水曜日の夜。
葵は夕食を済ませ、ソファに座っていた。
テーブルの上には、読みかけの小説とマグカップ。
テレビはつけていない。
今日は悠真と電話で話す約束をしていた。
京都から帰ってきて、三日。
その間も、二人はいつも通りメッセージを交わしていた。
朝の挨拶。
仕事が終わったという報告。
お互いの体調や、何気ない出来事。
特別なことは何もない。
けれど、今夜は少し違う。
これからのことを話そう。
そう決めたのは二人だった。
午後八時半。
スマートフォンが鳴った。
「もしもし」
『葵?』
「うん」
『今、大丈夫?』
「大丈夫だよ」
電話の向こうから、かすかな生活音が聞こえた。
悠真も家にいるのだろう。
少し前まで、こうして電話をすることは当たり前だった。
今は、同じ電話でも緊張してしまう。
「京都、楽しかったね」
葵は口を開いた。
『うん。楽しかった』
「朝の散歩もできたし」
『起きるのは大変だったけどな』
「言い出したのは悠真でしょ」
『いや、葵が言い出したんだよ』
思わず二人で笑った。
ほんの少し、肩の力が抜けた。
でも、笑い声が途切れると、また静けさが戻ってくる。
『……葵』
「うん?」
『これからのこと、話してもいい?』
「うん。私も話したい」
葵はマグカップを両手で包んだ。
温かさが、指先に伝わってくる。
『俺、地元に戻ってから、生活が変わったんだ』
「うん」
『父さんのこともあるし、家のこともある。仕事も、今の場所で続けていきたいと思ってる』
「そうなんだね」
『もちろん、葵に会いたくないわけじゃない。会いたいし、一緒にいたいと思うこともある』
葵は目を閉じた。
その言葉を聞けたことが、嬉しかった。
でも、嬉しいだけでは終われない。
『ただ、今の生活をすぐに変えられるかって言われると、難しい』
「……うん」
『葵にも、仕事があるだろ』
「あるよ」
『頑張ってきた仕事だし、これからも続けたいんじゃないかと思ってる』
葵は少し驚いた。
自分でも、まだうまく整理できていない気持ちだった。
それを悠真が分かってくれていたことが、意外だった。
「私ね、最近考えてたんだ」
『うん』
「もし悠真の地元に行くことになったら、今の仕事を辞めることになるかもしれないでしょ」
『そうだな』
「一緒に暮らせるなら、それでもいいって思おうとしたこともあった」
言葉にしてみると、自分がどれほど簡単に答えを出そうとしていたのかが分かった。
「でも、今の仕事も好きなんだよね。やりたいことも、まだあるし」
『うん』
「だから、どっちかを簡単に諦めるんじゃなくて、どうしたいのかをちゃんと考えたい」
悠真はすぐには答えなかった。
葵は不安になりかけたが、続きを急かさなかった。
『そうだよな』
やがて、悠真が言った。
『俺も、葵に仕事を辞めてほしいわけじゃない』
「うん」
『俺のために何かを諦めてほしいとも思ってない』
その言葉は優しかった。
だからこそ、葵は少し苦しくなった。
「でも、それだと……」
言いかけて、口を閉じる。
『うん?』
「それだと、今のまま離れて暮らすしかないのかなって」
自分で口にして、初めて気づいた。
仕事も続けたい。
悠真も大切にしたい。
悠真には悠真の家族と生活がある。
どれも、簡単には手放せない。
ならば、今の二人にできることは何なのだろう。
『俺も、そこを考えてた』
悠真の声が少し低くなった。
『離れていても、会う時間を作ることはできると思う。実際、今だって会えてる』
「うん」
『でも、これから先もずっと、それでいいのかは分からない』
葵はマグカップをテーブルに置いた。
胸の奥に、静かな痛みが広がっていく。
悠真も同じことを考えていたのだ。
今の関係を続けることはできる。
電話もできる。
休みを合わせれば、会うこともできる。
けれど、それだけで二人が望む未来に近づいているのか。
それは、別の問題だった。
「ねえ、悠真」
『うん』
「私たち、いつからこうなったんだろうね」
少し言い方が違ったかもしれない。
責めたいわけではなかった。
ただ、ふと考えてしまったのだ。
いつから、会いたいと言うことを遠慮するようになったのだろう。
いつから、忙しいことを理由に、二人で過ごす時間を後回しにするようになったのだろう。
『いつからだろうな』
悠真も考えているようだった。
『気づいたら、こうなってた気がする』
「うん。私も」
『でも、どっちかが悪かったって話じゃないと思う』
「……うん」
『俺も言えばよかったんだよ。寂しいって。もっと会いたいって』
葵は唇を噛んだ。
「私も、ちゃんと言えばよかった」
どちらか一方が我慢していたわけではない。
二人とも、相手を思いやっているつもりだった。
忙しい相手に負担をかけないように。
余計な心配をさせないように。
そうして言わずにいた気持ちが、少しずつ積み重なってしまったのかもしれない。
『葵』
「うん?」
『俺、今でも葵のことが好きだよ』
心臓が、一度大きく鳴った。
聞きたかった言葉だった。
でも、聞けばすべてが解決するわけではないことも、分かっていた。
「……私も、好きだよ」
葵は正直に答えた。
電話の向こうで、悠真が息を吐いた。
『よかった』
「どうして?」
『もう、好きじゃなくなったって言われるかと思ってたから』
「そんなこと、ないよ」
葵は小さく首を振った。
悠真には見えないと分かっていても、そうせずにはいられなかった。
「好きじゃなくなったから悩んでるんじゃないの」
『うん』
「好きだから、どうしたらいいのか分からないんだと思う」
言い終えると、胸が少しだけ軽くなった。
ずっと心の中にあったことを、ようやく口にできた気がした。
悠真も、しばらく黙っていた。
それから、静かに言った。
『俺も、同じだと思う』
二人の気持ちは、まだ残っている。
それは確かだった。
でも、好きという気持ちだけで、これからの生活を決めることはできない。
葵は、そのことをようやく受け入れ始めていた。
『すぐに答えを出さなくてもいいかな』
悠真が尋ねた。
「うん」
『もう少し、自分がどうしたいのか考えたい』
「私も」
『そのうえで、また話そう』
「うん。そうしよう」
電話を切る前、悠真が言った。
『今日は話せてよかった』
「私も」
『おやすみ、葵』
「おやすみ、悠真」
通話が終わった。
葵はスマートフォンを手にしたまま、しばらく動かなかった。
別れを決めたわけではない。
何かが解決したわけでもない。
それでも、今夜は一つだけ、はっきりしたことがあった。
二人とも、まだ相手を好きでいる。
そして、その気持ちを理由に、考えることをやめたくはないのだ。
葵は窓の外を見た。
明日になれば、またいつもの朝が来る。
仕事をして、食事をして、自分の時間を過ごす。
その日々の中で、自分が本当に望んでいるものを考えていこう。
悠真と一緒にいる未来も。
自分の仕事を続けていく未来も。
どちらも、簡単に手放したくない。
だからこそ、今度は曖昧なままにしない。
葵はそう決めて、テーブルの上の本を開いた。
葵は夕食を済ませ、ソファに座っていた。
テーブルの上には、読みかけの小説とマグカップ。
テレビはつけていない。
今日は悠真と電話で話す約束をしていた。
京都から帰ってきて、三日。
その間も、二人はいつも通りメッセージを交わしていた。
朝の挨拶。
仕事が終わったという報告。
お互いの体調や、何気ない出来事。
特別なことは何もない。
けれど、今夜は少し違う。
これからのことを話そう。
そう決めたのは二人だった。
午後八時半。
スマートフォンが鳴った。
「もしもし」
『葵?』
「うん」
『今、大丈夫?』
「大丈夫だよ」
電話の向こうから、かすかな生活音が聞こえた。
悠真も家にいるのだろう。
少し前まで、こうして電話をすることは当たり前だった。
今は、同じ電話でも緊張してしまう。
「京都、楽しかったね」
葵は口を開いた。
『うん。楽しかった』
「朝の散歩もできたし」
『起きるのは大変だったけどな』
「言い出したのは悠真でしょ」
『いや、葵が言い出したんだよ』
思わず二人で笑った。
ほんの少し、肩の力が抜けた。
でも、笑い声が途切れると、また静けさが戻ってくる。
『……葵』
「うん?」
『これからのこと、話してもいい?』
「うん。私も話したい」
葵はマグカップを両手で包んだ。
温かさが、指先に伝わってくる。
『俺、地元に戻ってから、生活が変わったんだ』
「うん」
『父さんのこともあるし、家のこともある。仕事も、今の場所で続けていきたいと思ってる』
「そうなんだね」
『もちろん、葵に会いたくないわけじゃない。会いたいし、一緒にいたいと思うこともある』
葵は目を閉じた。
その言葉を聞けたことが、嬉しかった。
でも、嬉しいだけでは終われない。
『ただ、今の生活をすぐに変えられるかって言われると、難しい』
「……うん」
『葵にも、仕事があるだろ』
「あるよ」
『頑張ってきた仕事だし、これからも続けたいんじゃないかと思ってる』
葵は少し驚いた。
自分でも、まだうまく整理できていない気持ちだった。
それを悠真が分かってくれていたことが、意外だった。
「私ね、最近考えてたんだ」
『うん』
「もし悠真の地元に行くことになったら、今の仕事を辞めることになるかもしれないでしょ」
『そうだな』
「一緒に暮らせるなら、それでもいいって思おうとしたこともあった」
言葉にしてみると、自分がどれほど簡単に答えを出そうとしていたのかが分かった。
「でも、今の仕事も好きなんだよね。やりたいことも、まだあるし」
『うん』
「だから、どっちかを簡単に諦めるんじゃなくて、どうしたいのかをちゃんと考えたい」
悠真はすぐには答えなかった。
葵は不安になりかけたが、続きを急かさなかった。
『そうだよな』
やがて、悠真が言った。
『俺も、葵に仕事を辞めてほしいわけじゃない』
「うん」
『俺のために何かを諦めてほしいとも思ってない』
その言葉は優しかった。
だからこそ、葵は少し苦しくなった。
「でも、それだと……」
言いかけて、口を閉じる。
『うん?』
「それだと、今のまま離れて暮らすしかないのかなって」
自分で口にして、初めて気づいた。
仕事も続けたい。
悠真も大切にしたい。
悠真には悠真の家族と生活がある。
どれも、簡単には手放せない。
ならば、今の二人にできることは何なのだろう。
『俺も、そこを考えてた』
悠真の声が少し低くなった。
『離れていても、会う時間を作ることはできると思う。実際、今だって会えてる』
「うん」
『でも、これから先もずっと、それでいいのかは分からない』
葵はマグカップをテーブルに置いた。
胸の奥に、静かな痛みが広がっていく。
悠真も同じことを考えていたのだ。
今の関係を続けることはできる。
電話もできる。
休みを合わせれば、会うこともできる。
けれど、それだけで二人が望む未来に近づいているのか。
それは、別の問題だった。
「ねえ、悠真」
『うん』
「私たち、いつからこうなったんだろうね」
少し言い方が違ったかもしれない。
責めたいわけではなかった。
ただ、ふと考えてしまったのだ。
いつから、会いたいと言うことを遠慮するようになったのだろう。
いつから、忙しいことを理由に、二人で過ごす時間を後回しにするようになったのだろう。
『いつからだろうな』
悠真も考えているようだった。
『気づいたら、こうなってた気がする』
「うん。私も」
『でも、どっちかが悪かったって話じゃないと思う』
「……うん」
『俺も言えばよかったんだよ。寂しいって。もっと会いたいって』
葵は唇を噛んだ。
「私も、ちゃんと言えばよかった」
どちらか一方が我慢していたわけではない。
二人とも、相手を思いやっているつもりだった。
忙しい相手に負担をかけないように。
余計な心配をさせないように。
そうして言わずにいた気持ちが、少しずつ積み重なってしまったのかもしれない。
『葵』
「うん?」
『俺、今でも葵のことが好きだよ』
心臓が、一度大きく鳴った。
聞きたかった言葉だった。
でも、聞けばすべてが解決するわけではないことも、分かっていた。
「……私も、好きだよ」
葵は正直に答えた。
電話の向こうで、悠真が息を吐いた。
『よかった』
「どうして?」
『もう、好きじゃなくなったって言われるかと思ってたから』
「そんなこと、ないよ」
葵は小さく首を振った。
悠真には見えないと分かっていても、そうせずにはいられなかった。
「好きじゃなくなったから悩んでるんじゃないの」
『うん』
「好きだから、どうしたらいいのか分からないんだと思う」
言い終えると、胸が少しだけ軽くなった。
ずっと心の中にあったことを、ようやく口にできた気がした。
悠真も、しばらく黙っていた。
それから、静かに言った。
『俺も、同じだと思う』
二人の気持ちは、まだ残っている。
それは確かだった。
でも、好きという気持ちだけで、これからの生活を決めることはできない。
葵は、そのことをようやく受け入れ始めていた。
『すぐに答えを出さなくてもいいかな』
悠真が尋ねた。
「うん」
『もう少し、自分がどうしたいのか考えたい』
「私も」
『そのうえで、また話そう』
「うん。そうしよう」
電話を切る前、悠真が言った。
『今日は話せてよかった』
「私も」
『おやすみ、葵』
「おやすみ、悠真」
通話が終わった。
葵はスマートフォンを手にしたまま、しばらく動かなかった。
別れを決めたわけではない。
何かが解決したわけでもない。
それでも、今夜は一つだけ、はっきりしたことがあった。
二人とも、まだ相手を好きでいる。
そして、その気持ちを理由に、考えることをやめたくはないのだ。
葵は窓の外を見た。
明日になれば、またいつもの朝が来る。
仕事をして、食事をして、自分の時間を過ごす。
その日々の中で、自分が本当に望んでいるものを考えていこう。
悠真と一緒にいる未来も。
自分の仕事を続けていく未来も。
どちらも、簡単に手放したくない。
だからこそ、今度は曖昧なままにしない。
葵はそう決めて、テーブルの上の本を開いた。



