エレノア・ベルナールが十六歳になった朝。
彼女の誕生日を祝う者は、誰もいなかった。
「エレノア」
朝食の片付けをしていた彼女は、父親に呼ばれて顔を上げた。
「はい」
「今日からお前は、公爵家へ行け」
「……承知いたしました」
それだけだった。
驚きも、悲しみも、喜びもない。
エレノアは手にしていた皿を布で拭き、いつもの場所へ戻した。
ベルナール男爵家は、貴族とは名ばかりの貧しい家だった。
屋敷は古く、壁にはひびが入り、食卓に並ぶ料理も質素なものばかり。
エレノア自身、いつからまともな食事をしていないのか覚えていない。
幼い頃から家事をしていた。
掃除、洗濯、料理、買い出し。
失敗すれば叱られ、遅ければ怒鳴られた。
褒められた記憶はない。
抱きしめられた記憶もない。
だからエレノアは、いつの頃からか何も期待しなくなった。
「公爵家に嫁ぐんだ。ありがたいと思え」
父親が吐き捨てるように言った。
「はい」
「向こうには絶対に逆らうな。余計なことも言うな。言われたことだけしていればいい」
「承知しております」
「お前を差し出す代わりに、あちらが我が家の借金を肩代わりしてくださる。わかったな」
「はい」
それだけ聞いて、エレノアは静かに頭を下げた。
自分が売られたのだということは、理解している。
けれど、それについてどう思えばいいのかはわからなかった。
悲しいのか。
怖いのか。
寂しいのか。
どれも、よくわからない。
ただ、言われたことをする。
それがエレノアにとっての当たり前だった。
◇
その日の昼。
一台の黒い馬車が、古びた男爵邸の前に止まった。
エレノアは小さな鞄を一つだけ持って、馬車へ乗り込んだ。
荷物は、それだけだった。
母親から見送りの言葉はない。
父親も最後までこちらを見ようとはしなかった。
「……行ってまいります」
エレノアが頭を下げる。
返事はなかった。
馬車が動き出す。
窓の外に見える古い屋敷が、少しずつ遠ざかっていく。
エレノアはそれを眺めた。
寂しいとは思わなかった。
戻りたいとも思わなかった。
ただ、
――今日から、あそこへ帰らなくていい。
その事実だけを静かに受け入れた。
◇
数時間後。
馬車が止まった。
「到着いたしました」
御者の声が聞こえる。
扉が開かれ、エレノアは外へ降りた。
「……」
目の前に広がったのは、今まで見たこともないほど大きな屋敷だった。
白い石造りの建物。
広大な庭。
整えられた花壇。
その奥には、まるで城のような本邸が建っている。
エレノアはしばらくそれを見上げた。
「こちらへ」
迎えに来た執事に促され、屋敷の中へ入る。
何人もの使用人が並んでいた。
その視線が一斉に自分へ向けられる。
けれどエレノアは気にする様子もなく、静かに歩いた。
やがて、一人の男が階段の上から降りてきた。
黒い髪。
冷たい金灰色の瞳。
整った顔立ちに、隙のない立ち姿。
彼がアシュフォード公爵家当主
――レオンハルト・アシュフォード。
二十五の歳にして王国宮廷財務卿を務める、若き公爵だった。
「……エレノア・ベルナールか」
「はい」
エレノアは深く頭を下げる。
「本日よりお世話になります。よろしくお願いいたします」
「顔を上げていい」
「はい」
ゆっくりと顔を上げる。
レオンハルトは彼女を見つめた。
――小さい。
それが最初の感想だった。
十六歳の令嬢とは思えないほど身体が細い。
ドレスも明らかに質が悪く、肌には血色がない。
だが、それ以上に気になったのは表情だった。
何もない。
緊張も、恐怖も、期待も。
まるで人形のようだった。
「……こちらへ」
レオンハルトはそれ以上何も言わず、彼女を応接室へ案内した。
向かい合って座る。
執事が契約書を机の上へ置いた。
「話は聞いているな」
「はい」
「君と私の結婚は、互いの家にとって都合のいいものだ」
「はい」
「私は公爵家の当主だ。妻が必要だった」
「承知しております」
「君の家は借金を抱えている。私がそれを肩代わりする」
「はい」
「つまり、利害が一致しただけだ」
レオンハルトは淡々と言った。
「私は君を愛するつもりはない」
普通の令嬢なら、傷ついた顔をするだろう。
しかし。
「はい。承知しております」
エレノアはただ頷いた。
レオンハルトの眉が、ほんの僅かに動く。
「……それでいいのか?」
「はい」
「不満は?」
「ございません」
「私と結婚したくないとは思わないのか」
エレノアは少しだけ考えた。
「……結婚したくない理由が、ございませんので」
「そうか」
「はい」
会話が途切れる。
レオンハルトは彼女を見る。
やはり何もわからない。
この少女は、本当に何も期待していないのだろうか。
「この屋敷では、必要なものはすべて与える」
「ありがとうございます」
「部屋も用意してある。侍女もつける。衣服も好きなものを選べばいい」
「はい」
「食事も遠慮する必要はない」
「……はい」
そのときだけ。
エレノアの瞳が、ほんの一瞬だけ揺れた。
だがレオンハルトは気づかなかった。
「何か欲しいものはあるか?」
「……」
エレノアは考える。
欲しいもの。
そんなものを聞かれたのは初めてだった。
けれど、思いつかない。
「特に、ございません」
「……何も?」
「はい」
レオンハルトは小さく息を吐いた。
「そうか」
それ以上、彼は何も聞かなかった。
◇
話が終わり、エレノアは侍女に連れられて部屋へ向かった。
案内された部屋には、大きなベッドがあった。
窓には美しいカーテン。
暖炉。
机。
クローゼット。
何もかも、自分が今まで使っていたものよりずっと綺麗だった。
「お嬢様、こちらが今日からお使いになるお部屋です」
侍女の女性が微笑む。
「……私が、使ってもよろしいのですか?」
「もちろんです」
「そうですか」
エレノアは部屋を見回した。
「では、ありがとうございます」
侍女は少し困ったように笑った。
「お嬢様」
「はい」
「……何か、欲しいものはありませんか?」
エレノアは首を横に振る。
「ございません」
「お腹は空いていませんか?」
「大丈夫です」
「疲れていませんか?」
「問題ございません」
完璧な敬語。
完璧な返事。
けれど、そこには年相応の少女らしさが一つもなかった。
侍女は何も言えなくなった。
一方、エレノアは静かに窓の外を見た。
広い庭。
色とりどりの花。
夕暮れの空。
こんな景色を見るのも初めてだった。
「……綺麗」
ぽつりと呟く。
けれど、それが「好き」という感情なのか。
エレノアにはまだ、わからなかった。
その頃。
屋敷の別の場所では、レオンハルトが執務机に向かっていた。
今日から妻になった少女のことなど、もう頭から消えている。
公爵としてやるべき仕事は山ほどある。
結婚は義務。
妻もまた、必要だから迎えただけ。
それ以上でも、それ以下でもない。
――このときの彼は、本気でそう思っていた。
この少女が自分の人生を大きく変えることになるなど。
まだ、知る由もなかった。
彼女の誕生日を祝う者は、誰もいなかった。
「エレノア」
朝食の片付けをしていた彼女は、父親に呼ばれて顔を上げた。
「はい」
「今日からお前は、公爵家へ行け」
「……承知いたしました」
それだけだった。
驚きも、悲しみも、喜びもない。
エレノアは手にしていた皿を布で拭き、いつもの場所へ戻した。
ベルナール男爵家は、貴族とは名ばかりの貧しい家だった。
屋敷は古く、壁にはひびが入り、食卓に並ぶ料理も質素なものばかり。
エレノア自身、いつからまともな食事をしていないのか覚えていない。
幼い頃から家事をしていた。
掃除、洗濯、料理、買い出し。
失敗すれば叱られ、遅ければ怒鳴られた。
褒められた記憶はない。
抱きしめられた記憶もない。
だからエレノアは、いつの頃からか何も期待しなくなった。
「公爵家に嫁ぐんだ。ありがたいと思え」
父親が吐き捨てるように言った。
「はい」
「向こうには絶対に逆らうな。余計なことも言うな。言われたことだけしていればいい」
「承知しております」
「お前を差し出す代わりに、あちらが我が家の借金を肩代わりしてくださる。わかったな」
「はい」
それだけ聞いて、エレノアは静かに頭を下げた。
自分が売られたのだということは、理解している。
けれど、それについてどう思えばいいのかはわからなかった。
悲しいのか。
怖いのか。
寂しいのか。
どれも、よくわからない。
ただ、言われたことをする。
それがエレノアにとっての当たり前だった。
◇
その日の昼。
一台の黒い馬車が、古びた男爵邸の前に止まった。
エレノアは小さな鞄を一つだけ持って、馬車へ乗り込んだ。
荷物は、それだけだった。
母親から見送りの言葉はない。
父親も最後までこちらを見ようとはしなかった。
「……行ってまいります」
エレノアが頭を下げる。
返事はなかった。
馬車が動き出す。
窓の外に見える古い屋敷が、少しずつ遠ざかっていく。
エレノアはそれを眺めた。
寂しいとは思わなかった。
戻りたいとも思わなかった。
ただ、
――今日から、あそこへ帰らなくていい。
その事実だけを静かに受け入れた。
◇
数時間後。
馬車が止まった。
「到着いたしました」
御者の声が聞こえる。
扉が開かれ、エレノアは外へ降りた。
「……」
目の前に広がったのは、今まで見たこともないほど大きな屋敷だった。
白い石造りの建物。
広大な庭。
整えられた花壇。
その奥には、まるで城のような本邸が建っている。
エレノアはしばらくそれを見上げた。
「こちらへ」
迎えに来た執事に促され、屋敷の中へ入る。
何人もの使用人が並んでいた。
その視線が一斉に自分へ向けられる。
けれどエレノアは気にする様子もなく、静かに歩いた。
やがて、一人の男が階段の上から降りてきた。
黒い髪。
冷たい金灰色の瞳。
整った顔立ちに、隙のない立ち姿。
彼がアシュフォード公爵家当主
――レオンハルト・アシュフォード。
二十五の歳にして王国宮廷財務卿を務める、若き公爵だった。
「……エレノア・ベルナールか」
「はい」
エレノアは深く頭を下げる。
「本日よりお世話になります。よろしくお願いいたします」
「顔を上げていい」
「はい」
ゆっくりと顔を上げる。
レオンハルトは彼女を見つめた。
――小さい。
それが最初の感想だった。
十六歳の令嬢とは思えないほど身体が細い。
ドレスも明らかに質が悪く、肌には血色がない。
だが、それ以上に気になったのは表情だった。
何もない。
緊張も、恐怖も、期待も。
まるで人形のようだった。
「……こちらへ」
レオンハルトはそれ以上何も言わず、彼女を応接室へ案内した。
向かい合って座る。
執事が契約書を机の上へ置いた。
「話は聞いているな」
「はい」
「君と私の結婚は、互いの家にとって都合のいいものだ」
「はい」
「私は公爵家の当主だ。妻が必要だった」
「承知しております」
「君の家は借金を抱えている。私がそれを肩代わりする」
「はい」
「つまり、利害が一致しただけだ」
レオンハルトは淡々と言った。
「私は君を愛するつもりはない」
普通の令嬢なら、傷ついた顔をするだろう。
しかし。
「はい。承知しております」
エレノアはただ頷いた。
レオンハルトの眉が、ほんの僅かに動く。
「……それでいいのか?」
「はい」
「不満は?」
「ございません」
「私と結婚したくないとは思わないのか」
エレノアは少しだけ考えた。
「……結婚したくない理由が、ございませんので」
「そうか」
「はい」
会話が途切れる。
レオンハルトは彼女を見る。
やはり何もわからない。
この少女は、本当に何も期待していないのだろうか。
「この屋敷では、必要なものはすべて与える」
「ありがとうございます」
「部屋も用意してある。侍女もつける。衣服も好きなものを選べばいい」
「はい」
「食事も遠慮する必要はない」
「……はい」
そのときだけ。
エレノアの瞳が、ほんの一瞬だけ揺れた。
だがレオンハルトは気づかなかった。
「何か欲しいものはあるか?」
「……」
エレノアは考える。
欲しいもの。
そんなものを聞かれたのは初めてだった。
けれど、思いつかない。
「特に、ございません」
「……何も?」
「はい」
レオンハルトは小さく息を吐いた。
「そうか」
それ以上、彼は何も聞かなかった。
◇
話が終わり、エレノアは侍女に連れられて部屋へ向かった。
案内された部屋には、大きなベッドがあった。
窓には美しいカーテン。
暖炉。
机。
クローゼット。
何もかも、自分が今まで使っていたものよりずっと綺麗だった。
「お嬢様、こちらが今日からお使いになるお部屋です」
侍女の女性が微笑む。
「……私が、使ってもよろしいのですか?」
「もちろんです」
「そうですか」
エレノアは部屋を見回した。
「では、ありがとうございます」
侍女は少し困ったように笑った。
「お嬢様」
「はい」
「……何か、欲しいものはありませんか?」
エレノアは首を横に振る。
「ございません」
「お腹は空いていませんか?」
「大丈夫です」
「疲れていませんか?」
「問題ございません」
完璧な敬語。
完璧な返事。
けれど、そこには年相応の少女らしさが一つもなかった。
侍女は何も言えなくなった。
一方、エレノアは静かに窓の外を見た。
広い庭。
色とりどりの花。
夕暮れの空。
こんな景色を見るのも初めてだった。
「……綺麗」
ぽつりと呟く。
けれど、それが「好き」という感情なのか。
エレノアにはまだ、わからなかった。
その頃。
屋敷の別の場所では、レオンハルトが執務机に向かっていた。
今日から妻になった少女のことなど、もう頭から消えている。
公爵としてやるべき仕事は山ほどある。
結婚は義務。
妻もまた、必要だから迎えただけ。
それ以上でも、それ以下でもない。
――このときの彼は、本気でそう思っていた。
この少女が自分の人生を大きく変えることになるなど。
まだ、知る由もなかった。

