君が思い出になる前に

「引っ越しまで、あと三週間か」

金曜日の夜。

悠真の部屋で、葵はカレンダーを眺めていた。

冷蔵庫の横に掛けられたカレンダーには、赤い丸がいくつかついている。

その一つに、十二日と書かれていた。

悠真が実家へ戻る日。

「早いね」

葵が言うと、悠真はキッチンから振り返った。

「そうだな」

「なんか、まだ実感ない」

「俺も」

悠真は二人分のコーヒーをテーブルに置いた。

葵はカップを手に取る。

「引っ越す前に、いろいろ行きたいところあるな」

「どこ?」

「最初にデートしたところとか」

「そんなところ、覚えてたんだ」

「覚えてるよ」

葵は笑った。

「四年だよ?」

「そうだな」

悠真も笑う。

「じゃあ、今度行くか」

「うん」

葵はカレンダーを見る。

来週は仕事が忙しい。

その次の週も、プレゼンがある。

「再来週なら大丈夫かも」

「再来週?」

「うん。来週はちょっと厳しいから」

「分かった」

悠真は頷いた。

「じゃあ、再来週な」

そのときは、二人とも本当に行けると思っていた。



翌週。

葵の仕事は予想以上に忙しくなった。

新しい企画の打ち合わせ。

資料の修正。

クライアントからの追加依頼。

気づけば一日が終わっている。

金曜日の夜、葵は会社のデスクでスマートフォンを見た。

悠真からメッセージが来ている。

『明日、何時にする?』

明日は、二人で出かける予定だった。

葵は返信しようとして、手を止めた。

明日の午前中に、どうしても確認しておきたい資料がある。

少しだけ会社に寄れば済む。

そう思った。

『ごめん。明日、午前中だけ仕事してもいい?』

しばらくして返信が来る。

『もちろん。終わったら連絡して』

葵はほっとした。

『ありがとう』

それから翌日。

午前十時に会社へ行った。

一時間だけのつもりだった。

けれど、資料を確認していると修正点が見つかった。

「これ、今日中に直したほうがいいかも」

一人で呟く。

そこから作業を続けた。

気づいたときには、午後一時を過ぎていた。

スマートフォンを見る。

悠真から着信が二件。

メッセージも届いていた。

『大丈夫?』

葵は慌てて電話をかけた。

「ごめん!」

『葵?』

「本当にごめん。まだ会社にいる」

『そっか』

「今からでも会える?」

少し沈黙があった。

『もう昼過ぎだし、今日はやめようか』

「でも……」

『また今度でいいよ』

葵は黙った。

また今度。

その言葉に、少しだけ胸が痛んだ。

「……ごめんね」

『謝らなくていいよ。仕事頑張って』

「うん」

電話を切る。

葵はしばらくスマートフォンを見つめた。

約束を破った。

そう思った。

けれど、仕事を放り出して帰ることもできなかった。

仕方がない。

そう思い直して、パソコンに向き直る。



その日の夜。

悠真は一人で部屋にいた。

テーブルの上には、葵と行くつもりだった店の情報を印刷した紙が置いてある。

初めて二人で行った街の近くにある店だった。

予約まではしていなかった。

葵が仕事になったと分かった時点で、必要なくなったからだ。

悠真は紙を折り、引き出しにしまった。

そして、スマートフォンを手に取る。

葵とのトーク画面を開く。

最後のメッセージ。

『ごめんね』

悠真はしばらく見つめた。

「……謝らなくていいって言ったけど」

誰に聞かせるでもなく呟く。

本当は、少し寂しかった。

会いたかった。

ただ、それだけだった。

けれど、そんなことを言えば、葵を困らせる。

仕事が大事なのも分かっている。

葵が頑張っていることも知っている。

だから、何も言わない。

それが一番いいと思った。



その翌週。

二人は夜に短い電話をした。

「今度の日曜日、空いてるよ」

葵が言った。

『俺も空いてる』

「じゃあ、今度こそ行こう」

『うん』

「約束ね」

『約束』

電話越しに、二人で笑った。

葵は嬉しかった。

まだ大丈夫。

ちゃんと会える。

ちゃんと話せる。

悠真もそう思っている。

そう信じていた。

電話を切ったあと、葵はベッドに横になった。

そして目を閉じる。

来週こそ、仕事を早く終わらせよう。

悠真と一緒に過ごそう。

引っ越すまでの時間は、まだ三週間ある。

そう思った。

三週間。

葵にとっては、十分な時間だった。

けれど、その時間が二人にとってどれほど短いものなのか。

このときの葵は、まだ知らなかった。