君が思い出になる前に

日曜日の朝。

葵は珍しく、目覚ましが鳴る前に目を覚ました。

カーテンの隙間から差し込む光を見ながら、ぼんやりと天井を眺める。

今日は悠真と出かける日だった。

「今度こそ」

昨日、電話でそう約束した。

葵はベッドから起き上がると、久しぶりにゆっくり服を選んだ。

クローゼットを開け、何着か取り出しては戻す。

最後に選んだのは、付き合い始めた頃に悠真から褒められたワンピースだった。

鏡の前に立つ。

「……まだ着られる」

少し笑った。

四年前と同じ服。

もちろん、自分は少し変わった。

髪型も変わったし、仕事を始めてから服装の好みも変わった。

それでも、こうして昔の服を着ると、少しだけあの頃に戻ったような気がした。

スマートフォンが震える。

『もう出るよ』

悠真からだった。

葵もすぐに返信する。

『私も。今日は楽しみ』

送信すると、すぐに既読がついた。

『俺も楽しみ』

その短い言葉を見て、葵は笑った。



待ち合わせ場所に着くと、悠真はすでに来ていた。

「お待たせ」

「ううん」

悠真が葵を見る。

一瞬、目を見開いた。

「その服、久しぶりだな」

「覚えてた?」

「覚えてるよ」

「よかった」

葵は笑った。

「じゃあ、行こう」

二人は並んで歩き出した。

最初に向かったのは、二人が付き合い始めた頃によく歩いた商店街だった。

昔と同じ店がいくつか残っている。

けれど、新しい店も増えていた。

「ここ、まだあるんだ」

葵が指差す。

小さな雑貨店。

二人が初めて一緒に買い物をした店だった。

「入ってみる?」

「うん」

店内には、昔と変わらない雰囲気が残っていた。

葵は棚に並んだ小物を眺めながら、当時のことを思い出す。

「そういえば、ここで私がマグカップ買ったよね」

「青いやつ」

「よく覚えてるね」

「俺が選んだんだから」

「そうだったっけ?」

「そうだよ」

二人で笑う。

その瞬間だけは、昔と同じだった。

店を出て、商店街を歩く。

葵は隣を歩く悠真を見た。

やっぱり、一緒にいると落ち着く。

離れてしまうなんて、まだ実感が湧かなかった。

そのときだった。

スマートフォンが鳴った。

会社からだった。

葵の表情が変わる。

「ごめん。ちょっと出てもいい?」

「うん」

葵は少し離れた場所へ移動した。

「はい、高橋です」

電話の向こうから、来週のプレゼンについて確認が入る。

「資料の件ですね。はい、確認します」

悠真は少し離れたところで待っていた。

電話は数分で終わった。

葵が戻る。

「ごめんね」

「大丈夫」

「来週のプレゼンのことで」

「うん」

悠真は笑った。

「仕事、大変だな」

「うん。でも、今日でよかった」

葵はスマートフォンをバッグにしまった。

「今日は仕事のこと考えないって決めてたから」

「そうだな」

悠真が笑う。

「じゃあ、今日は仕事禁止な」

「分かった」

葵も笑った。

二人は再び歩き始めた。



昼食を食べたあと、二人は川沿いまで来た。

ベンチに並んで座る。

風が気持ちよかった。

「懐かしいね」

葵が言う。

「何が?」

「こういう時間」

悠真は黙って川を見ている。

「昔はよく、何もせずにここで話してたよね」

「うん」

「今考えると、よくそんなに話すことあったよね」

葵が笑う。

悠真も少し笑った。

「くだらないことばっかりだったけどな」

「でも楽しかった」

「……そうだな」

その返事だけ、少し寂しく聞こえた。

葵は悠真を見る。

「どうしたの?」

「何が?」

「なんか、今日静かじゃない?」

悠真は少し考えてから答えた。

「葵が楽しそうだから」

「え?」

「いや。こうやって昔の話をしてると、いろいろ思い出すなって」

「うん」

葵は川を見る。

「私も」

しばらく二人とも話さなかった。

けれど、その沈黙は嫌ではなかった。

少なくとも葵は、そう思っていた。



夕方。

駅へ向かう途中、悠真が言った。

「今日は楽しかった」

「私も」

「ありがとう」

「こちらこそ」

改札の前で、二人は向かい合う。

「また来週?」

悠真が聞く。

葵は一瞬、答えに詰まった。

来週は仕事がある。

まだ予定は決まっていない。

「……うん。予定見てみる」

「そっか」

「分かったら連絡するね」

「うん」

悠真は笑った。

「じゃあ、また」

「またね」

悠真が改札の向こうへ消えていく。

葵はその背中を見送りながら、胸の奥に小さな違和感を覚えた。

今日、一緒にいる間は楽しかった。

昔のように笑えた。

それなのに。

帰り際になると、何かが足りない気がする。

何が足りないのかは分からない。

葵は首を傾げた。

「疲れてるのかな」

そう呟いて、駅を出る。

スマートフォンを見る。

会社から新しいメールが届いていた。

葵は画面を開いた。

今日の仕事は終わりにしたつもりだった。

それでも、内容が気になってしまう。

メールを読み終えると、自然と頭の中が仕事に切り替わった。

来週のプレゼン。

資料の修正。

クライアントへの提案。

葵は歩きながら考える。

そのときにはもう、今日一日のことをゆっくり振り返る余裕はなくなっていた。

ただ一つだけ。

悠真が最後に見せた、少し寂しそうな笑顔だけが、なぜか頭の片隅に残っていた。

それが何を意味するのか。

葵には、まだ分からなかった。