日曜日まで、あと五日。
たった五日なのに、葵には少し長く感じられた。
河川敷へ行く。
それだけの約束だった。
けれど、あの場所が二人にとってどんな意味を持っているのかを考えると、胸の奥が落ち着かなかった。
初めて手をつないだ場所。
まだ恋人になる前の二人が、夕暮れの中を並んで歩いた場所。
悠真が何気なく差し出した手を、葵が少し迷ってから握った。
あのときは、それだけで嬉しかった。
手をつないだ。
それだけのことが、特別だった。
今はどうだろう。
同じ場所で、今の二人は何を感じるのだろう。
「……考えすぎかな」
葵はデスクの前で小さく呟いた。
目の前には仕事の資料。
集中しなければならない。
そう思って、再び画面に目を戻した。
仕事は順調だった。
以前なら、予定より早く終わっても別の仕事を探していた。
けれど最近は違う。
今日やるべきことを終えたら、そこで切り上げる。
残った仕事は、明日の自分に任せる。
それができるようになった。
金曜日の夜。
会社を出ると、同僚から声をかけられた。
「高橋さん、明日休みですよね?」
「うん」
「何か予定あるんですか?」
一瞬、葵の頭に河川敷が浮かんだ。
「……ちょっと出かける予定」
「彼氏さんとですか?」
何気ない質問だった。
けれど、葵はすぐには答えられなかった。
「うん」
そう答えた。
嘘ではない。
まだ、恋人なのだから。
でも。
その言葉が、以前ほど自然に口から出てこなかった。
帰宅してから、葵はクローゼットを開けた。
日曜日に何を着ていこう。
そう考えて、すぐに苦笑する。
「別に、デートじゃないんだから」
何を張り切っているのだろう。
そう思いながら、何着か服を取り出しては戻す。
結局、いつもの服に決めた。
鏡の前に立つ。
四年前の自分なら、もっと気合いを入れていたかもしれない。
髪型も。
服装も。
何を話すかも。
全部考えてから会いに行っただろう。
でも今は。
何を話すのかも、決めていない。
ただ会って、歩いて、話す。
それだけでいい。
土曜日。
葵は一人で買い物に出かけた。
途中で本屋に立ち寄る。
以前から気になっていた本を一冊手に取る。
少し迷ってから購入した。
そのあと、カフェに入った。
一人で窓際の席に座る。
コーヒーを飲みながら、本を開く。
しばらくすると、スマートフォンが震えた。
悠真だった。
『明日、雨は大丈夫そう』
『よかった』
『何時くらいに行く?』
『お昼過ぎくらいはどう?』
『分かった』
短いやり取り。
けれど、そのあと悠真からもう一通届いた。
『楽しみにしてる』
葵は、その言葉を何度か読み返した。
楽しみにしている。
自分も同じだった。
明日、悠真に会えることが嬉しい。
それを否定する必要はない。
ただ。
嬉しいからといって、それだけで未来を決める必要もない。
葵は画面を閉じた。
そして本に視線を戻した。
日曜日。
約束の時間より少し早く、葵は河川敷に着いた。
川沿いの道を歩く。
風が少し冷たい。
季節が変わっていた。
四年前とは違う。
景色は同じように見えるけれど、木々の色も、空気も違っている。
葵は立ち止まった。
ここだった。
初めて手をつないだ場所。
あの日のことを思い出す。
悠真が隣に立っていた。
まだ付き合っていなかった。
帰りたくない。
でも、帰らなければならない。
そんな時間だった。
そして、悠真が手を差し出した。
葵は思わず笑った。
「……懐かしい」
「何が?」
突然、後ろから声がした。
振り返る。
悠真が立っていた。
「びっくりした」
「ごめん」
「いつからいたの?」
「今来たところ」
悠真は笑った。
以前と変わらない笑顔。
でも、少しだけ違って見えた。
「歩く?」
「うん」
二人は並んで歩き始めた。
しばらく、何も話さなかった。
昔なら、この沈黙を埋めようとしていたかもしれない。
でも今は。
無理に話す必要がないと思えた。
川の流れる音だけが聞こえる。
「ここでさ」
悠真が言った。
「初めて手をつないだよな」
「覚えてるんだ」
「忘れるわけないだろ」
葵は笑った。
「私は、すごく緊張してた」
「知ってる」
「知ってたの?」
「手、すごく冷たかったから」
「……恥ずかしい」
二人で笑った。
その瞬間。
葵は思った。
楽しい。
今も、ちゃんと楽しい。
それが嬉しかった。
そして同時に、少しだけ切なかった。
悠真も同じことを思っているのだろうか。
聞こうとして、やめた。
今すぐ答えを求めなくてもいい。
しばらく歩いたあと、悠真が立ち止まった。
「葵」
「うん?」
「俺、この場所に来るまで、昔のことばっかり思い出すと思ってた」
「私も」
「でも、違った」
悠真は川の向こうを見た。
「昔の俺たちを思い出すんじゃなくて……今の葵と歩いてるんだなって思った」
葵は何も言わなかった。
胸の奥が、静かに動いた。
それは、葵がずっと考えていたことと同じだった。
昔に戻るのではない。
今の二人を見る。
「私も、同じこと考えてた」
葵は答えた。
「四年前の私たちに戻りたいんじゃないんだと思う」
悠真がこちらを見る。
「今の私たちが、どうしたいのか……それを知りたい」
悠真はしばらく黙っていた。
そして、小さく頷いた。
「うん」
二人はまた歩き始めた。
川沿いを吹く風が、少しだけ強くなる。
昔と同じ場所。
けれど、そこにいる二人はもう昔の二人ではない。
葵はそのことを、初めて怖いと思わなかった。
変わってしまったのではない。
変わったからこそ。
今の二人として、もう一度考えることができる。
そんな気がした。
たった五日なのに、葵には少し長く感じられた。
河川敷へ行く。
それだけの約束だった。
けれど、あの場所が二人にとってどんな意味を持っているのかを考えると、胸の奥が落ち着かなかった。
初めて手をつないだ場所。
まだ恋人になる前の二人が、夕暮れの中を並んで歩いた場所。
悠真が何気なく差し出した手を、葵が少し迷ってから握った。
あのときは、それだけで嬉しかった。
手をつないだ。
それだけのことが、特別だった。
今はどうだろう。
同じ場所で、今の二人は何を感じるのだろう。
「……考えすぎかな」
葵はデスクの前で小さく呟いた。
目の前には仕事の資料。
集中しなければならない。
そう思って、再び画面に目を戻した。
仕事は順調だった。
以前なら、予定より早く終わっても別の仕事を探していた。
けれど最近は違う。
今日やるべきことを終えたら、そこで切り上げる。
残った仕事は、明日の自分に任せる。
それができるようになった。
金曜日の夜。
会社を出ると、同僚から声をかけられた。
「高橋さん、明日休みですよね?」
「うん」
「何か予定あるんですか?」
一瞬、葵の頭に河川敷が浮かんだ。
「……ちょっと出かける予定」
「彼氏さんとですか?」
何気ない質問だった。
けれど、葵はすぐには答えられなかった。
「うん」
そう答えた。
嘘ではない。
まだ、恋人なのだから。
でも。
その言葉が、以前ほど自然に口から出てこなかった。
帰宅してから、葵はクローゼットを開けた。
日曜日に何を着ていこう。
そう考えて、すぐに苦笑する。
「別に、デートじゃないんだから」
何を張り切っているのだろう。
そう思いながら、何着か服を取り出しては戻す。
結局、いつもの服に決めた。
鏡の前に立つ。
四年前の自分なら、もっと気合いを入れていたかもしれない。
髪型も。
服装も。
何を話すかも。
全部考えてから会いに行っただろう。
でも今は。
何を話すのかも、決めていない。
ただ会って、歩いて、話す。
それだけでいい。
土曜日。
葵は一人で買い物に出かけた。
途中で本屋に立ち寄る。
以前から気になっていた本を一冊手に取る。
少し迷ってから購入した。
そのあと、カフェに入った。
一人で窓際の席に座る。
コーヒーを飲みながら、本を開く。
しばらくすると、スマートフォンが震えた。
悠真だった。
『明日、雨は大丈夫そう』
『よかった』
『何時くらいに行く?』
『お昼過ぎくらいはどう?』
『分かった』
短いやり取り。
けれど、そのあと悠真からもう一通届いた。
『楽しみにしてる』
葵は、その言葉を何度か読み返した。
楽しみにしている。
自分も同じだった。
明日、悠真に会えることが嬉しい。
それを否定する必要はない。
ただ。
嬉しいからといって、それだけで未来を決める必要もない。
葵は画面を閉じた。
そして本に視線を戻した。
日曜日。
約束の時間より少し早く、葵は河川敷に着いた。
川沿いの道を歩く。
風が少し冷たい。
季節が変わっていた。
四年前とは違う。
景色は同じように見えるけれど、木々の色も、空気も違っている。
葵は立ち止まった。
ここだった。
初めて手をつないだ場所。
あの日のことを思い出す。
悠真が隣に立っていた。
まだ付き合っていなかった。
帰りたくない。
でも、帰らなければならない。
そんな時間だった。
そして、悠真が手を差し出した。
葵は思わず笑った。
「……懐かしい」
「何が?」
突然、後ろから声がした。
振り返る。
悠真が立っていた。
「びっくりした」
「ごめん」
「いつからいたの?」
「今来たところ」
悠真は笑った。
以前と変わらない笑顔。
でも、少しだけ違って見えた。
「歩く?」
「うん」
二人は並んで歩き始めた。
しばらく、何も話さなかった。
昔なら、この沈黙を埋めようとしていたかもしれない。
でも今は。
無理に話す必要がないと思えた。
川の流れる音だけが聞こえる。
「ここでさ」
悠真が言った。
「初めて手をつないだよな」
「覚えてるんだ」
「忘れるわけないだろ」
葵は笑った。
「私は、すごく緊張してた」
「知ってる」
「知ってたの?」
「手、すごく冷たかったから」
「……恥ずかしい」
二人で笑った。
その瞬間。
葵は思った。
楽しい。
今も、ちゃんと楽しい。
それが嬉しかった。
そして同時に、少しだけ切なかった。
悠真も同じことを思っているのだろうか。
聞こうとして、やめた。
今すぐ答えを求めなくてもいい。
しばらく歩いたあと、悠真が立ち止まった。
「葵」
「うん?」
「俺、この場所に来るまで、昔のことばっかり思い出すと思ってた」
「私も」
「でも、違った」
悠真は川の向こうを見た。
「昔の俺たちを思い出すんじゃなくて……今の葵と歩いてるんだなって思った」
葵は何も言わなかった。
胸の奥が、静かに動いた。
それは、葵がずっと考えていたことと同じだった。
昔に戻るのではない。
今の二人を見る。
「私も、同じこと考えてた」
葵は答えた。
「四年前の私たちに戻りたいんじゃないんだと思う」
悠真がこちらを見る。
「今の私たちが、どうしたいのか……それを知りたい」
悠真はしばらく黙っていた。
そして、小さく頷いた。
「うん」
二人はまた歩き始めた。
川沿いを吹く風が、少しだけ強くなる。
昔と同じ場所。
けれど、そこにいる二人はもう昔の二人ではない。
葵はそのことを、初めて怖いと思わなかった。
変わってしまったのではない。
変わったからこそ。
今の二人として、もう一度考えることができる。
そんな気がした。



