土曜日。
葵は、約束の時間より少し早く駅に着いた。
時計を見る。
午前九時四十分。
待ち合わせは十時。
早すぎたかな。
そう思いながらも、なぜか帰る気にはならなかった。
駅前のベンチに座り、行き交う人を眺める。
休日だからか、平日よりも人の表情が柔らかく見える。
子どもを連れた家族。
友人同士で笑いながら歩く若者。
旅行用の大きなバッグを持った人。
そんな光景を眺めていると、後ろから声がした。
「葵」
振り返る。
悠真が立っていた。
「おはよう」
「おはよう」
いつもの挨拶。
なのに、少しだけ緊張する。
「早かったね」
「悠真も」
「俺は今来たところ」
「絶対嘘」
葵が笑う。
悠真も笑った。
その瞬間。
四年前と同じような感覚が、ほんの少しだけ戻ってきた。
くだらないことで笑う。
それだけで楽しい。
でも、昔とは違う。
二人とも、それを分かっている。
「行こうか」
「うん」
二人は並んで歩き出した。
電車に乗る。
窓際の席に葵が座り、悠真が隣に座る。
しばらく、二人とも外を見ていた。
昔なら、電車に乗った瞬間から話していた。
今日は違う。
沈黙があっても、気まずくない。
葵は窓の外を眺めながら、ふと思った。
沈黙が怖くなくなった。
それだけでも、以前とは違うのかもしれない。
「そういえば」
悠真が口を開いた。
「何?」
「葵、海に行くの楽しみにしてた?」
「……うん」
「昨日の夜も?」
「なんで分かるの?」
「なんとなく」
葵は笑う。
「悠真だって楽しみにしてたんじゃない?」
「まあね」
「じゃあ、お互い様」
「そうだな」
二人で笑った。
やがて電車が目的地へ近づいていく。
窓の向こうに、青い海が見えた。
「あ」
葵が思わず声を漏らす。
悠真も窓の外を見る。
「見えた」
その瞬間、葵の胸が少しだけ高鳴った。
ずっと行きたかった場所。
何度も「いつか」と言っていた場所。
それが今、目の前にある。
駅を降りる。
潮の匂いがした。
「海の匂いする」
葵が言う。
「するな」
二人は海へ向かって歩いた。
しばらくすると、視界が開ける。
青い海。
白い波。
遠くまで続く水平線。
「……きれい」
葵は立ち止まった。
悠真も隣で海を眺めている。
「来てよかったね」
「うん」
それだけだった。
けれど、葵には十分だった。
砂浜を歩く。
波が足元まで近づいて、すぐに引いていく。
「冷たい」
「夏じゃないからな」
「分かってる」
葵が笑う。
悠真も笑う。
しばらく歩いてから、二人は海を眺められるベンチに座った。
「昔、ここに来たかったよね」
葵が言った。
「うん」
「結局、来なかったけど」
「そうだな」
悠真は海を見る。
「行こうって言ってたのにな」
「いつか行こう、って」
「いつかって言ってるうちに、時間だけ過ぎた」
その言葉に、葵は黙った。
胸の奥に、少しだけ痛みが走る。
「……ごめん」
思わず口から出た。
悠真が葵を見る。
「何が?」
「いろいろ」
葵は海を見たまま続けた。
「仕事を優先して。いつでも会えるって思って。悠真との時間を後回しにしてた」
悠真はすぐには答えなかった。
波の音だけが聞こえる。
「俺もだよ」
「悠真も?」
「俺も、葵が忙しいなら仕方ないって思ってた」
少し間を置いて、悠真は言った。
「寂しいって言えばよかった」
葵は隣を見る。
「私も、聞けばよかった」
「うん」
二人はそれ以上、謝らなかった。
どちらが悪かったのかを決める必要はなかった。
四年間の中には、言えなかったことがたくさんある。
でも、それだけではない。
笑った時間も。
支えてもらった時間も。
一緒に未来を話した時間も。
全部、本当にあった。
「ねえ、悠真」
「ん?」
「来られてよかったね」
「うん」
「もっと早く来ればよかった」
悠真は少し笑った。
「でも、今日来られた」
その言葉に、葵も笑った。
「そうだね」
海を眺める。
隣には悠真がいる。
それだけで、少し安心する。
けれど葵はもう、「この人がいなければ何もできない」とは思わなかった。
海へ行きたかった。
だから来た。
悠真と一緒に。
でも、自分自身が見たかった景色でもある。
そのことが、嬉しかった。
「お腹空いた」
葵が言う。
「早いな」
「朝、あんまり食べてないから」
「じゃあ、何か食べに行く?」
「うん」
二人は立ち上がった。
砂浜を離れ、街へ向かって歩き出す。
その後ろには、二人分の足跡が残っていた。
波が来れば、きっと消える。
けれど、それでいい。
足跡が消えても、今日という一日まで消えるわけではない。
葵は振り返り、もう一度海を見る。
そして、小さく笑った。
今日はまだ、終わらない。
二人の時間は、もう少しだけ続いていた。
葵は、約束の時間より少し早く駅に着いた。
時計を見る。
午前九時四十分。
待ち合わせは十時。
早すぎたかな。
そう思いながらも、なぜか帰る気にはならなかった。
駅前のベンチに座り、行き交う人を眺める。
休日だからか、平日よりも人の表情が柔らかく見える。
子どもを連れた家族。
友人同士で笑いながら歩く若者。
旅行用の大きなバッグを持った人。
そんな光景を眺めていると、後ろから声がした。
「葵」
振り返る。
悠真が立っていた。
「おはよう」
「おはよう」
いつもの挨拶。
なのに、少しだけ緊張する。
「早かったね」
「悠真も」
「俺は今来たところ」
「絶対嘘」
葵が笑う。
悠真も笑った。
その瞬間。
四年前と同じような感覚が、ほんの少しだけ戻ってきた。
くだらないことで笑う。
それだけで楽しい。
でも、昔とは違う。
二人とも、それを分かっている。
「行こうか」
「うん」
二人は並んで歩き出した。
電車に乗る。
窓際の席に葵が座り、悠真が隣に座る。
しばらく、二人とも外を見ていた。
昔なら、電車に乗った瞬間から話していた。
今日は違う。
沈黙があっても、気まずくない。
葵は窓の外を眺めながら、ふと思った。
沈黙が怖くなくなった。
それだけでも、以前とは違うのかもしれない。
「そういえば」
悠真が口を開いた。
「何?」
「葵、海に行くの楽しみにしてた?」
「……うん」
「昨日の夜も?」
「なんで分かるの?」
「なんとなく」
葵は笑う。
「悠真だって楽しみにしてたんじゃない?」
「まあね」
「じゃあ、お互い様」
「そうだな」
二人で笑った。
やがて電車が目的地へ近づいていく。
窓の向こうに、青い海が見えた。
「あ」
葵が思わず声を漏らす。
悠真も窓の外を見る。
「見えた」
その瞬間、葵の胸が少しだけ高鳴った。
ずっと行きたかった場所。
何度も「いつか」と言っていた場所。
それが今、目の前にある。
駅を降りる。
潮の匂いがした。
「海の匂いする」
葵が言う。
「するな」
二人は海へ向かって歩いた。
しばらくすると、視界が開ける。
青い海。
白い波。
遠くまで続く水平線。
「……きれい」
葵は立ち止まった。
悠真も隣で海を眺めている。
「来てよかったね」
「うん」
それだけだった。
けれど、葵には十分だった。
砂浜を歩く。
波が足元まで近づいて、すぐに引いていく。
「冷たい」
「夏じゃないからな」
「分かってる」
葵が笑う。
悠真も笑う。
しばらく歩いてから、二人は海を眺められるベンチに座った。
「昔、ここに来たかったよね」
葵が言った。
「うん」
「結局、来なかったけど」
「そうだな」
悠真は海を見る。
「行こうって言ってたのにな」
「いつか行こう、って」
「いつかって言ってるうちに、時間だけ過ぎた」
その言葉に、葵は黙った。
胸の奥に、少しだけ痛みが走る。
「……ごめん」
思わず口から出た。
悠真が葵を見る。
「何が?」
「いろいろ」
葵は海を見たまま続けた。
「仕事を優先して。いつでも会えるって思って。悠真との時間を後回しにしてた」
悠真はすぐには答えなかった。
波の音だけが聞こえる。
「俺もだよ」
「悠真も?」
「俺も、葵が忙しいなら仕方ないって思ってた」
少し間を置いて、悠真は言った。
「寂しいって言えばよかった」
葵は隣を見る。
「私も、聞けばよかった」
「うん」
二人はそれ以上、謝らなかった。
どちらが悪かったのかを決める必要はなかった。
四年間の中には、言えなかったことがたくさんある。
でも、それだけではない。
笑った時間も。
支えてもらった時間も。
一緒に未来を話した時間も。
全部、本当にあった。
「ねえ、悠真」
「ん?」
「来られてよかったね」
「うん」
「もっと早く来ればよかった」
悠真は少し笑った。
「でも、今日来られた」
その言葉に、葵も笑った。
「そうだね」
海を眺める。
隣には悠真がいる。
それだけで、少し安心する。
けれど葵はもう、「この人がいなければ何もできない」とは思わなかった。
海へ行きたかった。
だから来た。
悠真と一緒に。
でも、自分自身が見たかった景色でもある。
そのことが、嬉しかった。
「お腹空いた」
葵が言う。
「早いな」
「朝、あんまり食べてないから」
「じゃあ、何か食べに行く?」
「うん」
二人は立ち上がった。
砂浜を離れ、街へ向かって歩き出す。
その後ろには、二人分の足跡が残っていた。
波が来れば、きっと消える。
けれど、それでいい。
足跡が消えても、今日という一日まで消えるわけではない。
葵は振り返り、もう一度海を見る。
そして、小さく笑った。
今日はまだ、終わらない。
二人の時間は、もう少しだけ続いていた。



