君が思い出になる前に

悠真から引っ越しの日を聞いたのは、それから一週間後だった。

「来月の十二日になった」

仕事帰りに会った悠真が、そう言った。

「十二日……」

葵は頭の中で予定を確認する。

カレンダーを思い浮かべると、土曜日だった。

「じゃあ、見送りに行けるね」

「無理しなくていいよ」

「行くよ」

葵は即答した。

「だって、引っ越しの日でしょ」

悠真は少しだけ笑った。

「ありがとう」

二人は駅近くの居酒屋で向かい合っていた。

以前なら、週末に会うことは珍しくなかった。

仕事終わりに食事をして、そのまま悠真の部屋へ行くこともあった。

けれど最近は、こうして予定を合わせなければ会えない。

それでも葵は、特に不満を感じていなかった。

仕事が忙しい。

悠真も家のことで大変だ。

今は仕方がない。

そう思っていた。

「向こうではどうするの?」

「しばらくは親父のことを見ながら、仕事を探すつもり」

「そっか」

「今の会社みたいな仕事があるか分からないけど」

「悠真なら大丈夫だよ」

葵は笑った。

「仕事できるし、人付き合いも上手だし」

「それ、褒めてる?」

「もちろん」

悠真も笑う。

「じゃあ、頑張らないとな」

料理が運ばれてくる。

二人はしばらく食事をした。

仕事の話をしたり、最近見た映画の話をしたり。

いつも通りだった。

それなのに、葵は時々、悠真の顔を見てしまう。

あと少しで、この人は遠くへ行く。

そう思うと、胸の奥が落ち着かなかった。

「ねえ」

「ん?」

「向こうに行っても、毎日連絡しようよ」

悠真が箸を止めた。

「毎日?」

「うん。電話でもメッセージでも」

葵は笑う。

「今までだって、毎日してたじゃん」

悠真は何も言わなかった。

葵は少し考える。

「……してたよね?」

「うん」

「最近は減ったけど」

「そうだな」

悠真は静かに答えた。

「でも、また戻せばいいんじゃない?」

葵はそう言った。

悠真は葵を見る。

その目が、ほんの少し寂しそうに見えた。

けれど、すぐにいつもの表情に戻った。

「そうだな」

それ以上、何も言わなかった。



食事を終えた二人は、駅まで歩いた。

夜の街には、仕事帰りの人たちが行き交っている。

葵の隣を悠真が歩いている。

今まで何度も繰り返してきた光景だった。

ふと、葵は思った。

この道を二人で歩くのも、あと何回あるのだろう。

そう考えた瞬間、胸がきゅっと締まった。

「どうした?」

悠真がこちらを見る。

「え?」

「さっきから静かだから」

「なんでもないよ」

葵は笑った。

「ちょっと考え事してただけ」

「何を?」

「……向こうに行ったら、寂しいだろうなって」

悠真は足を止めた。

「葵が?」

「うん」

葵は冗談めかして笑う。

「今までみたいに、仕事終わりに会えなくなるでしょ」

「そうだな」

「だから、ちゃんと会いに来てね」

悠真は少し黙った。

「葵も来てくれる?」

「もちろん」

「仕事が忙しくても?」

「……うん」

葵は答えた。

一瞬だけ迷った。

けれど、その迷いを見せないように笑った。

「頑張って時間作るから」

悠真はその言葉を聞いて、静かに頷いた。

「分かった」



駅の改札前。

いつものように、二人は別れる。

「じゃあ、またね」

「うん」

「今度はちゃんと旅行行こうね」

「……ああ」

悠真の返事が少し遅れた。

けれど葵は気にしなかった。

再来月。

仕事が落ち着いたら。

二人で温泉に行く。

その約束は、まだ消えていない。

そう思っていた。

改札を抜けてから、葵は一度だけ振り返った。

悠真が立っている。

目が合う。

今度は悠真が先に手を上げた。

葵も笑って手を振る。

電車に乗り、窓際の席に座る。

動き出した電車の窓から、街の明かりが流れていく。

葵はスマートフォンを取り出した。

悠真からメッセージが届いていた。

『今日はありがとう』

葵はすぐに返信した。

『こちらこそ。引っ越しまで、いっぱい会おうね』

送信する。

既読がついた。

けれど、返事は来なかった。

葵はスマートフォンを伏せた。

きっと疲れているのだろう。

そう思って、目を閉じる。

「遠くなるだけだよね」

小さく呟いた。

好きな気持ちがなくなるわけじゃない。

四年間一緒にいた時間が消えるわけでもない。

距離が離れるだけ。

だから、きっと大丈夫。

葵はまだ、そう信じていた。

けれど悠真の胸の中には、葵にはまだ見えていない迷いがあった。

遠くなるのは、距離だけなのか。

その答えを、悠真自身もまだ見つけられずにいた。