海を離れた二人は、駅へ向かう途中で小さな食堂を見つけた。
「ここ、入ってみる?」
悠真が店の前で立ち止まる。
古い木の看板に、手書きの文字で定食の名前が並んでいた。
「いいね」
二人で店に入る。
窓際の席に案内され、葵はメニューを開いた。
「何にする?」
「悩むな……」
「私、これにする」
葵が指差したのは、焼き魚の定食だった。
「じゃあ、俺も」
「真似した?」
「たまたま」
「ほんと?」
「ほんと」
顔を見合わせて笑う。
そんなやり取りが、妙に懐かしかった。
料理が運ばれてくるまで、二人は窓の外を眺めていた。
通りの向こうには、さっきまでいた海が見える。
「今日、天気よくてよかったね」
「うん」
「昨日まで、雨だったらどうしようって思ってた」
「俺も」
「悠真も?」
「そりゃ思うよ」
葵は笑った。
昔だったら、こんなふうに確認することもなかったかもしれない。
相手も同じことを思っている。
そう決めつけていたから。
でも今は違う。
聞いてみなければ分からない。
聞けば、案外同じことを考えていることもある。
逆に、違うことを考えていることもある。
その違いを知ることが、怖くなくなっていた。
食事を終えると、二人は再び海へ戻った。
午後の海は、午前中よりも人が多かった。
子どもたちが砂浜を走り、遠くでは犬を連れた人が歩いている。
「四年前に来てたら、もっと違ったのかな」
葵が言った。
「どうだろう」
「もっと楽しめたかな」
「たぶん」
悠真が少し考える。
「でも、今日だから楽しめてる気もする」
葵はその言葉を聞いて、海を見る。
今日だから。
その意味が、少し分かる気がした。
四年前の二人には、四年前の時間があった。
今の二人には、今の時間がある。
どちらが大切なのかを比べる必要はない。
過去を否定しなくても、今を選ぶことはできる。
「ねえ」
「ん?」
「私、最近ちょっと変わったと思う?」
悠真が葵を見る。
「思う」
「やっぱり?」
「前より、自分のこと話すようになった」
「そうかな」
「うん」
悠真は笑った。
「昔の葵は、俺が聞いても『大丈夫』って言ってたから」
「……言ってたね」
「大丈夫じゃないときも?」
「たぶん」
「やっぱり」
二人で笑う。
けれど、そのあと悠真は少しだけ真面目な顔になった。
「俺も、変わったと思う」
「うん」
「前より、言うようになった」
「何を?」
「寂しいとか。会いたいとか」
葵は黙って悠真を見る。
その言葉を、以前の自分ならどう受け止めていただろう。
仕事を優先していた頃なら。
申し訳ないと思ったかもしれない。
急いで埋め合わせようとしたかもしれない。
でも今は、ただその言葉を受け止めたいと思った。
「……言ってくれて、ありがとう」
悠真は少し驚いたような顔をした。
「それだけ?」
「うん」
「怒らない?」
「なんで怒るの?」
「もっと早く言えばよかったって思ってるから」
葵は首を横に振った。
「今、言ってくれたから」
悠真は何も言わなかった。
ただ、海を見た。
葵も同じ方向を見る。
二人の間に、沈黙が落ちる。
けれど、嫌な沈黙ではなかった。
むしろ、言葉がなくても隣にいられることが心地よかった。
夕方が近づいてきた。
太陽の光が少しずつ柔らかくなる。
「そろそろ帰ろうか」
悠真が言った。
「うん」
二人は砂浜を歩き、駅へ向かった。
途中で葵が振り返る。
海はまだそこにある。
今日見た景色を、きっと忘れない。
でも、写真を撮ろうとは思わなかった。
残しておかなくてもいい。
覚えていたいと思ったものは、きっと心に残る。
駅に着く。
電車を待つ間、悠真が言った。
「今日は、楽しかった」
「私も」
「また来ようか」
葵は一瞬、答えに迷った。
以前なら、すぐに「うん」と答えていた。
次の約束をすることが、当たり前だったから。
でも今は。
「……うん」
少し考えてから、笑った。
「また来たい」
それだけを言った。
未来を約束する必要はない。
今日が楽しかったこと。
また来たいと思ったこと。
それだけで十分だった。
電車がホームに入ってくる。
二人は並んで乗り込んだ。
窓の外に、海が少しずつ遠ざかっていく。
葵は最後まで海を見ていた。
そして思った。
今日のことは、きっと思い出になる。
でも──。
思い出になるのは、今日という一日だけではない。
今までの四年間も。
これからの時間も。
その全部が、自分の人生の一部になっていく。
そう思うと、不思議と寂しくなかった。
「ここ、入ってみる?」
悠真が店の前で立ち止まる。
古い木の看板に、手書きの文字で定食の名前が並んでいた。
「いいね」
二人で店に入る。
窓際の席に案内され、葵はメニューを開いた。
「何にする?」
「悩むな……」
「私、これにする」
葵が指差したのは、焼き魚の定食だった。
「じゃあ、俺も」
「真似した?」
「たまたま」
「ほんと?」
「ほんと」
顔を見合わせて笑う。
そんなやり取りが、妙に懐かしかった。
料理が運ばれてくるまで、二人は窓の外を眺めていた。
通りの向こうには、さっきまでいた海が見える。
「今日、天気よくてよかったね」
「うん」
「昨日まで、雨だったらどうしようって思ってた」
「俺も」
「悠真も?」
「そりゃ思うよ」
葵は笑った。
昔だったら、こんなふうに確認することもなかったかもしれない。
相手も同じことを思っている。
そう決めつけていたから。
でも今は違う。
聞いてみなければ分からない。
聞けば、案外同じことを考えていることもある。
逆に、違うことを考えていることもある。
その違いを知ることが、怖くなくなっていた。
食事を終えると、二人は再び海へ戻った。
午後の海は、午前中よりも人が多かった。
子どもたちが砂浜を走り、遠くでは犬を連れた人が歩いている。
「四年前に来てたら、もっと違ったのかな」
葵が言った。
「どうだろう」
「もっと楽しめたかな」
「たぶん」
悠真が少し考える。
「でも、今日だから楽しめてる気もする」
葵はその言葉を聞いて、海を見る。
今日だから。
その意味が、少し分かる気がした。
四年前の二人には、四年前の時間があった。
今の二人には、今の時間がある。
どちらが大切なのかを比べる必要はない。
過去を否定しなくても、今を選ぶことはできる。
「ねえ」
「ん?」
「私、最近ちょっと変わったと思う?」
悠真が葵を見る。
「思う」
「やっぱり?」
「前より、自分のこと話すようになった」
「そうかな」
「うん」
悠真は笑った。
「昔の葵は、俺が聞いても『大丈夫』って言ってたから」
「……言ってたね」
「大丈夫じゃないときも?」
「たぶん」
「やっぱり」
二人で笑う。
けれど、そのあと悠真は少しだけ真面目な顔になった。
「俺も、変わったと思う」
「うん」
「前より、言うようになった」
「何を?」
「寂しいとか。会いたいとか」
葵は黙って悠真を見る。
その言葉を、以前の自分ならどう受け止めていただろう。
仕事を優先していた頃なら。
申し訳ないと思ったかもしれない。
急いで埋め合わせようとしたかもしれない。
でも今は、ただその言葉を受け止めたいと思った。
「……言ってくれて、ありがとう」
悠真は少し驚いたような顔をした。
「それだけ?」
「うん」
「怒らない?」
「なんで怒るの?」
「もっと早く言えばよかったって思ってるから」
葵は首を横に振った。
「今、言ってくれたから」
悠真は何も言わなかった。
ただ、海を見た。
葵も同じ方向を見る。
二人の間に、沈黙が落ちる。
けれど、嫌な沈黙ではなかった。
むしろ、言葉がなくても隣にいられることが心地よかった。
夕方が近づいてきた。
太陽の光が少しずつ柔らかくなる。
「そろそろ帰ろうか」
悠真が言った。
「うん」
二人は砂浜を歩き、駅へ向かった。
途中で葵が振り返る。
海はまだそこにある。
今日見た景色を、きっと忘れない。
でも、写真を撮ろうとは思わなかった。
残しておかなくてもいい。
覚えていたいと思ったものは、きっと心に残る。
駅に着く。
電車を待つ間、悠真が言った。
「今日は、楽しかった」
「私も」
「また来ようか」
葵は一瞬、答えに迷った。
以前なら、すぐに「うん」と答えていた。
次の約束をすることが、当たり前だったから。
でも今は。
「……うん」
少し考えてから、笑った。
「また来たい」
それだけを言った。
未来を約束する必要はない。
今日が楽しかったこと。
また来たいと思ったこと。
それだけで十分だった。
電車がホームに入ってくる。
二人は並んで乗り込んだ。
窓の外に、海が少しずつ遠ざかっていく。
葵は最後まで海を見ていた。
そして思った。
今日のことは、きっと思い出になる。
でも──。
思い出になるのは、今日という一日だけではない。
今までの四年間も。
これからの時間も。
その全部が、自分の人生の一部になっていく。
そう思うと、不思議と寂しくなかった。



