君が思い出になる前に

 金曜日の夜。

 葵は仕事を終え、駅へ向かっていた。

 明日は土曜日。

 久しぶりに、仕事の予定が何も入っていない週末だった。

 以前なら、悠真に会えない休日をどう過ごすか、あまり深く考えたことはなかった。

 会えないなら仕事をする。
 疲れていたら家で寝る。
 時間が余れば、悠真からの連絡を待つ。

 そんな過ごし方が、いつの間にか当たり前になっていた。

 けれど、今週末は少し違う。

 昨夜、読み始めた小説の続きが気になっている。
 しばらく会っていない友人の顔も浮かんだ。
 天気がよければ、少し遠くまで散歩に出かけてもいい。

 やりたいことはいくつかあった。

 それなのに、駅のホームで電車を待っていると、ふいに悠真のことを考えてしまう。

 今週末、彼は何をして過ごすのだろう。

 お父さんの様子を見ながら、家のことをするのだろうか。
 仕事が休みなら、少しはゆっくりできるのだろうか。

 会いたいな。

 心の中で、素直にそう思った。

 以前の葵なら、その気持ちを持て余していたかもしれない。

 会えないことを寂しく思いながら、仕事や用事で気を紛らわせようとしていた。

 今は、寂しいなら寂しいと、自分で認めてもいい気がした。

 会いたいと思うことと、会えない時間を自分なりに過ごすことは、両立できるはずだから。

 電車がホームに滑り込んできた。

 葵は乗り込み、空いている席に腰を下ろした。

 窓の外を流れていく街の明かりを眺めながら、明日は何をしようかと考えた。

     

 土曜日の朝。

 目を覚ました葵は、枕元の時計を見て驚いた。

 午前九時を過ぎている。

 平日は目覚ましが鳴る前から起きることもあるのに、今日は久しぶりにゆっくり眠れた。

 カーテンを開けると、よく晴れていた。

「いい天気」

 思わず声が出た。

 顔を洗い、簡単に朝食を済ませる。

 コーヒーを淹れて、昨日の続きを読もうとソファに座った。

 けれど、数ページ読んだところで、なんとなく落ち着かなくなった。

 せっかくの休日なのに、家の中だけで過ごすのももったいない気がする。

 葵は本を閉じ、窓の外を見た。

 そういえば、近所に小さな公園があった。

 何度も前を通ったことはあるけれど、立ち寄った記憶はほとんどない。

 少し歩いてみよう。

 そう思い立つと、葵は身支度を始めた。

 出かける準備をしながら、ふとスマートフォンを手に取る。

 悠真とのメッセージ画面を開きかけて、指を止めた。

 何か送ろうと思ったわけではない。

 ただ、無意識に開こうとしていたのだ。

 葵は小さく笑い、スマートフォンをバッグにしまった。

 帰ってきたら、続きを読もう。

 それだけ決めて、家を出た。

     

 公園には、思っていたよりも人がいた。

 ベンチに座って本を読んでいる女性。
 犬を連れて散歩している男性。
 遊具のそばを走り回る子どもたち。

 特別な景色ではない。

 けれど、仕事の行き帰りには目に入らなかったものが、今日は少し違って見えた。

 葵は園内をゆっくり歩いた。

 木々の葉は、ところどころ色づき始めている。

 風が吹くたび、枝の先が揺れた。

 しばらく歩いたあと、空いているベンチを見つけて腰を下ろす。

 バッグからスマートフォンを取り出すと、友人の美穂からメッセージが届いていた。

『久しぶり! 元気? 今度ご飯でも行かない?』

 最後に会ったのは、いつだっただろう。

 仕事が忙しいからと断ったことが、何度かあった。

 そのたびに美穂は、また落ち着いたら誘うね、と返してくれていた。

 葵は画面を見つめた。

 落ち着いたら。

 その言葉を、ずいぶん長い間使ってきた気がする。

 仕事が落ち着いたら。
 時間ができたら。
 余裕ができたら。

 けれど、そう言い続けているうちに、時間だけが過ぎていく。

 今度は、自分から誘ってみよう。

『元気だよ! 私も会いたい。来週か再来週、時間ある?』

 送信すると、すぐに返事が来た。

『あるある! 来週の土曜日はどう?』

 葵は思わず笑った。

 来週の土曜日。

 予定は空いている。

『大丈夫。久しぶりにゆっくり話そう』

 そう返して、スマートフォンをしまった。

 たったそれだけのやり取りなのに、少し気持ちが明るくなった。

 誰かと会う約束をすることが、こんなに簡単だったなんて。

 もちろん、以前だって誘うことはできたはずだ。

 ただ、自分の中で勝手に優先順位を決めて、後回しにしていただけなのかもしれない。

 葵はベンチから立ち上がった。

 もう少し歩いてから、帰ろうと思った。

     

 昼過ぎ、家に戻った葵は、簡単な昼食を作った。

 食べ終わってから、再びソファに座る。

 午前中に出かけたせいか、気持ちがすっきりしていた。

 読みかけの小説を開く。

 今度は、自然と物語に入り込めた。

 しばらくして、スマートフォンが震えた。

 悠真からだった。

『今日は休み?』

 葵はすぐに返事をした。

『うん。午前中は近所の公園を散歩してきたよ』

『そうなんだ。天気よかったもんな』

『うん。思ったより気持ちよかった』

 そこで会話が途切れる。

 以前なら、何か話題を探していたかもしれない。

 せっかく連絡を取り合っているのだから、もっと話したい。

 そう思って、質問を重ねることもあった。

 けれど今日は、しばらくそのままにしておいた。

 悠真から連絡が来たことはうれしい。

 でも、ずっと画面を見ている必要はない。

 そう思えた。

 再び本を読み始めようとしたとき、もう一度通知が鳴った。

『俺は午前中、父さんと買い物に行ってきたよ』

 続けて、写真が一枚送られてきた。

 買い物袋を持った悠真の手と、袋から少しだけ顔を出している野菜が写っている。

 葵は思わず笑った。

『何を買ったの?』

『父さんに頼まれたものと、夕飯の材料』

『悠真が作るの?』

『まあ、簡単なものだけど』

 そのやり取りをしながら、葵は少し不思議な気持ちになった。

 離れて暮らすようになってから、悠真の日常を知る機会が増えた気がする。

 もちろん、すべてを知っているわけではない。

 彼がどんなふうに一日を過ごしているのか、どんなことを考えているのか、分からないことはまだたくさんある。

 でも、分からないことがあるからといって、無理に聞き出す必要もないのだろう。

 話したいことがあれば、きっと話してくれる。

 自分も、話したいことを伝えればいい。

 葵は、そんなふうに考えられるようになっていた。

『おいしいものができたら、今度教えてね』

 そう送ると、悠真から返事が来た。

『期待しないで待ってて』

 葵は声を出して笑った。

 懐かしいやり取りだった。

 でも、懐かしいからといって、昔に戻ったわけではない。

 今の二人が、今の距離で交わした会話なのだ。

 葵はスマートフォンを置き、小説の続きを読み始めた。

     

 夕方、葵は夕食の買い物に出かけた。

 帰り道、商店街の入り口で、手をつないで歩く恋人同士とすれ違った。

 若い二人だった。

 何かを話しながら笑っていて、女性が男性の肩を軽く叩いている。

 その様子を見て、葵はふと、悠真と付き合い始めた頃を思い出した。

 休日にはよく一緒に出かけた。

 特別な目的がなくても、二人で歩いているだけで楽しかった。

 帰りが遅くなれば、駅まで送ってくれた。

 別れ際には、次はいつ会えるかと話した。

 あの頃の自分たちは、きっと今よりずっと単純だった。

 会いたければ会いたいと言えたし、寂しければ寂しいと伝えられた。

 いつから、そんなことが難しくなってしまったのだろう。

 葵は歩きながら考えた。

 仕事が忙しくなったから。

 悠真も自分も、大人になったから。

 それぞれに責任や事情が増えたから。

 理由はいくつもあるのだと思う。

 でも、本当は、忙しいことだけが原因ではなかったのかもしれない。

 相手に負担をかけたくない。

 わがままだと思われたくない。

 嫌われたくない。

 そうした気持ちが、少しずつ言葉を飲み込ませていった。

 葵は立ち止まり、空を見上げた。

 悠真に会いたい。

 その気持ちは、今も変わらない。

 でも、会いたいという思いを伝えることは、相手に何かを強いることとは違うはずだ。

 彼の都合を聞き、自分の希望も伝える。

 そのうえで、二人で考えればいい。

 簡単なことのようで、今までの自分にはできていなかった。

 葵は再び歩き出した。

     

 夕食を終えたあと、葵はソファでくつろいでいた。

 テーブルには、読み終えた小説が置かれている。

 最後のページを閉じたとき、思わず小さなため息が出た。

 面白かった。

 読み始めたときには、こんな結末になるとは思っていなかった。

 物語の主人公は、最後まで迷いながら、自分で選んだ道を歩き始めていた。

 すべてが思いどおりになったわけではない。

 失ったものもあった。

 それでも、自分で考えて決めたことだから、前に進めるのだろう。

 葵は本をテーブルに置いた。

 自分も、これから何かを選ぶことになるのかもしれない。

 悠真と一緒にいるために、今の生活を変えるのか。

 それとも、それぞれの暮らしを大切にしながら、別の形を探していくのか。

 まだ分からない。

 けれど、少なくとも、寂しさだけを理由に決めたくはなかった。

 悠真を失いたくないから。

 一人になるのが怖いから。

 それだけで何かを選んだら、いつかまた、自分の気持ちを後回しにしてしまうかもしれない。

 大切なのは、悠真と一緒にいる自分だけではなく、一人でいる自分のことも考えることなのだと思った。

 スマートフォンが震えた。

 悠真からだった。

『今日は久しぶりにゆっくりできた?』

 葵は少し考えてから、返事を打った。

『うん。散歩もできたし、本も一冊読み終わったよ。友達と会う約束もした』

 送信すると、すぐに返事が来た。

『よかった。楽しんでおいで』

 その短い言葉を見て、葵は微笑んだ。

 悠真も、自分の時間を過ごしてほしいと思ってくれている。

 それは以前から変わらないのかもしれない。

 変わったのは、葵の受け止め方なのだろう。

 彼と離れている時間を、ただ失われた時間だと思わなくなった。

 その時間にも、自分の暮らしがある。

 悠真にも、彼自身の暮らしがある。

 そして二人が一緒に過ごす時間は、それぞれの日常の中で、大切に作っていくものなのだ。

 葵はスマートフォンを置いた。

 明日は日曜日。

 何をするかは、まだ決めていない。

 朝になってから考えてもいいし、気が向かなければ一日中家にいてもいい。

 誰かと会う予定がなくても、悠真と電話をする約束がなくても、休日はちゃんとやってくる。

 そして、その一日をどう過ごすかは、自分で決められる。

 葵は部屋の明かりを少し落とした。

 寂しさがなくなったわけではない。

 悠真に会いたい気持ちも、変わっていない。

 それでも、会えない時間を過ごすことが、以前ほど怖くはなくなっていた。

 自分の生活を、自分の手に戻していく。

 その先にどんな答えが待っているのかは、まだ分からない。

 けれど今は、焦らずに一日ずつ過ごしていこうと思った。