君が思い出になる前に

土曜日の朝。

葵は目を覚ますと、枕元のスマートフォンを手に取った。

画面には、悠真からのメッセージが一件届いている。

『おはよう。今日はどうする?』

葵は布団の中で少し考えた。

今日は特に予定を入れていない。

来週からは仕事が忙しくなる。

悠真が引っ越すまで、あと二週間もない。

「今日、会おうかな」

そう呟いて、返信を打つ。

『おはよう。今日会えるよ』

すぐに既読がついた。

『じゃあ、昼くらいに会おう』

『うん』

葵はスマートフォンを置いた。

今日は仕事をしない。

悠真と過ごす。

そう決めた。



待ち合わせ場所に着くと、悠真が先に来ていた。

「ごめん、待った?」

「ううん」

「何食べる?」

「葵が決めていいよ」

二人で歩きながら、昼食の店を探す。

以前なら、こういう時間も楽しかった。

どの店に入るか決めるだけで、あれこれ話した。

今日はどうする。

何を食べる。

そのあとどこへ行く。

そんなことを話しながら歩いていた。

けれど今日は、少し静かだった。

「そういえば」

葵が口を開く。

「引っ越しの準備、進んでる?」

「まあまあ」

「大変じゃない?」

「思ったより荷物が多くてさ」

「手伝おうか?」

「大丈夫」

「でも、一人だと大変でしょ」

悠真は少し笑った。

「じゃあ、来週お願いしようかな」

「うん。いいよ」

葵はすぐに答えた。

「来週なら大丈夫」

「本当に?」

「うん」

そのとき、葵のスマートフォンが鳴った。

会社からの着信だった。

「……ごめん」

画面を見つめる。

今日は仕事をしないと決めたばかりだった。

けれど、相手は上司だった。

「出てもいい?」

「もちろん」

葵は少し離れた場所へ行った。



電話は十分ほどで終わった。

「ごめんね」

戻ってきた葵が言う。

「大丈夫」

悠真は笑った。

「仕事?」

「うん。来週のプレゼンのこと」

「そっか」

二人は再び歩き始める。

しばらくして、悠真が言った。

「葵は、仕事好きだよな」

「うん」

葵は少し照れながら笑う。

「好きだよ」

「そっか」

「悠真は?」

「俺?」

「仕事、好きだったじゃん」

「まあな」

「向こうに行ったら、また新しい仕事探さなきゃいけないね」

「うん」

「大変だね」

「そうだな」

悠真はそれ以上言わなかった。

葵は、何となく気になった。

「……どうしたの?」

「何が?」

「今日、ちょっと静かじゃない?」

悠真は少し考えてから、首を横に振った。

「何でもないよ」

「本当に?」

「うん」

その笑顔を見て、葵はそれ以上聞けなかった。



午後。

二人は映画を見た。

映画館を出ると、夕方になっていた。

「面白かったね」

「うん」

「久しぶりに映画見た」

葵が笑う。

「最近、映画館なんて来てなかったもんね」

「そうだな」

「また来ようよ」

悠真は一瞬だけ葵を見る。

「……うん」

それから、駅へ向かって歩いた。

改札の前に着く。

「今日はありがとう」

葵が言った。

「俺も」

「じゃあ、来週は引っ越しの手伝いね」

「無理しなくていいからな」

「大丈夫だよ」

葵は笑った。

「来週はちゃんと空けておく」

悠真も笑った。

「分かった」

二人はそこで別れた。

葵は改札を抜けながら、今日はいい一日だったと思った。

ちゃんと会えた。

映画も見た。

たくさん話した。

まだ大丈夫。

そう思った。



一方、悠真は一人で駅を出た。

空は少しずつ暗くなっていた。

ポケットからスマートフォンを取り出す。

葵からメッセージが届く。

『今日は楽しかった。また来週ね』

悠真は画面を見つめる。

『俺も楽しかった』

そう入力してから、送信する。

歩きながら、今日のことを思い返す。

葵は何度も「大丈夫」と言った。

自分も何度も「大丈夫」と答えた。

けれど。

本当に大丈夫なのだろうか。

悠真は立ち止まった。

今日、葵と一緒にいる時間は確かに楽しかった。

それは嘘ではない。

好きだという気持ちも残っている。

それなのに、以前とは何かが違う。

葵はきっと、二人はまだ同じ場所にいると思っている。

自分だけが先に、別の場所を見てしまったような気がした。

「……違うな」

悠真は小さく首を振った。

別の場所を見ているのは、自分だけなのかもしれない。

でも、葵を責めることはできない。

彼女は彼女なりに、一緒にいようとしている。

仕事も頑張りながら、時間を作ってくれている。

だからこそ、言えない。

「寂しい」なんて。

「もっと一緒にいたい」なんて。

言えば、葵はきっと困る。

悠真は再び歩き始めた。

引っ越しまで、あと十二日。

まだ時間はある。

そう思いながら。



その夜。

葵はベッドの上で、今日撮った映画の半券を眺めていた。

楽しかった。

本当に楽しかった。

なのに、なぜか胸の奥に小さな引っかかりがある。

悠真は今日、何度か何かを言いかけていた。

それでも結局、何も言わなかった。

「……何だったんだろう」

葵は考える。

けれど、答えは出ない。

きっと疲れているだけ。

そう結論づけて、明日の予定を確認する。

来週は仕事が忙しい。

でも、悠真の引っ越しの手伝いには行く。

その日だけは、ちゃんと悠真のために時間を使おう。

葵はそう決めた。

まだ間に合うと思っていた。

二人の時間は、まだ残っている。

そう信じていた。

けれど、悠真にとって「待っている」ということは、少しずつ苦しいものになり始めていた。