した。
「エレノア様には、弟君が一人いらっしゃいます」
「弟?」
「はい。弟君には通常の食事が用意されていた記録があります」
レオンハルトは黙った。
つまり。
家が貧しかったから食べられなかったのではない。
――エレノアには、与えられなかった。
「衣服も同様です」
セバスチャンが続ける。
「成長に合わせた新しいドレスを購入された記録は、ほとんどありません。現在お召しになっているものも、古い仕立て直しだと思われます」
レオンハルトは、初めて彼女と会った日のことを思い出した。
確かに。
あのドレスは、十六歳の令嬢が着るにはあまりにも質素だった。
「それから……」
セバスチャンの声が少し低くなる。
「ベルナール男爵夫妻は、エレノア様を公爵家へ嫁がせることについて、一度も娘本人の意思を確認しておりません」
「……」
「男爵家が抱えていた借金の一部を肩代わりすることを条件に、エレノア様を差し出した形です」
レオンハルトは椅子に深く腰掛けた。
「そうか」
それだけ言った。
怒りはない。
同情もない。
少なくとも、本人はそう思っていた。
「もう一つ、気になる報告がございます」
「何だ」
「エレノア様が公爵家へ向かう前、男爵夫妻から何度もこう言われていたそうです」
セバスチャンが報告書を見る。
「『公爵家では絶対に逆らうな』」
「『捨てられたら、お前のせいだ』」
「……」
部屋が静まり返った。
暖炉の薪が、ぱちりと音を立てた。
レオンハルトは目を伏せる。
あの日。
エレノアに「私は君を愛するつもりはない」と伝えたとき。
彼女は何の感情も見せず、
『はい。承知しております』
と答えた。
普通なら。
自分が愛されないと知れば、少なくとも悲しむ。
政略結婚であったとしても、不安になる。
けれど彼女には、それがなかった。
――最初から、期待していなかったのだ。
「……もういい」
レオンハルトは書類を閉じた。
「下がれ」
「かしこまりました」
セバスチャンが頭を下げる。
扉が閉まる。
一人になった執務室で、レオンハルトはしばらく動かなかった。
◇
翌朝。
レオンハルトが食堂へ入ると、すでにエレノアが席についていた。
「おはようございます」
「……おはよう」
彼女の前には朝食が並んでいる。
だが、やはり食べる量は少ない。
パンを一切れ。
卵を少し。
それだけ。
レオンハルトは昨日の報告を思い出した。
「それだけしか食べないのか?」
「はい」
「足りないだろう」
「問題ございません」
「……」
同じ答え。
レオンハルトは彼女の顔を見る。
細い身体。
血色の薄い頬。
華奢な手。
「それは誰に教えられた?」
「……何がでしょうか」
「『問題ない』と言えば、何でも済むと思っているのか」
エレノアは少しだけ目を瞬かせた。
「……申し訳ございません」
「謝れと言っているわけではない」
「はい」
「……」
会話が続かない。
レオンハルトは頭を抱えたくなった。
なぜ、この女との会話はこんなにも噛み合わないのだ。
「今日は何をする?」
「……」
エレノアはまた困った顔をした。
「わかりません」
「昨日は?」
「庭を散歩いたしました」
「楽しかったか?」
「……」
エレノアはしばらく考えた。
「わかりません」
「そうか」
そこで会話は終わった。
だが。
食堂を出ていくエレノアの背中を、レオンハルトは無意識に目で追っていた。
◇
昼。
執務室へ向かう途中、レオンハルトは庭に人影を見つけた。
エレノアだった。
彼女は花壇の前にしゃがみ込み、庭師のトーマスと話している。
「こちらの花は、昨日より少し開いています」
「本当ですね」
「毎日見ていると変化がわかりますよ」
「……毎日、見てもいいのですか?」
「もちろんです」
「そうですか」
エレノアが花へ手を伸ばす。
触れる寸前で止めた。
「触ってもよろしいでしょうか?」
「もちろん」
トーマスが笑う。
エレノアはそっと花びらに触れた。
「……柔らかい」
その声には、ほんの少しだけ温度があった。
レオンハルトは足を止めた。
あの少女が。
初めて、自分から何かを口にした。
――柔らかい。
ただ、それだけ。
それなのに。
なぜかレオンハルトは、その光景から目を離せなかった。
「旦那様?」
後ろから声がする。
振り返ると、セバスチャンが立っていた。
「……何でもない」
そう言って歩き出す。
けれど、数歩進んだところで、もう一度だけ振り返った。
エレノアはまだ花を見ていた。
小さな身体で。
誰かに何かを求めることもなく。
ただ静かに、花を眺めている。
レオンハルトは目を細めた。
――不思議な女だ。
その日の夜。
レオンハルトは執務室の窓から、庭を見下ろした。
そこには、昼間と同じ花が咲いている。
そしてふと。
「……明日も、あそこにいるのだろうか」
そんなことを考えてしまった。
すぐに自分で気づく。
「……何を考えているんだ、私は」
馬鹿馬鹿しい。
妻の行動を気にする必要などない。
そう思いながらも。
レオンハルトは翌朝、いつもより少しだけ早く食堂へ向かうことになる。
――自分でも気づかないほど小さな変化だった。

