金曜日の夜。
葵は仕事を終えて、自宅のソファに座っていた。
テーブルの上には、仕事用のバッグ。
その隣には、先日買ったばかりの本。
スマートフォンを手に取る。
悠真からメッセージが届いていた。
『今週もお疲れさま』
葵は笑って返信する。
『悠真もお疲れさま』
そこで一度、指が止まった。
何となく、もう一言送りたくなった。
『そういえば、京都のこと覚えてる?』
送信。
数分後。
『覚えてる』
短い返事だった。
葵は画面を見つめた。
京都。
付き合い始めた頃から、二人は何度もその話をしていた。
紅葉の時期に行きたい。
桜もいい。
有名なお寺を巡って、夜は小さな旅館に泊まって。
そんな話を何度もした。
けれど、実際には行かなかった。
仕事が忙しかったり。
予定が合わなかったり。
また今度にしよう、と言ったり。
いつでも行けると思っていた。
『行ってみない?』
葵が送る。
既読がつくまで、少し時間がかかった。
『今から?』
『うん。今度の休みに』
『急だな』
葵は思わず笑った。
『いつも「また今度」だったから』
しばらくして、悠真から返事が来た。
『……そうだな』
その一言を見て、葵は少しだけ胸が痛くなった。
でも、その痛みから目を逸らさなかった。
『嫌だったらいいよ』
すぐに返事が来た。
『行こう』
その三文字だけだった。
けれど、葵には十分だった。
翌週。
二人は京都駅で待ち合わせた。
葵が到着すると、先に来ていた悠真が手を上げる。
「おはよう」
「おはよう」
「久しぶりに見ると、京都駅ってやっぱり大きいな」
「何それ」
「いや、昔も来たことあるけど」
「修学旅行?」
「そう」
「私も」
そんな他愛のない話をしながら歩く。
観光客の間を抜け、駅を出る。
少し歩いたところで、悠真が言った。
「どこから行く?」
「決めてない」
「え?」
「京都に行くってことだけ決めてたから」
「それ、旅行っていうの?」
「いいじゃん」
葵が笑う。
「今日は、行きたいところに行こう」
「了解」
二人は地図を見ながら歩き始めた。
有名な場所を巡る。
写真を撮る。
途中で甘いものを食べる。
どれも特別なことではない。
けれど、葵は楽しかった。
悠真もよく笑っていた。
昼過ぎ。
小さな店に入り、二人で遅めの昼食を取った。
「これ、おいしい」
「葵、さっきからそればっかり言ってない?」
「だって、おいしいから」
「じゃあ、俺も食べてみようかな」
「一口だけね」
「分かってる」
箸を伸ばす悠真を見て、葵は笑った。
昔と同じ。
そう思った。
でも。
昔と同じなのに、昔とは違う。
そのことが不思議だった。
食事を終えて店を出る。
少し歩いたところで、悠真が言った。
「こういうの、久しぶりだな」
「うん」
「何も考えずに一緒に歩くの」
「そうだね」
葵は隣を歩く悠真を見る。
以前なら、この時間がずっと続くと思っていた。
来年も。
その次の年も。
同じように旅行して、同じように笑っていると思っていた。
でも今は。
この時間がいつまでも続くとは思えない。
だからこそ。
今、隣にいることを大切にしたかった。
「悠真」
「ん?」
「今日、来てよかったね」
「うん」
悠真は少しだけ笑った。
「もっと早く来ればよかったな」
「……そうだね」
二人の間に、少しだけ沈黙が落ちる。
でも、気まずくはなかった。
夕方。
二人は人通りの少ない道を歩いていた。
夕陽が建物の向こうに沈み始めている。
「なあ、葵」
「なに?」
「昔、京都に来たら何したいって言ってたか覚えてる?」
「え?」
「旅館に泊まるって」
「あ……」
葵は思い出した。
まだ付き合って一年も経っていなかった頃。
いつか京都に行こう。
そう言って、二人で旅行雑誌を見ていた。
「あと、朝早く起きて散歩する」
「それも言ってた」
「あと……」
「夜にコンビニ行く」
葵が先に言った。
二人で笑う。
「それ、京都じゃなくてもできるだろ」
「でも、旅行先でやるのがいいんじゃない?」
「確かに」
笑いながら歩く。
その瞬間。
葵はふと思った。
昔の約束を、全部叶える必要はないのかもしれない。
叶えられなかったからといって、四年間が失敗だったわけでもない。
今日、こうして来られた。
それだけで十分なのかもしれない。
「ねえ、悠真」
「ん?」
「私たち、全部やり直さなくてもいいんだね」
悠真が足を止めた。
「……うん」
少し考えてから、静かに答えた。
「やり直すんじゃなくて」
悠真は葵を見る。
「今の俺たちで、できることをやればいいんだと思う」
葵は頷いた。
「うん」
京都の夕暮れは、少しずつ夜に変わっていく。
二人はまた歩き出した。
昔の約束の続きを探すように。
でも、本当はもう分かっていた。
これは、昔に戻るための旅行ではない。
今の二人が、今の二人として過ごす時間なのだ。
それがいつまで続くのかは、まだ分からない。
それでも。
今日は、今日のままでいい。
葵は隣を歩く悠真を見た。
そして、何も言わずに笑った。
葵は仕事を終えて、自宅のソファに座っていた。
テーブルの上には、仕事用のバッグ。
その隣には、先日買ったばかりの本。
スマートフォンを手に取る。
悠真からメッセージが届いていた。
『今週もお疲れさま』
葵は笑って返信する。
『悠真もお疲れさま』
そこで一度、指が止まった。
何となく、もう一言送りたくなった。
『そういえば、京都のこと覚えてる?』
送信。
数分後。
『覚えてる』
短い返事だった。
葵は画面を見つめた。
京都。
付き合い始めた頃から、二人は何度もその話をしていた。
紅葉の時期に行きたい。
桜もいい。
有名なお寺を巡って、夜は小さな旅館に泊まって。
そんな話を何度もした。
けれど、実際には行かなかった。
仕事が忙しかったり。
予定が合わなかったり。
また今度にしよう、と言ったり。
いつでも行けると思っていた。
『行ってみない?』
葵が送る。
既読がつくまで、少し時間がかかった。
『今から?』
『うん。今度の休みに』
『急だな』
葵は思わず笑った。
『いつも「また今度」だったから』
しばらくして、悠真から返事が来た。
『……そうだな』
その一言を見て、葵は少しだけ胸が痛くなった。
でも、その痛みから目を逸らさなかった。
『嫌だったらいいよ』
すぐに返事が来た。
『行こう』
その三文字だけだった。
けれど、葵には十分だった。
翌週。
二人は京都駅で待ち合わせた。
葵が到着すると、先に来ていた悠真が手を上げる。
「おはよう」
「おはよう」
「久しぶりに見ると、京都駅ってやっぱり大きいな」
「何それ」
「いや、昔も来たことあるけど」
「修学旅行?」
「そう」
「私も」
そんな他愛のない話をしながら歩く。
観光客の間を抜け、駅を出る。
少し歩いたところで、悠真が言った。
「どこから行く?」
「決めてない」
「え?」
「京都に行くってことだけ決めてたから」
「それ、旅行っていうの?」
「いいじゃん」
葵が笑う。
「今日は、行きたいところに行こう」
「了解」
二人は地図を見ながら歩き始めた。
有名な場所を巡る。
写真を撮る。
途中で甘いものを食べる。
どれも特別なことではない。
けれど、葵は楽しかった。
悠真もよく笑っていた。
昼過ぎ。
小さな店に入り、二人で遅めの昼食を取った。
「これ、おいしい」
「葵、さっきからそればっかり言ってない?」
「だって、おいしいから」
「じゃあ、俺も食べてみようかな」
「一口だけね」
「分かってる」
箸を伸ばす悠真を見て、葵は笑った。
昔と同じ。
そう思った。
でも。
昔と同じなのに、昔とは違う。
そのことが不思議だった。
食事を終えて店を出る。
少し歩いたところで、悠真が言った。
「こういうの、久しぶりだな」
「うん」
「何も考えずに一緒に歩くの」
「そうだね」
葵は隣を歩く悠真を見る。
以前なら、この時間がずっと続くと思っていた。
来年も。
その次の年も。
同じように旅行して、同じように笑っていると思っていた。
でも今は。
この時間がいつまでも続くとは思えない。
だからこそ。
今、隣にいることを大切にしたかった。
「悠真」
「ん?」
「今日、来てよかったね」
「うん」
悠真は少しだけ笑った。
「もっと早く来ればよかったな」
「……そうだね」
二人の間に、少しだけ沈黙が落ちる。
でも、気まずくはなかった。
夕方。
二人は人通りの少ない道を歩いていた。
夕陽が建物の向こうに沈み始めている。
「なあ、葵」
「なに?」
「昔、京都に来たら何したいって言ってたか覚えてる?」
「え?」
「旅館に泊まるって」
「あ……」
葵は思い出した。
まだ付き合って一年も経っていなかった頃。
いつか京都に行こう。
そう言って、二人で旅行雑誌を見ていた。
「あと、朝早く起きて散歩する」
「それも言ってた」
「あと……」
「夜にコンビニ行く」
葵が先に言った。
二人で笑う。
「それ、京都じゃなくてもできるだろ」
「でも、旅行先でやるのがいいんじゃない?」
「確かに」
笑いながら歩く。
その瞬間。
葵はふと思った。
昔の約束を、全部叶える必要はないのかもしれない。
叶えられなかったからといって、四年間が失敗だったわけでもない。
今日、こうして来られた。
それだけで十分なのかもしれない。
「ねえ、悠真」
「ん?」
「私たち、全部やり直さなくてもいいんだね」
悠真が足を止めた。
「……うん」
少し考えてから、静かに答えた。
「やり直すんじゃなくて」
悠真は葵を見る。
「今の俺たちで、できることをやればいいんだと思う」
葵は頷いた。
「うん」
京都の夕暮れは、少しずつ夜に変わっていく。
二人はまた歩き出した。
昔の約束の続きを探すように。
でも、本当はもう分かっていた。
これは、昔に戻るための旅行ではない。
今の二人が、今の二人として過ごす時間なのだ。
それがいつまで続くのかは、まだ分からない。
それでも。
今日は、今日のままでいい。
葵は隣を歩く悠真を見た。
そして、何も言わずに笑った。



