日曜日の朝。
葵は、カーテンの隙間から差し込む光で目を覚ました。
枕元のスマートフォンを手に取ると、悠真からメッセージが届いていた。
『おはよう。今日はこっち、いい天気だよ』
送られてきた写真には、青空と、家の近くにあるらしい並木道が写っていた。
以前なら、写真を見た瞬間に思っていただろう。
隣にいたら、一緒に歩けたのに。
今も、そう思わないわけではない。
けれど、葵は少し考えてから返信した。
『こっちも晴れてるよ。気持ちよさそうな道だね』
すぐに既読がついた。
『散歩してたら見つけた。今度、帰ってきたときに案内するよ』
その言葉に、葵の指が止まった。
今度。
その約束が、いつになるのかはわからない。
以前の葵なら、具体的な日程を聞いていたかもしれない。会える日が決まらないことに不安を感じて、何とか予定を合わせようとしたかもしれない。
でも、今日は違った。
『うん。楽しみにしてる』
そう返して、スマートフォンを置いた。
約束が決まらなくても、楽しみにしていていい。
そんな当たり前のことを、少しずつ覚えている気がした。
昼前、葵は洗濯物を取り込み、部屋の片づけを始めた。
クローゼットの奥から、古い紙袋が出てきた。
中には、映画の半券やカフェのショップカード、旅行先で買った小さなキーホルダーが入っていた。
どれも、悠真と過ごした時間につながっている。
付き合い始めたばかりの頃に行った映画館。
休日に何度も通ったカフェ。
初めて二人で泊まりがけの旅行をしたときのお土産。
ひとつずつ手に取るうちに、葵は自然と笑っていた。
楽しかった。
あの頃の自分は、確かに幸せだった。
それなのに、いつからだろう。
悠真が何も言わずに待っていてくれることを、当たり前だと思うようになったのは。
仕事が忙しいから、今日は無理。
疲れているから、また今度。
そんなふうに何度も先延ばしにした。
悠真は、そのたびに「わかった」と言ってくれた。
責められなかったことに、葵は甘えていたのかもしれない。
紙袋の中から、二人で撮った写真が出てきた。
まだ付き合い始めた頃のものだった。
並んで笑っている自分と悠真。
今より少し幼い顔をした二人が、何の迷いもなくカメラを見ている。
葵は写真を見つめた。
「……あのとき、もっとちゃんと聞けばよかったな」
悠真が寂しくなかったのか。
本当は会いたかったのではないか。
自分との将来について、何を考えていたのか。
聞く機会は何度もあったはずなのに、葵は尋ねなかった。
聞いてしまえば、何かを変えなければならなくなる気がしたからだ。
仕事を優先する自分を否定されたくなかった。
悠真に不満を告げられるのも怖かった。
だから、何も聞かずにいた。
そして今、二人は離れた場所で暮らしている。
後悔はある。
でも、あの頃の自分を責め続けても、過ぎた時間が戻ってくるわけではない。
葵は写真を元の場所に戻した。
捨てる気にはなれなかった。
今すぐ答えを出す必要もない。
ただ、これからは相手の気持ちを勝手に想像して、わかったつもりになるのはやめようと思った。
自分の気持ちも、同じだ。
会いたいなら、会いたいと言う。
寂しいなら、寂しいと伝える。
それで相手が困ることもあるかもしれない。
思いどおりの返事が返ってこないこともあるだろう。
それでも、何も言わないまま相手に察してもらおうとするよりは、ずっといい。
午後、葵は近所のスーパーへ出かけた。
夕食の材料を買い、帰り道に小さな花屋の前を通りかかった。
店先には、淡いピンクのガーベラが並んでいた。
ふと、悠真の部屋に花を飾ったことがあったのを思い出す。
あのとき、悠真は少し意外そうな顔をしてから、「部屋が明るくなったね」と笑った。
特別な日ではなかった。
ただ、帰り道に花が目に入って、何となく買っただけだった。
葵は店先で足を止めた。
一本だけ買って帰ろう。
そう思い、ガーベラを選んだ。
部屋に戻り、空き瓶に挿してテーブルに置く。
それだけで、いつもの部屋が少し違って見えた。
悠真がいなくても、悠真との思い出を大切にしていていい。
けれど、自分の暮らしを自分の手で整えることまで、忘れなくていいのだ。
夕方、スマートフォンが震えた。
悠真からだった。
『今日は何してた?』
葵は、テーブルの上の花を見ながら返信を考えた。
『部屋の片づけ。昔の写真が出てきたよ』
送信してから、少し迷った。
あの写真を見て、何を考えたのか。
今までなら、わざわざ伝えなかったかもしれない。
けれど、今は少しだけ話してみたかった。
『付き合い始めた頃の写真もあった。懐かしかった』
しばらくして、悠真から返事が来た。
『ああ、あの頃か。よく映画に行ってたよね』
『うん。私が仕事で遅れた日もあったね』
『あったね。映画が始まる直前に来たこともあった』
葵は思わず笑った。
『あれは本当にごめん』
『もういいよ。今となっては笑い話だし』
穏やかなやり取りだった。
そのあと、少し間が空いた。
葵はスマートフォンを握り直した。
今なら聞けるだろうか。
ずっと胸の中にしまっていたことを。
『ねえ、悠真』
『うん?』
『こっちにいた頃、寂しいと思うことはあった?』
送信した瞬間、心臓が少し速くなった。
こんなことを今さら聞くなんて、遅すぎるのかもしれない。
けれど、聞かないままでいたくなかった。
返事が来るまでの数分が、ひどく長く感じられた。
やがて、画面に文字が表示された。
『あったよ』
短い返事だった。
葵は目を伏せた。
やっぱり、そうだったのだ。
続けて、もう一通届いた。
『でも、葵が仕事を頑張ってるのは知ってたから。邪魔したくなかった』
胸の奥が痛んだ。
悠真は、寂しくなかったわけではない。
ただ、言わなかったのだ。
葵が忙しいことを知っていたから。
自分の気持ちを伝えることで、葵を困らせたくなかったから。
それは優しさだったのだろう。
けれど、その優しさに甘えていた自分がいたことも、葵は認めなければならなかった。
『そっか』
そこまで打って、指が止まる。
何か言わなければと思った。
でも、簡単な謝罪で済ませてしまいたくはなかった。
葵は一度文章を消し、もう一度打ち直した。
『私、悠真が何も言わないから平気なんだと思ってた。ちゃんと聞けばよかったね』
送信すると、しばらく返事はなかった。
やがて、悠真から届いた。
『俺も、もっとちゃんと言えばよかったと思う』
葵はその文字を何度も読み返した。
どちらか一人だけが悪かったわけではない。
それでも、何も言わずにいたことで、少しずつすれ違っていったのだ。
『これからは、ちゃんと話したい』
葵がそう送ると、悠真はすぐに返してきた。
『うん。俺もそう思う』
それ以上、二人は何も言わなかった。
けれど、スマートフォンを置いたあとも、葵の胸には不思議な静けさが残っていた。
寂しかったと聞いても、悠真を責めたいとは思わなかった。
自分の未熟さに気づいたからといって、過去のすべてが間違いだったとも思わなかった。
ただ、知らなかった気持ちを、ひとつ知ることができた。
それだけでも、話してよかったと思えた。
夜。
葵は夕食を終え、テーブルに置いたガーベラを眺めていた。
明日は月曜日。
また仕事が始まる。
今週は、来週の土曜日に美穂と会う約束もある。
悠真に会える予定は、まだ決まっていない。
それでも、以前ほどそのことばかり考えずにいられた。
会いたい気持ちは、なくなっていない。
これからどうするのかも、まだわからない。
けれど、わからないからといって、気持ちを飲み込む必要はないのだと思う。
悠真の本音を聞くこと。
自分の本音も伝えること。
その先に何が待っているのかは、まだ見えない。
それでも、二人で話していくことはできる。
葵はスマートフォンを手に取り、悠真とのやり取りをもう一度開いた。
最後に届いていたのは、短い言葉だった。
『おやすみ。また明日』
葵は微笑み、返信した。
『おやすみ。また明日ね』
送信してから、スマートフォンを伏せた。
明日も、明後日も、きっと迷うことはある。
けれど、もう自分の気持ちを後回しにするだけの毎日には戻りたくなかった。
悠真のためだけでもなく、自分だけのためでもなく。
二人がこれからどう生きていきたいのか。
その答えを、少しずつ探していこうと思った。
葵は、カーテンの隙間から差し込む光で目を覚ました。
枕元のスマートフォンを手に取ると、悠真からメッセージが届いていた。
『おはよう。今日はこっち、いい天気だよ』
送られてきた写真には、青空と、家の近くにあるらしい並木道が写っていた。
以前なら、写真を見た瞬間に思っていただろう。
隣にいたら、一緒に歩けたのに。
今も、そう思わないわけではない。
けれど、葵は少し考えてから返信した。
『こっちも晴れてるよ。気持ちよさそうな道だね』
すぐに既読がついた。
『散歩してたら見つけた。今度、帰ってきたときに案内するよ』
その言葉に、葵の指が止まった。
今度。
その約束が、いつになるのかはわからない。
以前の葵なら、具体的な日程を聞いていたかもしれない。会える日が決まらないことに不安を感じて、何とか予定を合わせようとしたかもしれない。
でも、今日は違った。
『うん。楽しみにしてる』
そう返して、スマートフォンを置いた。
約束が決まらなくても、楽しみにしていていい。
そんな当たり前のことを、少しずつ覚えている気がした。
昼前、葵は洗濯物を取り込み、部屋の片づけを始めた。
クローゼットの奥から、古い紙袋が出てきた。
中には、映画の半券やカフェのショップカード、旅行先で買った小さなキーホルダーが入っていた。
どれも、悠真と過ごした時間につながっている。
付き合い始めたばかりの頃に行った映画館。
休日に何度も通ったカフェ。
初めて二人で泊まりがけの旅行をしたときのお土産。
ひとつずつ手に取るうちに、葵は自然と笑っていた。
楽しかった。
あの頃の自分は、確かに幸せだった。
それなのに、いつからだろう。
悠真が何も言わずに待っていてくれることを、当たり前だと思うようになったのは。
仕事が忙しいから、今日は無理。
疲れているから、また今度。
そんなふうに何度も先延ばしにした。
悠真は、そのたびに「わかった」と言ってくれた。
責められなかったことに、葵は甘えていたのかもしれない。
紙袋の中から、二人で撮った写真が出てきた。
まだ付き合い始めた頃のものだった。
並んで笑っている自分と悠真。
今より少し幼い顔をした二人が、何の迷いもなくカメラを見ている。
葵は写真を見つめた。
「……あのとき、もっとちゃんと聞けばよかったな」
悠真が寂しくなかったのか。
本当は会いたかったのではないか。
自分との将来について、何を考えていたのか。
聞く機会は何度もあったはずなのに、葵は尋ねなかった。
聞いてしまえば、何かを変えなければならなくなる気がしたからだ。
仕事を優先する自分を否定されたくなかった。
悠真に不満を告げられるのも怖かった。
だから、何も聞かずにいた。
そして今、二人は離れた場所で暮らしている。
後悔はある。
でも、あの頃の自分を責め続けても、過ぎた時間が戻ってくるわけではない。
葵は写真を元の場所に戻した。
捨てる気にはなれなかった。
今すぐ答えを出す必要もない。
ただ、これからは相手の気持ちを勝手に想像して、わかったつもりになるのはやめようと思った。
自分の気持ちも、同じだ。
会いたいなら、会いたいと言う。
寂しいなら、寂しいと伝える。
それで相手が困ることもあるかもしれない。
思いどおりの返事が返ってこないこともあるだろう。
それでも、何も言わないまま相手に察してもらおうとするよりは、ずっといい。
午後、葵は近所のスーパーへ出かけた。
夕食の材料を買い、帰り道に小さな花屋の前を通りかかった。
店先には、淡いピンクのガーベラが並んでいた。
ふと、悠真の部屋に花を飾ったことがあったのを思い出す。
あのとき、悠真は少し意外そうな顔をしてから、「部屋が明るくなったね」と笑った。
特別な日ではなかった。
ただ、帰り道に花が目に入って、何となく買っただけだった。
葵は店先で足を止めた。
一本だけ買って帰ろう。
そう思い、ガーベラを選んだ。
部屋に戻り、空き瓶に挿してテーブルに置く。
それだけで、いつもの部屋が少し違って見えた。
悠真がいなくても、悠真との思い出を大切にしていていい。
けれど、自分の暮らしを自分の手で整えることまで、忘れなくていいのだ。
夕方、スマートフォンが震えた。
悠真からだった。
『今日は何してた?』
葵は、テーブルの上の花を見ながら返信を考えた。
『部屋の片づけ。昔の写真が出てきたよ』
送信してから、少し迷った。
あの写真を見て、何を考えたのか。
今までなら、わざわざ伝えなかったかもしれない。
けれど、今は少しだけ話してみたかった。
『付き合い始めた頃の写真もあった。懐かしかった』
しばらくして、悠真から返事が来た。
『ああ、あの頃か。よく映画に行ってたよね』
『うん。私が仕事で遅れた日もあったね』
『あったね。映画が始まる直前に来たこともあった』
葵は思わず笑った。
『あれは本当にごめん』
『もういいよ。今となっては笑い話だし』
穏やかなやり取りだった。
そのあと、少し間が空いた。
葵はスマートフォンを握り直した。
今なら聞けるだろうか。
ずっと胸の中にしまっていたことを。
『ねえ、悠真』
『うん?』
『こっちにいた頃、寂しいと思うことはあった?』
送信した瞬間、心臓が少し速くなった。
こんなことを今さら聞くなんて、遅すぎるのかもしれない。
けれど、聞かないままでいたくなかった。
返事が来るまでの数分が、ひどく長く感じられた。
やがて、画面に文字が表示された。
『あったよ』
短い返事だった。
葵は目を伏せた。
やっぱり、そうだったのだ。
続けて、もう一通届いた。
『でも、葵が仕事を頑張ってるのは知ってたから。邪魔したくなかった』
胸の奥が痛んだ。
悠真は、寂しくなかったわけではない。
ただ、言わなかったのだ。
葵が忙しいことを知っていたから。
自分の気持ちを伝えることで、葵を困らせたくなかったから。
それは優しさだったのだろう。
けれど、その優しさに甘えていた自分がいたことも、葵は認めなければならなかった。
『そっか』
そこまで打って、指が止まる。
何か言わなければと思った。
でも、簡単な謝罪で済ませてしまいたくはなかった。
葵は一度文章を消し、もう一度打ち直した。
『私、悠真が何も言わないから平気なんだと思ってた。ちゃんと聞けばよかったね』
送信すると、しばらく返事はなかった。
やがて、悠真から届いた。
『俺も、もっとちゃんと言えばよかったと思う』
葵はその文字を何度も読み返した。
どちらか一人だけが悪かったわけではない。
それでも、何も言わずにいたことで、少しずつすれ違っていったのだ。
『これからは、ちゃんと話したい』
葵がそう送ると、悠真はすぐに返してきた。
『うん。俺もそう思う』
それ以上、二人は何も言わなかった。
けれど、スマートフォンを置いたあとも、葵の胸には不思議な静けさが残っていた。
寂しかったと聞いても、悠真を責めたいとは思わなかった。
自分の未熟さに気づいたからといって、過去のすべてが間違いだったとも思わなかった。
ただ、知らなかった気持ちを、ひとつ知ることができた。
それだけでも、話してよかったと思えた。
夜。
葵は夕食を終え、テーブルに置いたガーベラを眺めていた。
明日は月曜日。
また仕事が始まる。
今週は、来週の土曜日に美穂と会う約束もある。
悠真に会える予定は、まだ決まっていない。
それでも、以前ほどそのことばかり考えずにいられた。
会いたい気持ちは、なくなっていない。
これからどうするのかも、まだわからない。
けれど、わからないからといって、気持ちを飲み込む必要はないのだと思う。
悠真の本音を聞くこと。
自分の本音も伝えること。
その先に何が待っているのかは、まだ見えない。
それでも、二人で話していくことはできる。
葵はスマートフォンを手に取り、悠真とのやり取りをもう一度開いた。
最後に届いていたのは、短い言葉だった。
『おやすみ。また明日』
葵は微笑み、返信した。
『おやすみ。また明日ね』
送信してから、スマートフォンを伏せた。
明日も、明後日も、きっと迷うことはある。
けれど、もう自分の気持ちを後回しにするだけの毎日には戻りたくなかった。
悠真のためだけでもなく、自分だけのためでもなく。
二人がこれからどう生きていきたいのか。
その答えを、少しずつ探していこうと思った。



