水曜日の朝。
目を覚ました葵は、枕元のスマートフォンを手に取った。
まだ六時半。
いつもより少し早い。
画面には、新しい通知はなかった。
けれど、葵はなぜか笑った。
土曜日まで、あと三日。
海へ行く日が近づいている。
そう思っただけで、少しだけ気持ちが軽くなった。
キッチンへ行き、コーヒーを淹れる。
窓の外は晴れていた。
「土曜日も晴れるかな」
独り言を呟いてから、葵はふと考える。
もし雨だったら。
昔の自分なら、きっと残念がっただろう。
せっかくの予定なのに。
せっかく悠真と会えるのに。
けれど今は、それほど気にならなかった。
雨なら雨でいい。
また別の日に行けばいい。
そんなふうに思えるようになった自分が、少し嬉しかった。
会社へ向かう。
午前中は打ち合わせが続いた。
新しい広告企画について意見を求められ、葵は資料をめくりながら話す。
「この方向なら、もう少しターゲットを絞ったほうがいいと思います」
「確かに。高橋さん、修正案を作れる?」
「はい。今日中にまとめます」
仕事は嫌いではない。
むしろ好きだった。
以前は、仕事が好きだからこそ、どこまでも時間を使っていた。
でも今は、仕事を好きでいることと、仕事だけで生きることは違うと分かってきた。
昼休み。
同僚と食事をしていると、ふいに週末の話になった。
「高橋さん、今週末って予定ある?」
「うん。ちょっと出かける予定」
「珍しい。どこ?」
葵は一瞬だけ迷った。
「海」
「え、いいな」
「久しぶりに行くんだ」
「彼氏と?」
その問いに、葵の箸が一瞬止まった。
「……うん」
そう答える。
同僚は何も知らない。
だから、それ以上は聞かなかった。
けれど葵自身は、その言葉を口にしたことで、少しだけ胸の奥がざわついた。
彼氏。
確かに、今も悠真は恋人だ。
けれど、二人の関係がこれまでと同じではないことも分かっている。
だからこそ、土曜日が少し怖い。
楽しいだけでは終わらない気がする。
そんな予感があった。
午後五時。
仕事が一段落したところで、葵は窓の外を見た。
夕暮れの空が、薄いオレンジ色に染まっている。
海へ行ったら、こんな空も見られるだろうか。
そう思ってから、葵は苦笑した。
「……私、楽しみにしてるんだ」
何を?
悠真に会うこと。
海を見ること。
それとも、二人で過ごす時間そのもの。
自分でも分からなかった。
帰宅すると、葵はクローゼットを開けた。
土曜日に何を着ていこう。
そう考えている自分に、また笑ってしまう。
以前の自分なら、悠真が好きそうな服を選んでいた。
今日は違った。
自分が着たい服を選ぶ。
白いシャツ。
淡い色のスカート。
動きやすい靴。
鏡の前で合わせてみる。
「これでいいかな」
誰に聞くでもなく呟いた。
スマートフォンが震えた。
悠真からだった。
『土曜日、十時で大丈夫?』
『うん。大丈夫』
少し考えてから、葵は続けた。
『楽しみにしてる』
送信した。
数秒後。
『俺も』
短い返信。
葵はその画面をしばらく見つめた。
以前なら、その二文字だけでは足りなかったかもしれない。
もっと話したい。
もっと声を聞きたい。
もっと自分を見てほしい。
そんな気持ちがあった。
けれど今は違う。
「俺も」という言葉だけで、十分だった。
スマートフォンをテーブルに置く。
そして葵は、ふと窓の外を見る。
夜の街に、いくつもの明かりが灯っている。
その向こうに海がある。
土曜日になれば、そこへ行く。
悠真と一緒に。
でも、それだけではない。
葵自身が、海を見たいと思っている。
ずっと行きたかった場所だから。
ずっと先延ばしにしていた場所だから。
だから今度は、自分の足でそこへ行く。
悠真と一緒に行くことが嬉しい。
でも、海へ行けること自体も嬉しい。
その二つを同時に思えることが、葵には新しかった。
恋人がいるから幸せなのではない。
一人でも幸せになれるからこそ、誰かと過ごす時間も大切にできる。
そんなことを、少しずつ理解し始めていた。
土曜日まで、あと三日。
葵はカレンダーを眺める。
そこには、小さく予定が書かれている。
──海。
たった二文字。
けれど今の葵にとって、それは過去の「いつか」ではなかった。
もう、ちゃんと決まった未来だった。
目を覚ました葵は、枕元のスマートフォンを手に取った。
まだ六時半。
いつもより少し早い。
画面には、新しい通知はなかった。
けれど、葵はなぜか笑った。
土曜日まで、あと三日。
海へ行く日が近づいている。
そう思っただけで、少しだけ気持ちが軽くなった。
キッチンへ行き、コーヒーを淹れる。
窓の外は晴れていた。
「土曜日も晴れるかな」
独り言を呟いてから、葵はふと考える。
もし雨だったら。
昔の自分なら、きっと残念がっただろう。
せっかくの予定なのに。
せっかく悠真と会えるのに。
けれど今は、それほど気にならなかった。
雨なら雨でいい。
また別の日に行けばいい。
そんなふうに思えるようになった自分が、少し嬉しかった。
会社へ向かう。
午前中は打ち合わせが続いた。
新しい広告企画について意見を求められ、葵は資料をめくりながら話す。
「この方向なら、もう少しターゲットを絞ったほうがいいと思います」
「確かに。高橋さん、修正案を作れる?」
「はい。今日中にまとめます」
仕事は嫌いではない。
むしろ好きだった。
以前は、仕事が好きだからこそ、どこまでも時間を使っていた。
でも今は、仕事を好きでいることと、仕事だけで生きることは違うと分かってきた。
昼休み。
同僚と食事をしていると、ふいに週末の話になった。
「高橋さん、今週末って予定ある?」
「うん。ちょっと出かける予定」
「珍しい。どこ?」
葵は一瞬だけ迷った。
「海」
「え、いいな」
「久しぶりに行くんだ」
「彼氏と?」
その問いに、葵の箸が一瞬止まった。
「……うん」
そう答える。
同僚は何も知らない。
だから、それ以上は聞かなかった。
けれど葵自身は、その言葉を口にしたことで、少しだけ胸の奥がざわついた。
彼氏。
確かに、今も悠真は恋人だ。
けれど、二人の関係がこれまでと同じではないことも分かっている。
だからこそ、土曜日が少し怖い。
楽しいだけでは終わらない気がする。
そんな予感があった。
午後五時。
仕事が一段落したところで、葵は窓の外を見た。
夕暮れの空が、薄いオレンジ色に染まっている。
海へ行ったら、こんな空も見られるだろうか。
そう思ってから、葵は苦笑した。
「……私、楽しみにしてるんだ」
何を?
悠真に会うこと。
海を見ること。
それとも、二人で過ごす時間そのもの。
自分でも分からなかった。
帰宅すると、葵はクローゼットを開けた。
土曜日に何を着ていこう。
そう考えている自分に、また笑ってしまう。
以前の自分なら、悠真が好きそうな服を選んでいた。
今日は違った。
自分が着たい服を選ぶ。
白いシャツ。
淡い色のスカート。
動きやすい靴。
鏡の前で合わせてみる。
「これでいいかな」
誰に聞くでもなく呟いた。
スマートフォンが震えた。
悠真からだった。
『土曜日、十時で大丈夫?』
『うん。大丈夫』
少し考えてから、葵は続けた。
『楽しみにしてる』
送信した。
数秒後。
『俺も』
短い返信。
葵はその画面をしばらく見つめた。
以前なら、その二文字だけでは足りなかったかもしれない。
もっと話したい。
もっと声を聞きたい。
もっと自分を見てほしい。
そんな気持ちがあった。
けれど今は違う。
「俺も」という言葉だけで、十分だった。
スマートフォンをテーブルに置く。
そして葵は、ふと窓の外を見る。
夜の街に、いくつもの明かりが灯っている。
その向こうに海がある。
土曜日になれば、そこへ行く。
悠真と一緒に。
でも、それだけではない。
葵自身が、海を見たいと思っている。
ずっと行きたかった場所だから。
ずっと先延ばしにしていた場所だから。
だから今度は、自分の足でそこへ行く。
悠真と一緒に行くことが嬉しい。
でも、海へ行けること自体も嬉しい。
その二つを同時に思えることが、葵には新しかった。
恋人がいるから幸せなのではない。
一人でも幸せになれるからこそ、誰かと過ごす時間も大切にできる。
そんなことを、少しずつ理解し始めていた。
土曜日まで、あと三日。
葵はカレンダーを眺める。
そこには、小さく予定が書かれている。
──海。
たった二文字。
けれど今の葵にとって、それは過去の「いつか」ではなかった。
もう、ちゃんと決まった未来だった。



