氷の公爵様は、愛を知らない令嬢を離してくれない

 翌朝。

「エレノアちゃん!」

 朝食を終えたエレノアのもとへ、セシリアが勢いよくやってきた。

「今日は私と一緒に過ごしましょう!」

「……はい」

「よかった!」

 セシリアは嬉しそうにエレノアの手を取る。

 その様子を見ていたレオンハルトが口を挟んだ。

「母上」

「何?」

「エレノアに無理をさせるな」

「分かってるわよ」

「疲れたらすぐ休ませてくれ」

「はいはい」

「食事の時間も――」

「レオンハルト」

 セシリアが呆れたように息子を見る。

「あなた、エレノアちゃんのお母さんなの?」

「……」

 レオンハルトは黙った。

 エレノアが小さく笑う。

「公爵様、お義母さんみたいです」

「……君まで言うのか」

 セシリアが吹き出す。

「ほら、行きましょう。エレノアちゃん!」

「はい」

 二人が去っていく。

 レオンハルトはその背中を見送った。




 ◇

「エレノアちゃん、今日は何をしましょうか?」

 セシリアと二人きりになった部屋で、エレノアは少し考える。

「……何でも大丈夫です」

「じゃあ、お買い物に行きましょう!」

「お買い物?」


「ええ」

「何を買うのですか?」

「それを今から決めるのよ」

 エレノアは首を傾げた。

 セシリアは笑う。

「エレノアちゃんは、欲しいものない?」

「ありません」

「本当に?」

「はい」

 エレノアは少し考えてから答えた。

「必要なものは、全部用意していただいています」

「……」

 セシリアの笑顔が少しだけ曇った。

「そう……」

「はい」

「じゃあ、欲しいものじゃなくていいわ」

「?」

「好きなものは?」

「好きなもの……」

 エレノアは真剣に考える。

 花。

 焼き菓子。

 美味しい料理。

 そして。

「……本、です」

「本?」

「はい」

「どんな本が好き?」

「植物の本や、動物の本が好きです」

「じゃあ、決まりね!」

 セシリアは立ち上がった。

「本を買いに行きましょう!」

「……私が選んでいいのですか?」

「もちろんよ」

 エレノアは困ったようにセシリアを見る。

「もう!」

 セシリアは笑った。

「遠慮しなくていいの」





 ◇

 街の本屋。

 エレノアは棚の前で立ち止まっていた。

「……」

 目の前には、たくさんの本。

 植物図鑑。

 動物図鑑。

 料理の本。

 童話。

 歴史書。

「好きなだけ選んでいいのよ」

 セシリアが後ろから言う。

「……」

 エレノアは一冊の本を手に取った。

 植物図鑑。

 そして、動物図鑑。

 もう一冊。

 料理の本。

「三冊も選んだわね」

「……多いでしょうか」

「少ないくらいよ」

「そうですか?」

「ええ」

 セシリアは嬉しそうに笑う。

「ありがとうございます、お義母様」

エレノアは大切そうに本を抱える。

「どういたしまして」

 セシリアは嬉しそうに微笑んだ。



 ◇

 屋敷に戻ると。

「おかえりなさいませ」

 レオンハルトが玄関で出迎えた。

「ただいま!」

 セシリアが答える。

「……なぜ母上が先に答える」

「いいじゃない」

 その横から、エレノアが顔を出した。

「おかえりなさいませ、公爵様」

「ああ。ただいま」

「今日はお義母様と本を買いに行きました」

「そうか」

 エレノアが嬉しそうに本を見せる。

「植物の本と、動物の本と、料理の本です」

「……三冊?」

「はい」

「他には?」

「ありません」

 レオンハルトが少し眉を寄せる。

「それだけか?」

「はい」

「欲しいものはなかったのか?」

「これが欲しかったです」

「……そうか」

 レオンハルトは本を見つめる。

 そして。

「なら、よかったな」

「はい」

 エレノアが笑う。

 その笑顔を見て、レオンハルトも微笑んだ。

「それで、今日は楽しかったか?」

「とても楽しかったです」

 その言葉が、レオンハルトには嬉しかった。

 最近。

 エレノアは「楽しい」とよく言うようになった。

 以前の彼女からは考えられない。

 そして。

 そんな変化を、一番近くで見られることが嬉しい。

「また行きたいか?」

「はい」

「なら、次は俺と行こう」

「……お義母様とではなく?」

 エレノアが不思議そうに尋ねる。

「……」

 レオンハルトは一瞬黙った。

「俺とも行けばいい」

「はい」

 エレノアは素直に頷いた。

 セシリアが後ろでニヤニヤしている。

「レオンハルト」

「何だ?」

「あなたも可愛いところがあるのね」

「何の話だ」

「何でもないわ」



 ◇

 夕食後。

 エレノアは今日買ってもらった本を部屋で読んでいた。

 そこへレオンハルトがやってくる。

「エレノア」

「はい」

「まだ読んでいたのか」

「はい。面白いです」

「そうか」

 レオンハルトは向かいの椅子に座る。

 エレノアは本を閉じた。

「どうされました?」

「いや」

 少しだけ沈黙が流れる。

 そして。

「……そういえば」

「はい」

「君は俺のことを、いつまで『公爵様』と呼ぶつもりだ?」

「……?」

 エレノアは瞬きをした。

「駄目ですか?」

「駄目というわけではない」

「では、何とお呼びすれば?」

 レオンハルトは少し考える。

「家の中なら……『旦那様』でもいい」

「旦那様……」

 エレノアが小さく呟く。

「呼んでみろ」

「今ですか?」

「ああ」

 エレノアはレオンハルトを見る。

 少しだけ緊張したように。

「……旦那様」

 レオンハルトの動きが止まった。

「……」

「旦那様?」

「……ああ」

「大丈夫ですか?」

「問題ない」

 問題はあった。

 想像していた以上だった。

 今まで何度も「公爵様」と呼ばれてきた。

 けれど。

「旦那様」

 その一言には。

 自分たちが夫婦であることを、改めて突きつけられるような響きがあった。

「変ですか?」

「いや」

 レオンハルトは目を逸らした。

「……悪くない」

「では、これからそう呼びます」

「ああ」

「旦那様」

「……何だ?」

「おやすみなさいませ」

「……おやすみ」

 エレノアが笑って部屋へ戻っていく。

 扉が閉まる。

 レオンハルトは一人になった。

「……」

 そして小さく息を吐く。

「……これは、慣れるまで時間がかかりそうだな」




 ◇

 翌朝。

「おはようございます、旦那様」

「……おはよう」

 朝食の席。

 エレノアが自然にそう呼んだ。

 レオンハルトは一瞬だけ固まった。

 だが。

「おはよう、エレノア」

 今度は自分から、彼女の名前を呼ぶ。

「今日もたくさん食べろ」

「はい」

「それから、昼に時間があるなら庭へ行こう」

「いいのですか?」

「ああ」

「嬉しいです」

 エレノアが笑う。

 レオンハルトも笑う。

 その様子を見ていたセバスチャンは、静かに紅茶を注いだ。

「……」

 そして心の中で思う。

 ――旦那様は、もう完全に手遅れでございますな。

 だが。

 それでいいのだろう。

 契約から始まった夫婦は。

 少しずつ。

 確かに。

 家族になり始めていた。