木曜日の朝。
葵は、いつもより少し早く目を覚ました。
カーテンの隙間から、朝の光が差し込んでいる。
枕元のスマートフォンに手を伸ばしかけて、ふと思いとどまった。
いつもなら、起きてすぐに仕事のメールを確認していた。
急ぎの連絡が来ていないか。昨日送った資料に問題はなかったか。今日の打ち合わせまでに、何か準備しておくことはないか。
そうやって一日を始めるのが、いつの間にか習慣になっていた。
けれど、今朝は違った。
昨夜、悠真と電話で話したことが、まだ心に残っている。
これからのことを考える。
そう決めたのだから、まずは自分が何を望んでいるのか、少しずつ確かめていけばいい。
葵はスマートフォンを置き、ゆっくりとベッドから起き上がった。
出勤前、葵はキッチンでコーヒーを淹れた。
豆を挽く時間はないので、いつものドリップバッグを使う。
お湯を注ぐと、少しずつコーヒーの香りが広がった。
窓の外では、通勤する人たちが足早に歩いている。
その様子を眺めながら、葵はマグカップを両手で包んだ。
京都に行く前なら、こんな朝にも落ち着かなかったかもしれない。
出勤までの時間があれば、仕事を一つでも進めておこうと思っていた。
それなのに、今はコーヒーを飲む数分が、思っていた以上に心地いい。
特別なことをしているわけではない。
ただ、朝の時間を急がずに過ごしているだけだ。
それだけで、こんなに違うのかと思った。
ふと、悠真のことが頭に浮かんだ。
今頃、彼も起きているだろうか。
実家で朝食を食べて、仕事に出かける準備をしているのかもしれない。
そう考えて、葵は少し笑った。
以前なら、同じ時間に何をしているのか気になって、ついメッセージを送っていた。
今朝は、送らなくてもいいと思えた。
連絡をしないことと、相手を大切に思わないことは違う。
そのことを、少しずつ分かり始めていた。
会社に着くと、葵はいつものように仕事に取りかかった。
午前中は、進行中の広告案件について打ち合わせがあった。
担当者から修正案を求められ、いくつかの意見を出す。
クライアントが何を求めているのか。どこを変えれば、伝えたいことがより明確になるのか。
考えることは多かったが、仕事そのものが嫌いになったわけではない。
アイデアを出して、周囲と話し合い、形になっていく過程は好きだった。
昼休み、同僚の真由が隣の席にやってきた。
「高橋さん、今日お昼どうする?」
「まだ決めてないよ」
「じゃあ、一緒に行かない? 駅の向こうに新しいお店ができたんだって」
葵は時計を確認した。
午後の打ち合わせまで、十分に時間はある。
「いいね。行こう」
以前なら、昼休みも席で資料を確認していたかもしれない。
外に出る時間が惜しいと思っていたからだ。
けれど、今日はパソコンを閉じた。
真由と並んで会社を出ると、秋らしい風が頬を撫でた。
「そういえば、高橋さんって最近、前より早く帰るようになったよね」
歩きながら、真由が言った。
「そうかな?」
「うん。前は遅くまで残ってることが多かったじゃない」
葵は少し考えた。
「最近は、できるだけ仕事を時間内に終わらせようと思ってるんだ」
「いいことじゃない。何かあった?」
「何かって?」
「いや、なんとなく。前より余裕があるように見えるから」
葵は返事に迷った。
悠真とのことを話すつもりはなかった。
でも、何もなかったわけでもない。
「……ちょっと、自分の時間も大事にしようと思って」
そう答えると、真由はうなずいた。
「分かる。仕事って、やろうと思えばいくらでもあるもんね」
「そうなんだよね」
「全部片づけてから帰ろうなんて思ってたら、いつまでたっても帰れないし」
その言葉に、葵は思わず笑った。
本当に、その通りだった。
仕事には終わりがない。
だからこそ、どこで区切りをつけるかは、自分で決めなければならない。
誰かに言われたからではなく、自分がどう暮らしたいかを考えて。
葵は、そんな当たり前のことを、今になって実感していた。
その日の仕事は、予定どおりに進んだ。
夕方、追加の修正依頼が一件届いたが、翌朝の対応で間に合う内容だった。
以前の葵なら、すぐに取りかかっていたと思う。
明日に回すより、今日のうちに終わらせたほうが安心できる。
そう考えて、残業をすることも多かった。
けれど今日は、依頼内容を確認してから、翌日の予定に組み込んだ。
パソコンを閉じる。
時計を見ると、午後六時を少し過ぎたところだった。
会社を出ると、空はまだ明るさを残していた。
葵は駅へ向かう途中、書店の前で足を止めた。
以前から気になっていた小説が、店頭に並んでいる。
買おうと思いながら、ずっと後回しにしていた本だった。
葵は店に入り、目当ての本を探した。
見つけた一冊を手に取り、表紙を眺める。
仕事に必要な本でもない。
読んだからといって、何かの役に立つわけでもない。
それでも、読みたいと思った。
葵はその本をレジに持っていった。
帰り道、紙袋を手に歩きながら、少しだけ気分が弾んでいることに気づいた。
こんな小さなことで、うれしくなれる。
それを忘れていた気がした。
家に帰ると、葵は簡単な夕食を作った。
食後には、買ってきた本を開いた。
最初の数ページを読んだところで、スマートフォンが震えた。
悠真からだった。
『今日は仕事どうだった?』
葵は、読みかけのページにしおりを挟んだ。
『順調だったよ。今日は帰りに本を買ったんだ』
少し考えてから、続けて送る。
『前から読みたかったやつ。これから読むところ』
返事は、しばらくして届いた。
『いいな。面白かったら教えて』
葵は画面を見つめた。
それだけのやり取りだった。
これからの二人について、何かが決まったわけではない。
会える日が増えたわけでも、離れて暮らす問題が解決したわけでもない。
それでも、こうした何気ない会話を、今は素直にうれしいと思えた。
以前は、メッセージの頻度や言葉の長さにまで、気持ちを探してしまうことがあった。
短い返事が来れば、忙しいのだろうかと考える。
いつもより連絡が少なければ、寂しくなる。
相手の気持ちを確かめようとするあまり、やり取りそのものを楽しめなくなっていたのかもしれない。
今は、悠真から届いた言葉を、そのまま受け取ってみようと思った。
葵は『うん、読んだら感想送るね』と返した。
そして、スマートフォンを伏せた。
読みかけの本を、もう一度開く。
物語の中では、知らない町で暮らす主人公が、新しい生活を始めようとしていた。
葵はゆっくりとページをめくった。
寝る前、葵は手帳を開いた。
仕事の予定を書き込むために使っている手帳だった。
来週の打ち合わせ。提出期限。クライアントとの連絡。
いつものように、必要な予定を確認していく。
そして、週末の欄で手が止まった。
土曜日も日曜日も、予定は入っていない。
以前なら、悠真と会えない週末を、どこか物足りなく感じていた。
会えないなら仕事を進めよう。
そう考えて、休日にも予定を詰め込んでいたことがある。
けれど、今度の週末は違う過ごし方をしてみたいと思った。
一人で映画を観に行くのもいい。
久しぶりに友人を誘ってもいい。
何も決めず、家でのんびり過ごすのも悪くない。
何をするかは、明日考えればいい。
葵は手帳を閉じた。
悠真と一緒にいたい気持ちは、今も変わらない。
それでも、悠真がいない時間を、ただ寂しさで埋める必要はないのかもしれない。
自分の生活を大切にすることは、彼を遠ざけることではない。
むしろ、自分が何を望んでいるのかを知るために、必要なことなのだと思った。
窓の外では、街の明かりが静かに瞬いていた。
明日も仕事がある。
その先には、まだ決められない未来がある。
でも、今夜の自分には、読みたい本があり、明日の朝に飲むコーヒーがあり、これから過ごしていく日々がある。
葵はベッドに入り、目を閉じた。
悠真との未来を考えることと、自分の人生を歩くこと。
その二つを、もう別々のものとして考えなくてもいいのかもしれない。
答えは、まだ見つからない。
それでも、今日は自分のために一日を過ごせた。
葵にとっては、それだけでも小さな一歩だった。
葵は、いつもより少し早く目を覚ました。
カーテンの隙間から、朝の光が差し込んでいる。
枕元のスマートフォンに手を伸ばしかけて、ふと思いとどまった。
いつもなら、起きてすぐに仕事のメールを確認していた。
急ぎの連絡が来ていないか。昨日送った資料に問題はなかったか。今日の打ち合わせまでに、何か準備しておくことはないか。
そうやって一日を始めるのが、いつの間にか習慣になっていた。
けれど、今朝は違った。
昨夜、悠真と電話で話したことが、まだ心に残っている。
これからのことを考える。
そう決めたのだから、まずは自分が何を望んでいるのか、少しずつ確かめていけばいい。
葵はスマートフォンを置き、ゆっくりとベッドから起き上がった。
出勤前、葵はキッチンでコーヒーを淹れた。
豆を挽く時間はないので、いつものドリップバッグを使う。
お湯を注ぐと、少しずつコーヒーの香りが広がった。
窓の外では、通勤する人たちが足早に歩いている。
その様子を眺めながら、葵はマグカップを両手で包んだ。
京都に行く前なら、こんな朝にも落ち着かなかったかもしれない。
出勤までの時間があれば、仕事を一つでも進めておこうと思っていた。
それなのに、今はコーヒーを飲む数分が、思っていた以上に心地いい。
特別なことをしているわけではない。
ただ、朝の時間を急がずに過ごしているだけだ。
それだけで、こんなに違うのかと思った。
ふと、悠真のことが頭に浮かんだ。
今頃、彼も起きているだろうか。
実家で朝食を食べて、仕事に出かける準備をしているのかもしれない。
そう考えて、葵は少し笑った。
以前なら、同じ時間に何をしているのか気になって、ついメッセージを送っていた。
今朝は、送らなくてもいいと思えた。
連絡をしないことと、相手を大切に思わないことは違う。
そのことを、少しずつ分かり始めていた。
会社に着くと、葵はいつものように仕事に取りかかった。
午前中は、進行中の広告案件について打ち合わせがあった。
担当者から修正案を求められ、いくつかの意見を出す。
クライアントが何を求めているのか。どこを変えれば、伝えたいことがより明確になるのか。
考えることは多かったが、仕事そのものが嫌いになったわけではない。
アイデアを出して、周囲と話し合い、形になっていく過程は好きだった。
昼休み、同僚の真由が隣の席にやってきた。
「高橋さん、今日お昼どうする?」
「まだ決めてないよ」
「じゃあ、一緒に行かない? 駅の向こうに新しいお店ができたんだって」
葵は時計を確認した。
午後の打ち合わせまで、十分に時間はある。
「いいね。行こう」
以前なら、昼休みも席で資料を確認していたかもしれない。
外に出る時間が惜しいと思っていたからだ。
けれど、今日はパソコンを閉じた。
真由と並んで会社を出ると、秋らしい風が頬を撫でた。
「そういえば、高橋さんって最近、前より早く帰るようになったよね」
歩きながら、真由が言った。
「そうかな?」
「うん。前は遅くまで残ってることが多かったじゃない」
葵は少し考えた。
「最近は、できるだけ仕事を時間内に終わらせようと思ってるんだ」
「いいことじゃない。何かあった?」
「何かって?」
「いや、なんとなく。前より余裕があるように見えるから」
葵は返事に迷った。
悠真とのことを話すつもりはなかった。
でも、何もなかったわけでもない。
「……ちょっと、自分の時間も大事にしようと思って」
そう答えると、真由はうなずいた。
「分かる。仕事って、やろうと思えばいくらでもあるもんね」
「そうなんだよね」
「全部片づけてから帰ろうなんて思ってたら、いつまでたっても帰れないし」
その言葉に、葵は思わず笑った。
本当に、その通りだった。
仕事には終わりがない。
だからこそ、どこで区切りをつけるかは、自分で決めなければならない。
誰かに言われたからではなく、自分がどう暮らしたいかを考えて。
葵は、そんな当たり前のことを、今になって実感していた。
その日の仕事は、予定どおりに進んだ。
夕方、追加の修正依頼が一件届いたが、翌朝の対応で間に合う内容だった。
以前の葵なら、すぐに取りかかっていたと思う。
明日に回すより、今日のうちに終わらせたほうが安心できる。
そう考えて、残業をすることも多かった。
けれど今日は、依頼内容を確認してから、翌日の予定に組み込んだ。
パソコンを閉じる。
時計を見ると、午後六時を少し過ぎたところだった。
会社を出ると、空はまだ明るさを残していた。
葵は駅へ向かう途中、書店の前で足を止めた。
以前から気になっていた小説が、店頭に並んでいる。
買おうと思いながら、ずっと後回しにしていた本だった。
葵は店に入り、目当ての本を探した。
見つけた一冊を手に取り、表紙を眺める。
仕事に必要な本でもない。
読んだからといって、何かの役に立つわけでもない。
それでも、読みたいと思った。
葵はその本をレジに持っていった。
帰り道、紙袋を手に歩きながら、少しだけ気分が弾んでいることに気づいた。
こんな小さなことで、うれしくなれる。
それを忘れていた気がした。
家に帰ると、葵は簡単な夕食を作った。
食後には、買ってきた本を開いた。
最初の数ページを読んだところで、スマートフォンが震えた。
悠真からだった。
『今日は仕事どうだった?』
葵は、読みかけのページにしおりを挟んだ。
『順調だったよ。今日は帰りに本を買ったんだ』
少し考えてから、続けて送る。
『前から読みたかったやつ。これから読むところ』
返事は、しばらくして届いた。
『いいな。面白かったら教えて』
葵は画面を見つめた。
それだけのやり取りだった。
これからの二人について、何かが決まったわけではない。
会える日が増えたわけでも、離れて暮らす問題が解決したわけでもない。
それでも、こうした何気ない会話を、今は素直にうれしいと思えた。
以前は、メッセージの頻度や言葉の長さにまで、気持ちを探してしまうことがあった。
短い返事が来れば、忙しいのだろうかと考える。
いつもより連絡が少なければ、寂しくなる。
相手の気持ちを確かめようとするあまり、やり取りそのものを楽しめなくなっていたのかもしれない。
今は、悠真から届いた言葉を、そのまま受け取ってみようと思った。
葵は『うん、読んだら感想送るね』と返した。
そして、スマートフォンを伏せた。
読みかけの本を、もう一度開く。
物語の中では、知らない町で暮らす主人公が、新しい生活を始めようとしていた。
葵はゆっくりとページをめくった。
寝る前、葵は手帳を開いた。
仕事の予定を書き込むために使っている手帳だった。
来週の打ち合わせ。提出期限。クライアントとの連絡。
いつものように、必要な予定を確認していく。
そして、週末の欄で手が止まった。
土曜日も日曜日も、予定は入っていない。
以前なら、悠真と会えない週末を、どこか物足りなく感じていた。
会えないなら仕事を進めよう。
そう考えて、休日にも予定を詰め込んでいたことがある。
けれど、今度の週末は違う過ごし方をしてみたいと思った。
一人で映画を観に行くのもいい。
久しぶりに友人を誘ってもいい。
何も決めず、家でのんびり過ごすのも悪くない。
何をするかは、明日考えればいい。
葵は手帳を閉じた。
悠真と一緒にいたい気持ちは、今も変わらない。
それでも、悠真がいない時間を、ただ寂しさで埋める必要はないのかもしれない。
自分の生活を大切にすることは、彼を遠ざけることではない。
むしろ、自分が何を望んでいるのかを知るために、必要なことなのだと思った。
窓の外では、街の明かりが静かに瞬いていた。
明日も仕事がある。
その先には、まだ決められない未来がある。
でも、今夜の自分には、読みたい本があり、明日の朝に飲むコーヒーがあり、これから過ごしていく日々がある。
葵はベッドに入り、目を閉じた。
悠真との未来を考えることと、自分の人生を歩くこと。
その二つを、もう別々のものとして考えなくてもいいのかもしれない。
答えは、まだ見つからない。
それでも、今日は自分のために一日を過ごせた。
葵にとっては、それだけでも小さな一歩だった。



