夕食を終えた二人は、宿へ戻る前に少しだけ歩くことにした。
通りには、まだ観光客の姿があった。
店先の明かりが道を照らし、どこかから楽しそうな笑い声が聞こえてくる。
「明日、何時に起きる?」
悠真が聞いた。
「どうして?」
「朝、散歩するんだろ。昔、約束してたじゃん」
葵は思わず笑った。
「覚えてたんだ」
「覚えてるよ。葵が言い出したことだし」
「そうだったっけ?」
「そうだよ。朝早く起きて、誰もいない道を歩きたいって」
そう言われて、葵は少しずつ記憶をたどった。
付き合い始めたばかりの頃、旅行雑誌を広げながら話したこと。
京都の町を朝早く歩いて、喫茶店で朝ごはんを食べる。
それから一日中、気の向くままに観光する。
そんな計画だった。
結局、当時は旅行そのものが実現しなかったけれど。
「じゃあ、七時?」
「早くない?」
「朝の散歩なんだから、そんなものでしょ」
「……頑張ります」
悠真が大げさに肩を落とす。
葵は声を立てて笑った。
こんなふうに笑ったのは、いつ以来だろう。
いや、最近も笑っていた。
仕事仲間と話しているときも、一人で出かけたときも。
けれど、悠真と一緒にいるときの笑い方は、やっぱり少し違う気がした。
無理をしなくていい。
何かを説明しなくても、分かってもらえることがある。
長い時間を一緒に過ごしたからこそ、身についたものなのだろう。
だからこそ、簡単には手放せない。
宿に戻ると、葵は窓際に立った。
遠くに見える町の明かりを眺める。
旅行に来たのだと、ようやく実感が湧いてきた。
ずっと行こうと言っていた京都。
何度も話したのに、実現しなかった場所。
こうして実際に来てみると、思っていたより普通だった。
もちろん、きれいな景色もあったし、おいしいものも食べた。
でも、特別な何かが起きたわけではない。
ただ、悠真と歩いて、話して、笑った。
それだけだった。
それだけなのに、葵は胸がいっぱいになっていた。
スマートフォンを手に取り、今日撮った写真を見返す。
寺の門。
昼食の膳。
道端で見つけた小さな店。
そして、悠真が撮ってくれた自分の写真。
画面の中の葵は、思っていたより楽しそうに笑っていた。
その顔を見て、少し安心した。
私は、まだこんなふうに笑えるんだ。
悠真がいなくても、自分の時間を楽しめるようになった。
それでも、悠真と一緒にいる時間は、やっぱり大切だった。
どちらか一方を選ばなくてもいいのなら。
そう思った瞬間、胸の奥が苦しくなった。
現実には、いつまでもこのままではいられない。
悠真は地元にいる。
自分はこの街で働いている。
お互いに大切にしたい生活があり、簡単には変えられない事情がある。
好きだから、全部を捨てて一緒にいよう。
そんなふうに決められるほど、二人の生活は単純ではなかった。
翌朝。
葵が目を覚ますと、窓の外はすでに明るくなっていた。
時計を見る。
六時五十分。
昨夜、七時に起きると約束した。
葵は急いで身支度を整え、部屋を出た。
待ち合わせ場所には、すでに悠真がいた。
「おはよう」
「おはよう。早いね」
「葵こそ」
「私が言い出したんだから」
「そうでしたね」
悠真が笑う。
二人は宿を出て、まだ人の少ない道を歩き始めた。
朝の空気はひんやりしていた。
店のシャッターは閉じたままで、道を行き交う人も少ない。
昨夜の賑わいが嘘のようだった。
「気持ちいいね」
葵が言うと、悠真が頷いた。
「うん。こういうの、いいな」
「でしょ?」
「もっと寝ていたかったけど」
「もう」
葵は笑った。
しばらく歩いたところで、小さな喫茶店を見つけた。
ちょうど店が開いたところだった。
「入ってみる?」
「朝ごはん?」
「そう」
二人は店に入り、窓際の席に座った。
葵はトーストとコーヒーを頼み、悠真は卵料理のついたセットを選んだ。
「葵って、朝はパン派だったっけ?」
「平日はパンが多いかな。時間がないから」
「そっか」
「悠真は?」
「実家だと、ご飯が多いよ。母さんが朝から作ってくれるから」
その言葉を聞いて、葵は少しだけ表情を変えた。
「お母さん、朝も作ってくれるんだ」
「うん。でも、最近は俺も手伝ってる」
「そうなんだ」
「洗い物とか、簡単な料理くらいだけど」
悠真は照れくさそうに笑った。
「今まで、何もしてこなかったからさ」
葵は、悠真が地元で暮らす日々を想像した。
朝起きて、家族と食事をする。
父親の通院に付き添うこともあるだろう。
母親の疲れを気にかけながら、家のことを手伝う。
自分が知らないところで、悠真は少しずつ生活を変えていた。
「大変?」
葵が尋ねる。
「大変なこともあるよ。でも、帰ってきてよかったと思ってる」
悠真はコーヒーを一口飲んだ。
「父さんと話す時間も増えたし。前は、こんなに一緒にいることなかったから」
「うん」
「もっと早く気づいていれば、って思うこともあるけどね」
葵は何も言わずに聞いていた。
悠真が自分の家族のことを話すのを、こんなにゆっくり聞いたのは初めてかもしれない。
今までは電話で近況を聞いても、仕事の時間が気になったり、次の日の予定を考えたりしていた。
聞いているつもりで、きちんと向き合えていなかったこともあったのだろう。
「葵は?」
「え?」
「最近、仕事以外で何か始めた?」
少し考えてから、葵は答えた。
「まだ、何かを始めたってほどじゃないけど。一人で出かけることは増えたよ」
「うん」
「今までだったら、休日も仕事のことを考えてたと思う。でも、最近はそういう時間を減らしてる」
「いいことだと思う」
「私もそう思う」
葵は笑った。
「自分のことなのに、今まであんまり考えてこなかったんだよね」
悠真は静かに頷いた。
「俺もそうだった」
二人はしばらく、食事を続けた。
窓の外を人が通り始める。
町が少しずつ目を覚ましていく。
朝食を終え、店を出たあとも、二人はゆっくり歩いた。
特別な話をしたわけではない。
今日どこへ行くか。
お土産を何にするか。
帰りの電車に間に合うか。
そんな話ばかりだった。
それでも、葵は幸せだった。
帰り道、悠真が言った。
「今日、帰りたくないな」
葵は足を止めた。
悠真も、自分の言葉に気づいたように苦笑した。
「旅行が終わるのが、って意味だけど」
「分かってるよ」
葵は笑おうとした。
けれど、うまく笑えなかった。
本当は、自分も同じだった。
今日が終わらなければいい。
このまま、もう少し一緒にいられたらいい。
そう思っていた。
でも、旅行が終われば、それぞれの生活に戻る。
悠真は地元へ。
自分は仕事のあるこの街へ。
また離れて暮らす日々が始まる。
「……私も、帰りたくない」
葵は正直に言った。
悠真は何も答えなかった。
ただ、少しだけ寂しそうに笑った。
二人は再び歩き始めた。
帰りたくないと思えるほど、楽しい時間だった。
それは間違いない。
けれど、帰りたくないからといって、帰らずにいることはできない。
大切な時間を過ごせたことと、その時間をこれからも続けられることは、同じではないのだ。
葵は隣を歩く悠真を見た。
この人が好きだ。
今も、ちゃんと好きだ。
だからこそ、旅行が終わったあとも、考えなければならない。
自分はどこで、どんなふうに生きていきたいのか。
悠真は、どんな未来を望んでいるのか。
二人の望む未来は、同じ方向を向いているのだろうか。
答えを出すのは、まだ怖かった。
それでも、もう目を逸らすつもりはなかった。
通りには、まだ観光客の姿があった。
店先の明かりが道を照らし、どこかから楽しそうな笑い声が聞こえてくる。
「明日、何時に起きる?」
悠真が聞いた。
「どうして?」
「朝、散歩するんだろ。昔、約束してたじゃん」
葵は思わず笑った。
「覚えてたんだ」
「覚えてるよ。葵が言い出したことだし」
「そうだったっけ?」
「そうだよ。朝早く起きて、誰もいない道を歩きたいって」
そう言われて、葵は少しずつ記憶をたどった。
付き合い始めたばかりの頃、旅行雑誌を広げながら話したこと。
京都の町を朝早く歩いて、喫茶店で朝ごはんを食べる。
それから一日中、気の向くままに観光する。
そんな計画だった。
結局、当時は旅行そのものが実現しなかったけれど。
「じゃあ、七時?」
「早くない?」
「朝の散歩なんだから、そんなものでしょ」
「……頑張ります」
悠真が大げさに肩を落とす。
葵は声を立てて笑った。
こんなふうに笑ったのは、いつ以来だろう。
いや、最近も笑っていた。
仕事仲間と話しているときも、一人で出かけたときも。
けれど、悠真と一緒にいるときの笑い方は、やっぱり少し違う気がした。
無理をしなくていい。
何かを説明しなくても、分かってもらえることがある。
長い時間を一緒に過ごしたからこそ、身についたものなのだろう。
だからこそ、簡単には手放せない。
宿に戻ると、葵は窓際に立った。
遠くに見える町の明かりを眺める。
旅行に来たのだと、ようやく実感が湧いてきた。
ずっと行こうと言っていた京都。
何度も話したのに、実現しなかった場所。
こうして実際に来てみると、思っていたより普通だった。
もちろん、きれいな景色もあったし、おいしいものも食べた。
でも、特別な何かが起きたわけではない。
ただ、悠真と歩いて、話して、笑った。
それだけだった。
それだけなのに、葵は胸がいっぱいになっていた。
スマートフォンを手に取り、今日撮った写真を見返す。
寺の門。
昼食の膳。
道端で見つけた小さな店。
そして、悠真が撮ってくれた自分の写真。
画面の中の葵は、思っていたより楽しそうに笑っていた。
その顔を見て、少し安心した。
私は、まだこんなふうに笑えるんだ。
悠真がいなくても、自分の時間を楽しめるようになった。
それでも、悠真と一緒にいる時間は、やっぱり大切だった。
どちらか一方を選ばなくてもいいのなら。
そう思った瞬間、胸の奥が苦しくなった。
現実には、いつまでもこのままではいられない。
悠真は地元にいる。
自分はこの街で働いている。
お互いに大切にしたい生活があり、簡単には変えられない事情がある。
好きだから、全部を捨てて一緒にいよう。
そんなふうに決められるほど、二人の生活は単純ではなかった。
翌朝。
葵が目を覚ますと、窓の外はすでに明るくなっていた。
時計を見る。
六時五十分。
昨夜、七時に起きると約束した。
葵は急いで身支度を整え、部屋を出た。
待ち合わせ場所には、すでに悠真がいた。
「おはよう」
「おはよう。早いね」
「葵こそ」
「私が言い出したんだから」
「そうでしたね」
悠真が笑う。
二人は宿を出て、まだ人の少ない道を歩き始めた。
朝の空気はひんやりしていた。
店のシャッターは閉じたままで、道を行き交う人も少ない。
昨夜の賑わいが嘘のようだった。
「気持ちいいね」
葵が言うと、悠真が頷いた。
「うん。こういうの、いいな」
「でしょ?」
「もっと寝ていたかったけど」
「もう」
葵は笑った。
しばらく歩いたところで、小さな喫茶店を見つけた。
ちょうど店が開いたところだった。
「入ってみる?」
「朝ごはん?」
「そう」
二人は店に入り、窓際の席に座った。
葵はトーストとコーヒーを頼み、悠真は卵料理のついたセットを選んだ。
「葵って、朝はパン派だったっけ?」
「平日はパンが多いかな。時間がないから」
「そっか」
「悠真は?」
「実家だと、ご飯が多いよ。母さんが朝から作ってくれるから」
その言葉を聞いて、葵は少しだけ表情を変えた。
「お母さん、朝も作ってくれるんだ」
「うん。でも、最近は俺も手伝ってる」
「そうなんだ」
「洗い物とか、簡単な料理くらいだけど」
悠真は照れくさそうに笑った。
「今まで、何もしてこなかったからさ」
葵は、悠真が地元で暮らす日々を想像した。
朝起きて、家族と食事をする。
父親の通院に付き添うこともあるだろう。
母親の疲れを気にかけながら、家のことを手伝う。
自分が知らないところで、悠真は少しずつ生活を変えていた。
「大変?」
葵が尋ねる。
「大変なこともあるよ。でも、帰ってきてよかったと思ってる」
悠真はコーヒーを一口飲んだ。
「父さんと話す時間も増えたし。前は、こんなに一緒にいることなかったから」
「うん」
「もっと早く気づいていれば、って思うこともあるけどね」
葵は何も言わずに聞いていた。
悠真が自分の家族のことを話すのを、こんなにゆっくり聞いたのは初めてかもしれない。
今までは電話で近況を聞いても、仕事の時間が気になったり、次の日の予定を考えたりしていた。
聞いているつもりで、きちんと向き合えていなかったこともあったのだろう。
「葵は?」
「え?」
「最近、仕事以外で何か始めた?」
少し考えてから、葵は答えた。
「まだ、何かを始めたってほどじゃないけど。一人で出かけることは増えたよ」
「うん」
「今までだったら、休日も仕事のことを考えてたと思う。でも、最近はそういう時間を減らしてる」
「いいことだと思う」
「私もそう思う」
葵は笑った。
「自分のことなのに、今まであんまり考えてこなかったんだよね」
悠真は静かに頷いた。
「俺もそうだった」
二人はしばらく、食事を続けた。
窓の外を人が通り始める。
町が少しずつ目を覚ましていく。
朝食を終え、店を出たあとも、二人はゆっくり歩いた。
特別な話をしたわけではない。
今日どこへ行くか。
お土産を何にするか。
帰りの電車に間に合うか。
そんな話ばかりだった。
それでも、葵は幸せだった。
帰り道、悠真が言った。
「今日、帰りたくないな」
葵は足を止めた。
悠真も、自分の言葉に気づいたように苦笑した。
「旅行が終わるのが、って意味だけど」
「分かってるよ」
葵は笑おうとした。
けれど、うまく笑えなかった。
本当は、自分も同じだった。
今日が終わらなければいい。
このまま、もう少し一緒にいられたらいい。
そう思っていた。
でも、旅行が終われば、それぞれの生活に戻る。
悠真は地元へ。
自分は仕事のあるこの街へ。
また離れて暮らす日々が始まる。
「……私も、帰りたくない」
葵は正直に言った。
悠真は何も答えなかった。
ただ、少しだけ寂しそうに笑った。
二人は再び歩き始めた。
帰りたくないと思えるほど、楽しい時間だった。
それは間違いない。
けれど、帰りたくないからといって、帰らずにいることはできない。
大切な時間を過ごせたことと、その時間をこれからも続けられることは、同じではないのだ。
葵は隣を歩く悠真を見た。
この人が好きだ。
今も、ちゃんと好きだ。
だからこそ、旅行が終わったあとも、考えなければならない。
自分はどこで、どんなふうに生きていきたいのか。
悠真は、どんな未来を望んでいるのか。
二人の望む未来は、同じ方向を向いているのだろうか。
答えを出すのは、まだ怖かった。
それでも、もう目を逸らすつもりはなかった。



