月曜日の朝。
葵は、いつもの時間に会社へ向かった。
見慣れた駅。
見慣れた道。
見慣れたビル。
何も変わっていない。
けれど、自分の中には小さな変化があった。
席に着いてパソコンを立ち上げる。
メールを確認する。
いつも通りの一日が始まる。
「高橋さん、おはようございます」
「おはよう」
後輩の真奈が声をかけてきた。
「土曜日、ありがとうございました。資料、すごく助かりました」
「ううん。間に合ってよかった」
葵は笑った。
そして、ふと気づく。
自分は以前なら、ここから仕事の話を延々と続けていた。
でも今日は違った。
「真奈ちゃん、昨日休みだったよね。何してたの?」
「え?」
「何か予定あるって言ってなかった?」
「あ、覚えてたんですか?」
「うん」
真奈が嬉しそうに笑う。
「友達と映画に行ってました」
「何見たの?」
そんな話をしながら、葵は少し不思議な気持ちになった。
仕事以外の話をすることが、こんなに新鮮だったなんて。
午前中の打ち合わせ。
新しい広告企画について、チームで意見を出し合う。
以前の葵なら、最初に方向性を決めて、そこへ全員を引っ張っていった。
自分が一番長く考えて。
自分が一番準備して。
自分が最後まで抱える。
それが一番早いと思っていた。
「この案、どう思う?」
今日は後輩に尋ねた。
「私ですか?」
「うん。気になったところがあれば言って」
真奈は少し戸惑いながらも、意見を話し始めた。
途中で何度か言葉に詰まった。
葵は急かさずに待った。
「なるほど」
聞き終えてから、葵は頷いた。
「その視点、私にはなかった」
「本当ですか?」
「うん。じゃあ、そこをもう少し広げてみよう」
真奈の表情が明るくなる。
その顔を見て、葵は思った。
全部、自分がやらなくてもいいのかもしれない。
誰かに任せること。
誰かの考えを聞くこと。
それは、仕事を手放すことではなかった。
昼休み。
葵は一人で会社を出た。
いつもならデスクで昼食を済ませる。
メールを確認しながら、片手で食べることも多かった。
今日は近くのカフェに入った。
窓際の席に座る。
注文したランチが運ばれてくる。
スマートフォンをテーブルに置いた。
けれど、すぐには触らなかった。
窓の外を眺める。
通りを歩く人。
自転車。
信号を待つ人。
何でもない景色だった。
それなのに、以前より鮮明に見えた。
自分はずっと、目の前にあるものを見ていなかったのかもしれない。
仕事の先。
未来の予定。
次にやるべきこと。
そんなものばかり見ていた。
今ここにいる自分を、置き去りにして。
午後三時。
一本の電話が入った。
取引先からの修正依頼だった。
以前なら、その場ですべて対応しようとしただろう。
けれど今日は違った。
「確認します。明日の午前中までにお返しします」
電話を切る。
真奈が驚いた顔をした。
「今日中じゃなくて大丈夫なんですか?」
「うん。急ぎじゃないから」
「高橋さん、いつも今日中にやってるから……」
葵は少し笑った。
「私も、今日中にやらないと落ち着かない時期があったの」
「今は?」
「今は、明日でも間に合うことは、明日にする」
口にしてみると、思った以上に簡単なことだった。
でも、葵にとっては大きな変化だった。
仕事を終えたのは、午後七時だった。
以前なら、ここからもう一時間、二時間と残っていただろう。
今日はパソコンを閉じた。
「お先に失礼します」
そう言って会社を出る。
外はまだ明るかった。
駅へ向かう途中、スマートフォンが震えた。
悠真からだった。
『今日は仕事?』
葵は少し考えてから返信する。
『うん。でも、もう終わったよ』
『早いな』
『普通だよ』
『そうだったっけ?』
思わず笑ってしまう。
確かに、以前の自分なら「普通」ではなかった。
しばらくして、悠真からもう一通届いた。
『ちゃんと休んでる?』
葵は画面を見つめた。
昔なら、その一言だけで胸が締めつけられたかもしれない。
でも今は違った。
『うん。少しずつね』
送信する。
しばらくして、返事が来た。
『それならよかった』
短い言葉だった。
葵はスマートフォンをバッグにしまった。
そして、駅とは反対方向に少しだけ歩いた。
昨日買った本を持って、帰りにどこかで読もうと思った。
急いで帰る必要はない。
明日の仕事もある。
でも、今日という日は今日しかない。
そう思えるようになったことが、少し嬉しかった。
家に帰ってから、葵は机の上の紙を開いた。
昨日書いた「一人でも行ってみたい場所」。
一番上に書いた「海」を見つめる。
ペンを持つ。
その下に、日付を書いた。
来月の土曜日。
そして、その横に小さく丸をつけた。
「……決めた」
海へ行く。
一人で。
誰かを待つためではない。
誰かと行く約束をするためでもない。
ただ、自分が行きたいから。
窓の外を見る。
夜の街は静かだった。
悠真のいる街とは違う。
でも、ここには自分の生活がある。
仕事だけでもない。
恋愛だけでもない。
誰かのためだけでもない。
その全部の中に、自分がいる。
葵は、予定を書き込んだ手帳を閉じた。
小さな予定だった。
けれど、それは久しぶりに自分で選んだ予定だった。
葵は、いつもの時間に会社へ向かった。
見慣れた駅。
見慣れた道。
見慣れたビル。
何も変わっていない。
けれど、自分の中には小さな変化があった。
席に着いてパソコンを立ち上げる。
メールを確認する。
いつも通りの一日が始まる。
「高橋さん、おはようございます」
「おはよう」
後輩の真奈が声をかけてきた。
「土曜日、ありがとうございました。資料、すごく助かりました」
「ううん。間に合ってよかった」
葵は笑った。
そして、ふと気づく。
自分は以前なら、ここから仕事の話を延々と続けていた。
でも今日は違った。
「真奈ちゃん、昨日休みだったよね。何してたの?」
「え?」
「何か予定あるって言ってなかった?」
「あ、覚えてたんですか?」
「うん」
真奈が嬉しそうに笑う。
「友達と映画に行ってました」
「何見たの?」
そんな話をしながら、葵は少し不思議な気持ちになった。
仕事以外の話をすることが、こんなに新鮮だったなんて。
午前中の打ち合わせ。
新しい広告企画について、チームで意見を出し合う。
以前の葵なら、最初に方向性を決めて、そこへ全員を引っ張っていった。
自分が一番長く考えて。
自分が一番準備して。
自分が最後まで抱える。
それが一番早いと思っていた。
「この案、どう思う?」
今日は後輩に尋ねた。
「私ですか?」
「うん。気になったところがあれば言って」
真奈は少し戸惑いながらも、意見を話し始めた。
途中で何度か言葉に詰まった。
葵は急かさずに待った。
「なるほど」
聞き終えてから、葵は頷いた。
「その視点、私にはなかった」
「本当ですか?」
「うん。じゃあ、そこをもう少し広げてみよう」
真奈の表情が明るくなる。
その顔を見て、葵は思った。
全部、自分がやらなくてもいいのかもしれない。
誰かに任せること。
誰かの考えを聞くこと。
それは、仕事を手放すことではなかった。
昼休み。
葵は一人で会社を出た。
いつもならデスクで昼食を済ませる。
メールを確認しながら、片手で食べることも多かった。
今日は近くのカフェに入った。
窓際の席に座る。
注文したランチが運ばれてくる。
スマートフォンをテーブルに置いた。
けれど、すぐには触らなかった。
窓の外を眺める。
通りを歩く人。
自転車。
信号を待つ人。
何でもない景色だった。
それなのに、以前より鮮明に見えた。
自分はずっと、目の前にあるものを見ていなかったのかもしれない。
仕事の先。
未来の予定。
次にやるべきこと。
そんなものばかり見ていた。
今ここにいる自分を、置き去りにして。
午後三時。
一本の電話が入った。
取引先からの修正依頼だった。
以前なら、その場ですべて対応しようとしただろう。
けれど今日は違った。
「確認します。明日の午前中までにお返しします」
電話を切る。
真奈が驚いた顔をした。
「今日中じゃなくて大丈夫なんですか?」
「うん。急ぎじゃないから」
「高橋さん、いつも今日中にやってるから……」
葵は少し笑った。
「私も、今日中にやらないと落ち着かない時期があったの」
「今は?」
「今は、明日でも間に合うことは、明日にする」
口にしてみると、思った以上に簡単なことだった。
でも、葵にとっては大きな変化だった。
仕事を終えたのは、午後七時だった。
以前なら、ここからもう一時間、二時間と残っていただろう。
今日はパソコンを閉じた。
「お先に失礼します」
そう言って会社を出る。
外はまだ明るかった。
駅へ向かう途中、スマートフォンが震えた。
悠真からだった。
『今日は仕事?』
葵は少し考えてから返信する。
『うん。でも、もう終わったよ』
『早いな』
『普通だよ』
『そうだったっけ?』
思わず笑ってしまう。
確かに、以前の自分なら「普通」ではなかった。
しばらくして、悠真からもう一通届いた。
『ちゃんと休んでる?』
葵は画面を見つめた。
昔なら、その一言だけで胸が締めつけられたかもしれない。
でも今は違った。
『うん。少しずつね』
送信する。
しばらくして、返事が来た。
『それならよかった』
短い言葉だった。
葵はスマートフォンをバッグにしまった。
そして、駅とは反対方向に少しだけ歩いた。
昨日買った本を持って、帰りにどこかで読もうと思った。
急いで帰る必要はない。
明日の仕事もある。
でも、今日という日は今日しかない。
そう思えるようになったことが、少し嬉しかった。
家に帰ってから、葵は机の上の紙を開いた。
昨日書いた「一人でも行ってみたい場所」。
一番上に書いた「海」を見つめる。
ペンを持つ。
その下に、日付を書いた。
来月の土曜日。
そして、その横に小さく丸をつけた。
「……決めた」
海へ行く。
一人で。
誰かを待つためではない。
誰かと行く約束をするためでもない。
ただ、自分が行きたいから。
窓の外を見る。
夜の街は静かだった。
悠真のいる街とは違う。
でも、ここには自分の生活がある。
仕事だけでもない。
恋愛だけでもない。
誰かのためだけでもない。
その全部の中に、自分がいる。
葵は、予定を書き込んだ手帳を閉じた。
小さな予定だった。
けれど、それは久しぶりに自分で選んだ予定だった。



