土曜日の朝。
葵は、いつもより少し早く目を覚ました。
カーテンを開ける。
空は晴れていた。
窓から入ってくる風が、少しだけ涼しい。
今日は海へ行く。
昨夜、何度も手帳を開いて確認した予定だった。
誰かと約束したわけではない。
悠真にも言っていない。
ただ、自分で決めた。
それだけのことなのに、少しだけ緊張していた。
「……一人で海なんて、いつ以来だろう」
考えてみる。
すぐには思い出せなかった。
そもそも、悠真と付き合ってからは、休日の予定の多くを二人で決めていた。
海に行こう。
旅行しよう。
温泉に行こう。
そう言いながら、いつも「いつか」のままになっていた。
今日は、その「いつか」を一つだけ終わらせる。
葵は鞄を持った。
電車を乗り継ぎ、海の近くの駅で降りる。
潮の匂いがした。
駅から少し歩く。
やがて、建物の向こうに青い海が見えた。
「……海だ」
思わず声が出る。
それだけで、少し笑ってしまった。
四年前。
悠真と「いつか海に行こう」と話した。
そのときは、二人で見た未来の一部だった。
でも今日は違う。
一人だ。
隣に悠真はいない。
それなのに、不思議と寂しさだけではなかった。
葵は砂浜まで歩いた。
靴を脱ぐ。
波が足元まで近づいてくる。
冷たい。
「……気持ちいい」
思わず笑った。
子どものようだと思った。
でも、そんなことを気にする必要もなかった。
誰かに見せるために来たわけではない。
写真を撮って送るためでもない。
ただ、自分が見たかった。
自分が感じたかった。
それだけだった。
しばらく海を眺めていると、スマートフォンが震えた。
悠真からだった。
『今日は何してる?』
葵は画面を見つめる。
少し迷ってから、写真を一枚撮った。
海。
水平線。
青い空。
それを送る。
『海に来てる』
すぐには返信がなかった。
しばらくして、
『一人で?』
と届く。
『うん』
『急だな』
『昨日決めたの』
『そうなんだ』
そこで会話が途切れた。
葵はスマートフォンをしまった。
もっと何か聞いてほしいとは思わなかった。
「誰と来たの?」と聞かれたわけでもない。
「楽しんで」と言われたわけでもない。
それでいい。
自分のために来たのだから。
砂浜を歩いていると、小さな売店が目に入った。
葵はそこで温かい飲み物を買った。
海を見ながらベンチに座る。
隣には、家族連れがいた。
少し離れたところには、友達同士で写真を撮っている人たちがいる。
恋人らしい二人が、波打ち際を歩いている。
以前の自分なら、きっと悠真を思い出していた。
──悠真と来たら、どんな顔をするだろう。
──一緒に写真を撮りたい。
──今度は二人で来よう。
そんなことを考えていたと思う。
でも今日は違った。
もちろん、悠真のことは思い出す。
四年間付き合っていたのだから、当たり前だ。
でも、その記憶に引っ張られることはなかった。
悠真との思い出は、ここにいる自分を邪魔しなかった。
むしろ。
海を見ながら、葵は思った。
あの頃の私が「いつか」と言ったから。
今日、ここへ来ることができた。
約束は叶わなかった。
でも、約束した時間まで無駄だったわけじゃない。
帰りの電車。
窓の外が少しずつ夕暮れに染まっていく。
葵は、今日撮った写真を見返した。
海の写真が何枚かある。
どれも、少しずつ違う。
波。
空。
砂浜。
夕方の光。
その中から一枚だけ選んだ。
悠真に送ったものとは違う写真だった。
自分の手元と、遠くに見える海が写っている。
葵はその写真を、スマートフォンのアルバムに保存した。
誰にも送らなかった。
それが少し嬉しかった。
以前は、何かを経験すると、誰かに共有したくなった。
特に悠真には、何でも話したかった。
でも今は。
自分だけが知っている今日があってもいい。
そう思えた。
家に帰ると、夜になっていた。
玄関で靴を脱ぐ。
静かな部屋。
昨日までなら、少し寂しく感じたかもしれない。
でも今日は違った。
海で見た景色が、まだ目の奥に残っている。
葵は手帳を開いた。
「海」の文字に小さく丸をつける。
そして、その下に新しく書いた。
京都。
ペンを置く。
まだ日付は決めない。
でも、今度は「いつか」ではなく、「行ってみたい」と思った。
葵は手帳を閉じた。
窓の外を見る。
四年前の自分は、未来を悠真と一緒に描いていた。
今の自分は、一人で未来を描き始めている。
それは、悠真を忘れることではない。
四年間を否定することでもない。
ただ。
これから先の時間に、自分自身もちゃんといる。
そのことに、葵は少しずつ気づき始めていた。
葵は、いつもより少し早く目を覚ました。
カーテンを開ける。
空は晴れていた。
窓から入ってくる風が、少しだけ涼しい。
今日は海へ行く。
昨夜、何度も手帳を開いて確認した予定だった。
誰かと約束したわけではない。
悠真にも言っていない。
ただ、自分で決めた。
それだけのことなのに、少しだけ緊張していた。
「……一人で海なんて、いつ以来だろう」
考えてみる。
すぐには思い出せなかった。
そもそも、悠真と付き合ってからは、休日の予定の多くを二人で決めていた。
海に行こう。
旅行しよう。
温泉に行こう。
そう言いながら、いつも「いつか」のままになっていた。
今日は、その「いつか」を一つだけ終わらせる。
葵は鞄を持った。
電車を乗り継ぎ、海の近くの駅で降りる。
潮の匂いがした。
駅から少し歩く。
やがて、建物の向こうに青い海が見えた。
「……海だ」
思わず声が出る。
それだけで、少し笑ってしまった。
四年前。
悠真と「いつか海に行こう」と話した。
そのときは、二人で見た未来の一部だった。
でも今日は違う。
一人だ。
隣に悠真はいない。
それなのに、不思議と寂しさだけではなかった。
葵は砂浜まで歩いた。
靴を脱ぐ。
波が足元まで近づいてくる。
冷たい。
「……気持ちいい」
思わず笑った。
子どものようだと思った。
でも、そんなことを気にする必要もなかった。
誰かに見せるために来たわけではない。
写真を撮って送るためでもない。
ただ、自分が見たかった。
自分が感じたかった。
それだけだった。
しばらく海を眺めていると、スマートフォンが震えた。
悠真からだった。
『今日は何してる?』
葵は画面を見つめる。
少し迷ってから、写真を一枚撮った。
海。
水平線。
青い空。
それを送る。
『海に来てる』
すぐには返信がなかった。
しばらくして、
『一人で?』
と届く。
『うん』
『急だな』
『昨日決めたの』
『そうなんだ』
そこで会話が途切れた。
葵はスマートフォンをしまった。
もっと何か聞いてほしいとは思わなかった。
「誰と来たの?」と聞かれたわけでもない。
「楽しんで」と言われたわけでもない。
それでいい。
自分のために来たのだから。
砂浜を歩いていると、小さな売店が目に入った。
葵はそこで温かい飲み物を買った。
海を見ながらベンチに座る。
隣には、家族連れがいた。
少し離れたところには、友達同士で写真を撮っている人たちがいる。
恋人らしい二人が、波打ち際を歩いている。
以前の自分なら、きっと悠真を思い出していた。
──悠真と来たら、どんな顔をするだろう。
──一緒に写真を撮りたい。
──今度は二人で来よう。
そんなことを考えていたと思う。
でも今日は違った。
もちろん、悠真のことは思い出す。
四年間付き合っていたのだから、当たり前だ。
でも、その記憶に引っ張られることはなかった。
悠真との思い出は、ここにいる自分を邪魔しなかった。
むしろ。
海を見ながら、葵は思った。
あの頃の私が「いつか」と言ったから。
今日、ここへ来ることができた。
約束は叶わなかった。
でも、約束した時間まで無駄だったわけじゃない。
帰りの電車。
窓の外が少しずつ夕暮れに染まっていく。
葵は、今日撮った写真を見返した。
海の写真が何枚かある。
どれも、少しずつ違う。
波。
空。
砂浜。
夕方の光。
その中から一枚だけ選んだ。
悠真に送ったものとは違う写真だった。
自分の手元と、遠くに見える海が写っている。
葵はその写真を、スマートフォンのアルバムに保存した。
誰にも送らなかった。
それが少し嬉しかった。
以前は、何かを経験すると、誰かに共有したくなった。
特に悠真には、何でも話したかった。
でも今は。
自分だけが知っている今日があってもいい。
そう思えた。
家に帰ると、夜になっていた。
玄関で靴を脱ぐ。
静かな部屋。
昨日までなら、少し寂しく感じたかもしれない。
でも今日は違った。
海で見た景色が、まだ目の奥に残っている。
葵は手帳を開いた。
「海」の文字に小さく丸をつける。
そして、その下に新しく書いた。
京都。
ペンを置く。
まだ日付は決めない。
でも、今度は「いつか」ではなく、「行ってみたい」と思った。
葵は手帳を閉じた。
窓の外を見る。
四年前の自分は、未来を悠真と一緒に描いていた。
今の自分は、一人で未来を描き始めている。
それは、悠真を忘れることではない。
四年間を否定することでもない。
ただ。
これから先の時間に、自分自身もちゃんといる。
そのことに、葵は少しずつ気づき始めていた。



