日曜日の夜。
葵は、ソファに座って昨日買ったエッセイ集を読んでいた。
海へ行った翌日。
それだけなのに、少しだけ気持ちが軽い。
昨日の海の写真を見返す。
青い空。
波。
砂浜。
そして、自分の足元。
誰かと一緒に写った写真は、一枚もない。
それが、なぜか嬉しかった。
スマートフォンが震えた。
悠真からだった。
『今、電話できる?』
葵は少し考えてから返信した。
『うん』
すぐに着信が入る。
「もしもし」
『もしもし』
聞き慣れた声。
それだけで、胸の奥が少しだけ緩む。
「どうしたの?」
『特に用事はない』
「え?」
『なんとなく声、聞きたくなって』
葵は何も言えなかった。
以前なら、その言葉だけで嬉しくなっただろう。
でも今日は、少し違った。
嬉しい。
それは確かだった。
でも、それだけではない。
悠真もまた、自分と同じように、この時間を大切にしている。
そんな気がした。
「昨日、海に行ったんだよね」
『うん』
「どうだった?」
「思ったより、一人でも平気だった」
『そう』
「ちょっと寒かったけど」
『海ってそんなもんだろ』
「知らなかった」
『知らないこと、まだ多いな』
悠真が笑う。
葵も笑った。
「悠真は?」
『何が?』
「今日は何してたの?」
『午前中は父さんの買い物に付き合って、そのあと少し仕事してた』
「休日なのに?」
『少しだけ』
「ちゃんと休んでる?」
『葵に言われたくない」
「……それはそう」
二人で笑った。
昔なら、ここから仕事の話になっていた。
葵が会社の愚痴を話して。
悠真が聞いて。
そのうち二人とも眠くなって。
いつの間にか電話を切る。
そんな夜が多かった。
でも今日は、違った。
「お父さん、どう?」
『元気だよ』
「よかった」
『最近は、前よりよく話すようになった』
「そうなんだ」
『俺がこっちに戻ってきたからかな』
その声には、少しだけ照れが混じっていた。
「悠真」
『ん?』
「戻ってきてよかった?」
電話の向こうが静かになった。
葵は少し後悔した。
聞いてはいけなかったかもしれない。
けれど、悠真はすぐに答えなかった。
『……うん』
短い返事。
『よかったと思う』
「そっか」
『ただ』
「うん」
『東京にいた頃のことも、大事だったよ』
葵は目を伏せた。
「……うん」
それ以上、何も言えなかった。
しばらく沈黙が続いた。
でも、不思議と気まずくなかった。
以前なら、沈黙が怖かった。
何か話さなければ。
電話を切られてしまう前に。
そう思って、必死に話題を探していた。
でも今は違う。
話さなくても、電話は続いている。
それだけでよかった。
「ねえ、悠真」
『うん』
「私、最近ちょっと変わったと思わない?」
『思う』
「早い」
『分かるよ』
「どこが?」
『前より、ちゃんと自分の話をするようになった』
葵は黙った。
『前は、仕事の話ばっかりだったから』
「……そうだった?」
『うん』
「そんなに?」
『そんなに』
笑いながら言われて、葵も笑った。
「じゃあ、今は?」
『今は……』
悠真が少し考える。
『海に行った話とか、本を買った話とか』
「それだけ?」
『あと、今日は何食べたとか』
「そんなことまで?」
『そういうのが、葵の日常なんだろ』
葵は胸の奥が熱くなるのを感じた。
大きな言葉ではなかった。
愛しているとも。
ずっと一緒にいたいとも。
そんな言葉ではない。
でも。
自分の日常を知ろうとしてくれている。
それが、嬉しかった。
時計を見る。
もうすぐ十一時だった。
「そろそろ寝る?」
『うん』
「明日仕事だしね」
『そうだな』
以前なら、電話を切ることが寂しかった。
でも今日は違った。
「おやすみ、悠真」
『おやすみ、葵』
通話が切れる。
静かな部屋に戻る。
葵はスマートフォンをテーブルに置いた。
そして、ふと気づいた。
電話が終わっても。
自分は一人でも大丈夫だった。
寂しくないわけではない。
悠真に会いたいと思う気持ちもある。
声を聞くと、やっぱり嬉しい。
でも。
悠真がいない時間を、自分自身で過ごせるようになってきた。
それは、二人の関係が薄くなったということではない。
むしろ。
相手がいないと何もできない関係ではなくなっていくことが、本当の意味で相手を大切にすることなのかもしれない。
葵はそう思った。
窓の外を見る。
東京の夜は静かだった。
遠く離れた街にも、同じ夜がある。
悠真も今ごろ眠っているだろうか。
そんなことを考えながら、葵は灯りを消した。
明日も仕事がある。
でも、それだけではない。
自分の一日がある。
自分の時間がある。
そして。
その中に、悠真との時間もある。
今は、それでいいと思えた。
葵は、ソファに座って昨日買ったエッセイ集を読んでいた。
海へ行った翌日。
それだけなのに、少しだけ気持ちが軽い。
昨日の海の写真を見返す。
青い空。
波。
砂浜。
そして、自分の足元。
誰かと一緒に写った写真は、一枚もない。
それが、なぜか嬉しかった。
スマートフォンが震えた。
悠真からだった。
『今、電話できる?』
葵は少し考えてから返信した。
『うん』
すぐに着信が入る。
「もしもし」
『もしもし』
聞き慣れた声。
それだけで、胸の奥が少しだけ緩む。
「どうしたの?」
『特に用事はない』
「え?」
『なんとなく声、聞きたくなって』
葵は何も言えなかった。
以前なら、その言葉だけで嬉しくなっただろう。
でも今日は、少し違った。
嬉しい。
それは確かだった。
でも、それだけではない。
悠真もまた、自分と同じように、この時間を大切にしている。
そんな気がした。
「昨日、海に行ったんだよね」
『うん』
「どうだった?」
「思ったより、一人でも平気だった」
『そう』
「ちょっと寒かったけど」
『海ってそんなもんだろ』
「知らなかった」
『知らないこと、まだ多いな』
悠真が笑う。
葵も笑った。
「悠真は?」
『何が?』
「今日は何してたの?」
『午前中は父さんの買い物に付き合って、そのあと少し仕事してた』
「休日なのに?」
『少しだけ』
「ちゃんと休んでる?」
『葵に言われたくない」
「……それはそう」
二人で笑った。
昔なら、ここから仕事の話になっていた。
葵が会社の愚痴を話して。
悠真が聞いて。
そのうち二人とも眠くなって。
いつの間にか電話を切る。
そんな夜が多かった。
でも今日は、違った。
「お父さん、どう?」
『元気だよ』
「よかった」
『最近は、前よりよく話すようになった』
「そうなんだ」
『俺がこっちに戻ってきたからかな』
その声には、少しだけ照れが混じっていた。
「悠真」
『ん?』
「戻ってきてよかった?」
電話の向こうが静かになった。
葵は少し後悔した。
聞いてはいけなかったかもしれない。
けれど、悠真はすぐに答えなかった。
『……うん』
短い返事。
『よかったと思う』
「そっか」
『ただ』
「うん」
『東京にいた頃のことも、大事だったよ』
葵は目を伏せた。
「……うん」
それ以上、何も言えなかった。
しばらく沈黙が続いた。
でも、不思議と気まずくなかった。
以前なら、沈黙が怖かった。
何か話さなければ。
電話を切られてしまう前に。
そう思って、必死に話題を探していた。
でも今は違う。
話さなくても、電話は続いている。
それだけでよかった。
「ねえ、悠真」
『うん』
「私、最近ちょっと変わったと思わない?」
『思う』
「早い」
『分かるよ』
「どこが?」
『前より、ちゃんと自分の話をするようになった』
葵は黙った。
『前は、仕事の話ばっかりだったから』
「……そうだった?」
『うん』
「そんなに?」
『そんなに』
笑いながら言われて、葵も笑った。
「じゃあ、今は?」
『今は……』
悠真が少し考える。
『海に行った話とか、本を買った話とか』
「それだけ?」
『あと、今日は何食べたとか』
「そんなことまで?」
『そういうのが、葵の日常なんだろ』
葵は胸の奥が熱くなるのを感じた。
大きな言葉ではなかった。
愛しているとも。
ずっと一緒にいたいとも。
そんな言葉ではない。
でも。
自分の日常を知ろうとしてくれている。
それが、嬉しかった。
時計を見る。
もうすぐ十一時だった。
「そろそろ寝る?」
『うん』
「明日仕事だしね」
『そうだな』
以前なら、電話を切ることが寂しかった。
でも今日は違った。
「おやすみ、悠真」
『おやすみ、葵』
通話が切れる。
静かな部屋に戻る。
葵はスマートフォンをテーブルに置いた。
そして、ふと気づいた。
電話が終わっても。
自分は一人でも大丈夫だった。
寂しくないわけではない。
悠真に会いたいと思う気持ちもある。
声を聞くと、やっぱり嬉しい。
でも。
悠真がいない時間を、自分自身で過ごせるようになってきた。
それは、二人の関係が薄くなったということではない。
むしろ。
相手がいないと何もできない関係ではなくなっていくことが、本当の意味で相手を大切にすることなのかもしれない。
葵はそう思った。
窓の外を見る。
東京の夜は静かだった。
遠く離れた街にも、同じ夜がある。
悠真も今ごろ眠っているだろうか。
そんなことを考えながら、葵は灯りを消した。
明日も仕事がある。
でも、それだけではない。
自分の一日がある。
自分の時間がある。
そして。
その中に、悠真との時間もある。
今は、それでいいと思えた。



