朝。
レオンハルトは執務室で書類に目を通していた。
いつもと変わらない朝のはずだった。
だが。
「旦那様」
セバスチャンが静かに入ってきた。
「何だ?」
「本日のご予定ですが、午後から王宮へお越しいただくことになっております」
「ああ。覚えている」
「それと、奥様ですが――」
その言葉に、レオンハルトの視線が書類から上がる。
「エレノアがどうした?」
「本日は庭師のトーマスと、花壇の手入れをされるそうです」
「……そうか」
レオンハルトは再び書類へ視線を戻す。
「それは何時だ?」
「十時頃かと」
「……そうか」
セバスチャンは一礼する。
「それでは、失礼いたします」
セバスチャンが部屋を出ていく。
レオンハルトは再び書類を見る。
しかし。
文字が頭に入ってこない。
「……」
なぜ自分は、エレノアの予定を気にしているのだろう。
妻なのだから。
知っていて当然だ。
そう思いながらも、レオンハルトは時計を見た。
まだ九時半。
「……」
長い。
◇
「公爵様?」
「……」
「公爵様、どうされたのですか?」
気づけば、レオンハルトは庭にいた。
エレノアが不思議そうに彼を見上げている。
「仕事は?」
「休憩だ」
「そうですか」
「何をしている?」
「お花のお手入れです」
エレノアは手にしていた小さな鋏を見せた。
「トーマスさんが教えてくださっています」
「そうか」
「公爵様もやりますか?」
「……俺が?」
「はい」
エレノアは小さな鋏を差し出す。
レオンハルトはそれを受け取った。
「どうする?」
「ここを切るそうです」
エレノアが花を指差す。
「……こうか?」
「はい」
レオンハルトが枝を切る。
「上手です」
「そうか?」
「はい。トーマスさんより少し怖いですが」
「……」
少し離れたところでトーマスが肩を震わせた。
「……そうか」
レオンハルトは苦笑した。
最近。
エレノアはよく笑うようになった。
そして、以前よりずっと自分の気持ちを口にするようになった。
「公爵様」
「何だ?」
「この花、好きです」
「前にも言っていたな」
「覚えていらしたのですか?」
「ああ」
「嬉しいです」
エレノアが笑う。
レオンハルトはその顔を見つめた。
――まただ。
胸の奥が温かくなる。
彼女が笑うだけで、嬉しい。
彼女が喜ぶことをしてやりたい。
彼女が悲しそうにしていれば、理由を知りたい。
困っていれば助けたい。
他の誰かが彼女に近づけば、面白くない。
そして。
彼女が自分を頼ってくれると、どうしようもなく嬉しい。
「……」
レオンハルトはふと気づいた。
自分はいつから、こんなにも彼女のことばかり考えるようになったのだろう。
◇
昼食の時間。
「公爵様」
「何だ?」
「こちら、少し食べてみませんか?」
エレノアが小皿を差し出す。
「料理長が新しい焼き菓子を作ったそうです」
「君が作ったのか?」
「少しだけお手伝いしました」
レオンハルトは一つ取る。
「……甘いな」
「はい」
「君は好きなのか?」
「好きです」
「そうか」
エレノアが嬉しそうに笑う。
「もう一つ、いかがですか?」
「ああ」
レオンハルトがもう一つ食べる。
「美味しいですか?」
「悪くない」
「では、もう一つ」
「……」
気づけば、皿の上の焼き菓子がどんどん減っていく。
エレノアは嬉しそうにそれを見ている。
「公爵様」
「何だ?」
「公爵様も甘いものがお好きだったのですね」
「……いや」
「でも三つ召し上がりました」
「君が勧めるからだ」
「そうですか」
エレノアは納得した。
そして自分も一つ食べる。
「美味しいです」
「そうだな」
こんな時間が。
最近は当たり前になっていた。
一緒に食事をして。
一緒に庭を歩いて。
他愛のない話をして。
彼女の笑顔を見る。
それだけで満たされる。
――それだけで?
レオンハルトはふと手を止めた。
「……」
違う。
もう「それだけ」ではない。
もっと一緒にいたい。
もっと自分を頼ってほしい。
もっと彼女のことを知りたい。
そして――。
自分だけを見てほしい。
◇
夜。
レオンハルトは王宮から戻ってきた。
玄関へ入ったところで、エレノアの声が聞こえる。
「おかえりなさいませ、公爵様」
エレノアが駆け寄ってくる。
その姿を見た瞬間。
レオンハルトの表情が緩んだ。
「ただいま」
「……?」
エレノアが少し目を丸くする。
「どうしました?」
「いや」
「疲れましたか?」
「少しな」
「では、お茶をお持ちします」
「君が?」
「はい」
「……頼む」
「はい」
エレノアは嬉しそうに頷き、厨房へ向かっていった。
レオンハルトはその背中を見つめる。
たったそれだけのことなのに。
帰ってきて彼女がいることが、嬉しい。
待っていてくれることが、嬉しい。
自分を迎えてくれることが、嬉しい。
そのとき。
「旦那様」
背後から声がした。
「……セバスチャンか」
「はい」
セバスチャンはレオンハルトの隣に立つ。
「ずいぶん嬉しそうでございますね」
「……そうか?」
「はい」
「疲れているだけだ」
「左様でございますか」
セバスチャンは穏やかに微笑んだ。
「それにしても――」
「何だ?」
「奥様がお茶を取りに行かれた途端、そんなに嬉しそうなお顔をされるとは」
「……」
レオンハルトは黙る。
「旦那様」
「……何だ」
「もう、お認めになった方がよろしいのでは?」
「何をだ」
セバスチャンは少しだけ間を置いた。
「奥様を愛していることです」
空気が止まった。
レオンハルトはセバスチャンを見る。
「何を言っている」
「事実を申し上げただけでございます」
「俺は――」
言葉が続かない。
セバスチャンは何も言わず、静かに待っている。
「……俺は、妻として大切にしているだけだ」
「……」
「奥様が他の男性を頼られても?」
エレノアが誰かに笑いかけていると、胸の奥がざわつく。
面白くない。
「奥様がこの屋敷を出ていかれても?」
「……」
――それは。
考えたくもない。
胸の奥が、強く締めつけられた。
エレノアがいなくなる。
この屋敷から。
自分の隣から。
その光景を想像しただけで、息が苦しくなる。
「……嫌だ」
ぽつりと声が漏れた。
セバスチャンが微笑む。
「はい」
「……俺は」
レオンハルトは自分の胸元へ手を当てる。
ここにある感情を、今まで何と呼べばいいのかわからなかった。
けれど。
もう、わかる。
「俺は……エレノアを愛しているのか」
「はい」
セバスチャンは迷いなく答えた。
「私には、そう見えております」
「……」
レオンハルトは目を閉じる。
初めて会った日のことを思い出す。
細く、小さく。
何を言われても無表情だった少女。
今は違う。
美味しいものを食べれば笑う。
花が咲けば喜ぶ。
知らないことがあれば首を傾げる。
時々、とんでもないことを真顔で言う。
そして。
自分を見ると、安心したように笑う。
「……そうか」
レオンハルトは小さく息を吐いた。
「ようやく認められましたね」
「……もっと早く言え」
「申し訳ございません」
セバスチャンは全く申し訳なさそうではなかった。
そのとき。
「公爵様」
エレノアの声がした。
二人が振り返る。
エレノアがトレーを持って立っていた。
「お茶をお持ちしました」
「ああ」
レオンハルトは彼女を見る。
今までと同じエレノア。
けれど。
自分の中では、何かが変わった。
「……ありがとう、エレノア」
「はい」
エレノアが笑う。
レオンハルトの胸が、また温かくなる。
――愛している。
そう思うと、不思議なくらい腑に落ちた。
今まで感じていたすべてのことが。
彼女のためなら、何でもしてやりたいと思うことも。
全部。
この気持ちだったのだ。
「公爵様?」
「何だ?」
「今日は、何だか嬉しそうですね」
「……そうか?」
「はい」
エレノアは不思議そうに首を傾げる。
レオンハルトはそんな彼女を見つめた。
そして、ほんの少しだけ笑った。
「……君がいるからだろうな」
「?」
エレノアは意味がわからず、また首を傾げた。
「そうですか」
「ああ」
「では、お茶をどうぞ」
「ありがとう」
二人は並んで座った。
エレノアはいつも通り、何も知らない。
自分がレオンハルトにとって、どれほど大切な存在になったのかも。
その無垢な笑顔を見ながら。
レオンハルトは静かに思った。
――急ぐ必要はない。
エレノアが自分をどう思っているのか。
今はまだ、知らなくてもいい。
ただ。
いつか彼女自身が、自分の気持ちに気づく日まで。
自分はずっと、この子の隣にいよう。
そう決めた。
契約から始まった二人の関係は。
この日を境に、レオンハルトにとってはもう、契約ではなくなった。
レオンハルトは執務室で書類に目を通していた。
いつもと変わらない朝のはずだった。
だが。
「旦那様」
セバスチャンが静かに入ってきた。
「何だ?」
「本日のご予定ですが、午後から王宮へお越しいただくことになっております」
「ああ。覚えている」
「それと、奥様ですが――」
その言葉に、レオンハルトの視線が書類から上がる。
「エレノアがどうした?」
「本日は庭師のトーマスと、花壇の手入れをされるそうです」
「……そうか」
レオンハルトは再び書類へ視線を戻す。
「それは何時だ?」
「十時頃かと」
「……そうか」
セバスチャンは一礼する。
「それでは、失礼いたします」
セバスチャンが部屋を出ていく。
レオンハルトは再び書類を見る。
しかし。
文字が頭に入ってこない。
「……」
なぜ自分は、エレノアの予定を気にしているのだろう。
妻なのだから。
知っていて当然だ。
そう思いながらも、レオンハルトは時計を見た。
まだ九時半。
「……」
長い。
◇
「公爵様?」
「……」
「公爵様、どうされたのですか?」
気づけば、レオンハルトは庭にいた。
エレノアが不思議そうに彼を見上げている。
「仕事は?」
「休憩だ」
「そうですか」
「何をしている?」
「お花のお手入れです」
エレノアは手にしていた小さな鋏を見せた。
「トーマスさんが教えてくださっています」
「そうか」
「公爵様もやりますか?」
「……俺が?」
「はい」
エレノアは小さな鋏を差し出す。
レオンハルトはそれを受け取った。
「どうする?」
「ここを切るそうです」
エレノアが花を指差す。
「……こうか?」
「はい」
レオンハルトが枝を切る。
「上手です」
「そうか?」
「はい。トーマスさんより少し怖いですが」
「……」
少し離れたところでトーマスが肩を震わせた。
「……そうか」
レオンハルトは苦笑した。
最近。
エレノアはよく笑うようになった。
そして、以前よりずっと自分の気持ちを口にするようになった。
「公爵様」
「何だ?」
「この花、好きです」
「前にも言っていたな」
「覚えていらしたのですか?」
「ああ」
「嬉しいです」
エレノアが笑う。
レオンハルトはその顔を見つめた。
――まただ。
胸の奥が温かくなる。
彼女が笑うだけで、嬉しい。
彼女が喜ぶことをしてやりたい。
彼女が悲しそうにしていれば、理由を知りたい。
困っていれば助けたい。
他の誰かが彼女に近づけば、面白くない。
そして。
彼女が自分を頼ってくれると、どうしようもなく嬉しい。
「……」
レオンハルトはふと気づいた。
自分はいつから、こんなにも彼女のことばかり考えるようになったのだろう。
◇
昼食の時間。
「公爵様」
「何だ?」
「こちら、少し食べてみませんか?」
エレノアが小皿を差し出す。
「料理長が新しい焼き菓子を作ったそうです」
「君が作ったのか?」
「少しだけお手伝いしました」
レオンハルトは一つ取る。
「……甘いな」
「はい」
「君は好きなのか?」
「好きです」
「そうか」
エレノアが嬉しそうに笑う。
「もう一つ、いかがですか?」
「ああ」
レオンハルトがもう一つ食べる。
「美味しいですか?」
「悪くない」
「では、もう一つ」
「……」
気づけば、皿の上の焼き菓子がどんどん減っていく。
エレノアは嬉しそうにそれを見ている。
「公爵様」
「何だ?」
「公爵様も甘いものがお好きだったのですね」
「……いや」
「でも三つ召し上がりました」
「君が勧めるからだ」
「そうですか」
エレノアは納得した。
そして自分も一つ食べる。
「美味しいです」
「そうだな」
こんな時間が。
最近は当たり前になっていた。
一緒に食事をして。
一緒に庭を歩いて。
他愛のない話をして。
彼女の笑顔を見る。
それだけで満たされる。
――それだけで?
レオンハルトはふと手を止めた。
「……」
違う。
もう「それだけ」ではない。
もっと一緒にいたい。
もっと自分を頼ってほしい。
もっと彼女のことを知りたい。
そして――。
自分だけを見てほしい。
◇
夜。
レオンハルトは王宮から戻ってきた。
玄関へ入ったところで、エレノアの声が聞こえる。
「おかえりなさいませ、公爵様」
エレノアが駆け寄ってくる。
その姿を見た瞬間。
レオンハルトの表情が緩んだ。
「ただいま」
「……?」
エレノアが少し目を丸くする。
「どうしました?」
「いや」
「疲れましたか?」
「少しな」
「では、お茶をお持ちします」
「君が?」
「はい」
「……頼む」
「はい」
エレノアは嬉しそうに頷き、厨房へ向かっていった。
レオンハルトはその背中を見つめる。
たったそれだけのことなのに。
帰ってきて彼女がいることが、嬉しい。
待っていてくれることが、嬉しい。
自分を迎えてくれることが、嬉しい。
そのとき。
「旦那様」
背後から声がした。
「……セバスチャンか」
「はい」
セバスチャンはレオンハルトの隣に立つ。
「ずいぶん嬉しそうでございますね」
「……そうか?」
「はい」
「疲れているだけだ」
「左様でございますか」
セバスチャンは穏やかに微笑んだ。
「それにしても――」
「何だ?」
「奥様がお茶を取りに行かれた途端、そんなに嬉しそうなお顔をされるとは」
「……」
レオンハルトは黙る。
「旦那様」
「……何だ」
「もう、お認めになった方がよろしいのでは?」
「何をだ」
セバスチャンは少しだけ間を置いた。
「奥様を愛していることです」
空気が止まった。
レオンハルトはセバスチャンを見る。
「何を言っている」
「事実を申し上げただけでございます」
「俺は――」
言葉が続かない。
セバスチャンは何も言わず、静かに待っている。
「……俺は、妻として大切にしているだけだ」
「……」
「奥様が他の男性を頼られても?」
エレノアが誰かに笑いかけていると、胸の奥がざわつく。
面白くない。
「奥様がこの屋敷を出ていかれても?」
「……」
――それは。
考えたくもない。
胸の奥が、強く締めつけられた。
エレノアがいなくなる。
この屋敷から。
自分の隣から。
その光景を想像しただけで、息が苦しくなる。
「……嫌だ」
ぽつりと声が漏れた。
セバスチャンが微笑む。
「はい」
「……俺は」
レオンハルトは自分の胸元へ手を当てる。
ここにある感情を、今まで何と呼べばいいのかわからなかった。
けれど。
もう、わかる。
「俺は……エレノアを愛しているのか」
「はい」
セバスチャンは迷いなく答えた。
「私には、そう見えております」
「……」
レオンハルトは目を閉じる。
初めて会った日のことを思い出す。
細く、小さく。
何を言われても無表情だった少女。
今は違う。
美味しいものを食べれば笑う。
花が咲けば喜ぶ。
知らないことがあれば首を傾げる。
時々、とんでもないことを真顔で言う。
そして。
自分を見ると、安心したように笑う。
「……そうか」
レオンハルトは小さく息を吐いた。
「ようやく認められましたね」
「……もっと早く言え」
「申し訳ございません」
セバスチャンは全く申し訳なさそうではなかった。
そのとき。
「公爵様」
エレノアの声がした。
二人が振り返る。
エレノアがトレーを持って立っていた。
「お茶をお持ちしました」
「ああ」
レオンハルトは彼女を見る。
今までと同じエレノア。
けれど。
自分の中では、何かが変わった。
「……ありがとう、エレノア」
「はい」
エレノアが笑う。
レオンハルトの胸が、また温かくなる。
――愛している。
そう思うと、不思議なくらい腑に落ちた。
今まで感じていたすべてのことが。
彼女のためなら、何でもしてやりたいと思うことも。
全部。
この気持ちだったのだ。
「公爵様?」
「何だ?」
「今日は、何だか嬉しそうですね」
「……そうか?」
「はい」
エレノアは不思議そうに首を傾げる。
レオンハルトはそんな彼女を見つめた。
そして、ほんの少しだけ笑った。
「……君がいるからだろうな」
「?」
エレノアは意味がわからず、また首を傾げた。
「そうですか」
「ああ」
「では、お茶をどうぞ」
「ありがとう」
二人は並んで座った。
エレノアはいつも通り、何も知らない。
自分がレオンハルトにとって、どれほど大切な存在になったのかも。
その無垢な笑顔を見ながら。
レオンハルトは静かに思った。
――急ぐ必要はない。
エレノアが自分をどう思っているのか。
今はまだ、知らなくてもいい。
ただ。
いつか彼女自身が、自分の気持ちに気づく日まで。
自分はずっと、この子の隣にいよう。
そう決めた。
契約から始まった二人の関係は。
この日を境に、レオンハルトにとってはもう、契約ではなくなった。

