君が思い出になる前に

月曜日の朝。

葵は電車の窓に映る自分の顔を見ながら、昨日のことを思い出していた。

悠真の、最後の笑顔。

別れ際に見せた、少し寂しそうな表情。

何度考えても、その理由が分からない。

「……何だったんだろう」

小さく呟く。

けれど、電車が駅に着くと、考える暇はなくなった。

会社へ向かい、パソコンを立ち上げる。

週末に届いたメールを確認する。

そこには、クライアントから追加の修正依頼が入っていた。

葵はすぐに仕事へ意識を切り替えた。

昨日のことは、仕事が終わってから考えればいい。

そう思った。



昼休み。

葵が社員食堂で一人で昼食を取っていると、スマートフォンが震えた。

悠真からだった。

『昨日はありがとう』

葵は笑った。

『こっちこそ。楽しかった』

すぐに既読がつく。

『俺も』

そこで会話は終わった。

葵は画面を閉じた。

少しだけ物足りない気がした。

昔なら、ここからまた話が続いていた。

でも、今は仕事中だ。

仕方がない。

葵はそう思い、スマートフォンをバッグに戻した。

その日の夜。

仕事を終えて帰宅すると、午後十時を過ぎていた。

玄関で靴を脱いだところで、スマートフォンが鳴る。

悠真からの電話だった。

「もしもし」

『今、大丈夫?』

「うん。帰ってきたところ」

『そっか』

悠真の声が聞こえる。

それだけで、少しほっとした。

「今日はどうだった?」

『普通。仕事して、親父の病院に付き添って』

「お父さん、どうだった?」

『検査の結果が出た』

葵は黙って聞いた。

『しばらく、実家で様子を見たほうがいいって』

「……そっか」

『うん』

悠真の声は落ち着いていた。

けれど、葵には少し疲れているように聞こえた。

「じゃあ、やっぱり戻るんだね」

『うん。そのつもり』

「大変だね」

『まあな』

「でも、仕方ないよね」

葵はそう言った。

悠真はしばらく黙った。

『……うん』

その短い返事が、なぜか胸に残った。

「いつ頃戻るの?」

『予定通り、十二日』

「あと二週間くらいか」

『そうだな』

「じゃあ、それまでにまた会おうよ」

『うん』

「今度はどこ行く?」

『どこでもいいよ』

「じゃあ、また昔行ったところにしよう」

葵は思いついた。

「河川敷とか」

電話の向こうで、悠真が少し笑った。

『覚えてたんだ』

「覚えてるよ」

『そっか』

「だって、初めて手をつないだ場所でしょ」

その瞬間。

悠真の声が止まった。

「悠真?」

『……うん』

「どうしたの?」

『いや、なんでもない』

「そう?」

『うん』

少し間を置いて、悠真が言った。

『じゃあ、今度行こう』

「うん」

葵は笑った。



電話を切ったあと。

葵はソファに座った。

何となく、昔の写真を見たくなった。

スマートフォンのアルバムを開く。

四年前の写真。

二人で撮った自撮り。

旅行先で撮った写真。

誕生日に撮った写真。

どれも笑っている。

葵も、悠真も。

「懐かしいな……」

写真をスクロールしていく。

その中に、河川敷で撮った一枚があった。

まだ付き合い始めたばかりの頃。

葵は今より少し髪が短い。

隣には、今と変わらない悠真がいる。

写真の中の二人は、何も疑っていなかった。

この先もずっと一緒にいる。

そんなことを、当然のように思っていた。

葵は写真を閉じた。

そして、ふと思う。

今もきっと同じだ。

四年経っただけ。

少し忙しくなっただけ。

離れて暮らすことになっても、二人なら大丈夫。

言葉にしなくても分かっている。

そう思った。



その頃。

悠真は自分の部屋で、引っ越し業者から届いた資料を眺めていた。

必要な荷物。

処分するもの。

実家へ送るもの。

一つずつ確認していく。

部屋の隅には、まだ葵の置いていった小さなクッションがある。

四年前に二人で買ったものだった。

悠真はそれを手に取った。

「これ、どうするかな……」

持っていくべきか。

置いていくべきか。

そんなことを考えている自分がおかしくなって、少し笑った。

そして、クッションを元の場所へ戻す。

葵には言っていないことがあった。

実家へ戻ることだけではない。

父親のことも。

仕事のことも。

そして、自分が最近感じていることも。

言えばいい。

ちゃんと話さなければいけない。

そう思っている。

けれど、葵の声を聞くと、言えなくなる。

楽しそうに仕事の話をする葵。

未来の話をするときの葵。

「遠距離でも大丈夫」と笑った葵。

そんな彼女に、自分の寂しさをぶつけることができなかった。

悠真はスマートフォンを手に取った。

葵とのトーク画面を開く。

何か書こうとして、やめた。

そして、画面を閉じる。

言わなくても分かると思っていた。

葵もきっと、同じだと思っていた。

けれど。

いつからか、その「分かっている」が、二人の間で少しずつ違う意味になっていた。

悠真は一人、静かな部屋でそれを感じ始めていた。