東京に戻る電車の中で、葵は窓の外を眺めていた。
悠真の暮らす街が、少しずつ遠ざかっていく。
昨日までなら、この景色を見ながら寂しさばかり考えていたかもしれない。
でも今日は、少し違った。
パン屋のこと。
川沿いの道。
悠真の父親の笑顔。
そして、悠真が今そこで暮らしていること。
頭の中には、そんな何気ない場面が残っていた。
恋人として知っているつもりだった人には、知らない時間があった。
そして、自分にも。
「……私も、知らないことだらけだな」
小さく呟く。
電車の中には、誰も反応しない。
葵は少し笑った。
東京に戻ったのは、夕方だった。
駅を出ると、見慣れた街の音が戻ってくる。
人の声。
車の音。
信号が変わる音。
いつもの東京。
その中を歩きながら、葵はふと足を止めた。
いつもなら、駅から真っ直ぐ家へ帰る。
けれど今日は、少し遠回りをした。
駅前の小さな書店に入る。
昨日、悠真が昔から本屋によく行っていたという話をしていたからだった。
特に欲しい本があったわけではない。
ただ、なんとなく本棚を眺めたかった。
仕事とは関係のない本。
広告の資料でも、企画書でもない本。
しばらく歩いて、一冊のエッセイ集を手に取った。
表紙をめくる。
最初の数ページを読んでみる。
知らない誰かの暮らしについて書かれていた。
朝の散歩。
休日の過ごし方。
ひとりで食べる昼食。
そんな、何でもない日常。
葵はその本を買った。
家に着いて、バッグを置く。
スマートフォンを見ると、会社からいくつか通知が入っていた。
月曜日の打ち合わせについての連絡。
以前なら、帰宅した瞬間に確認していただろう。
返信できるものは返信して。
資料を開いて。
明日の準備をして。
気づけば夜になっている。
けれど今日は、スマートフォンを伏せた。
「……明日でいい」
そう呟いた。
自分でも少し驚いた。
そんなことを言えるようになったのだ。
キッチンに立って、冷蔵庫を開ける。
何か作ろうかと思ったけれど、面倒になった。
代わりに近所の惣菜を買いに出る。
帰り道、空を見上げる。
東京の空は、悠真の街で見た空より狭い気がした。
でも。
ここも自分が暮らしてきた場所だ。
四年間、悠真と過ごした時間だけではない。
仕事をして。
友達と笑って。
一人で泣いた夜もあった。
この街にも、自分の時間がある。
夕食を終えると、葵は買ってきた本を開いた。
静かな部屋。
テレビもつけない。
スマートフォンも見ない。
ただ、本を読む。
しばらくすると、悠真からメッセージが届いた。
『無事着いた?』
葵は画面を見つめた。
少し考えてから返信する。
『うん。今、家』
すぐに返事が来る。
『今日はありがとう』
『こっちこそ。お父さんにもよろしく伝えて』
『分かった』
そこで会話が終わる。
以前なら、もっと何か言おうとした。
寂しい。
会いたい。
次はいつ会える?
そんな言葉を探したかもしれない。
でも今日は、スマートフォンを置いた。
会話が終わったことが、以前ほど怖くなかった。
悠真との時間が終わっても、自分の時間は続いていく。
それを少しだけ実感していた。
寝る前。
葵は机の上に、一枚の紙を置いた。
以前、悠真と話していた「行きたい場所」のメモだった。
海。
温泉。
京都。
北海道。
海外。
四年前の自分は、これを悠真と一緒に行く未来として考えていた。
でも今は、少し違う。
ペンを持つ。
その下に、新しく書き足した。
──一人でも行ってみたい場所。
少し考えてから、最初の一つを書いた。
海。
書いたあと、葵は笑った。
「……行ってみようかな」
誰かと約束した未来ではない。
仕事が落ち着いたら、でもない。
いつか、でもない。
自分が行きたいと思ったから行く。
それだけのことだった。
窓の外では、東京の夜が静かに光っている。
悠真は今、遠い街で暮らしている。
それでも、葵の一日はここにある。
悠真と過ごした四年間も、自分がこれから過ごす時間も。
どちらも、自分の人生なのだ。
葵は紙を折りたたんだ。
そして、明日のために眠った。
少しだけ。
自分の人生を、自分で選べるようになった気がした。
悠真の暮らす街が、少しずつ遠ざかっていく。
昨日までなら、この景色を見ながら寂しさばかり考えていたかもしれない。
でも今日は、少し違った。
パン屋のこと。
川沿いの道。
悠真の父親の笑顔。
そして、悠真が今そこで暮らしていること。
頭の中には、そんな何気ない場面が残っていた。
恋人として知っているつもりだった人には、知らない時間があった。
そして、自分にも。
「……私も、知らないことだらけだな」
小さく呟く。
電車の中には、誰も反応しない。
葵は少し笑った。
東京に戻ったのは、夕方だった。
駅を出ると、見慣れた街の音が戻ってくる。
人の声。
車の音。
信号が変わる音。
いつもの東京。
その中を歩きながら、葵はふと足を止めた。
いつもなら、駅から真っ直ぐ家へ帰る。
けれど今日は、少し遠回りをした。
駅前の小さな書店に入る。
昨日、悠真が昔から本屋によく行っていたという話をしていたからだった。
特に欲しい本があったわけではない。
ただ、なんとなく本棚を眺めたかった。
仕事とは関係のない本。
広告の資料でも、企画書でもない本。
しばらく歩いて、一冊のエッセイ集を手に取った。
表紙をめくる。
最初の数ページを読んでみる。
知らない誰かの暮らしについて書かれていた。
朝の散歩。
休日の過ごし方。
ひとりで食べる昼食。
そんな、何でもない日常。
葵はその本を買った。
家に着いて、バッグを置く。
スマートフォンを見ると、会社からいくつか通知が入っていた。
月曜日の打ち合わせについての連絡。
以前なら、帰宅した瞬間に確認していただろう。
返信できるものは返信して。
資料を開いて。
明日の準備をして。
気づけば夜になっている。
けれど今日は、スマートフォンを伏せた。
「……明日でいい」
そう呟いた。
自分でも少し驚いた。
そんなことを言えるようになったのだ。
キッチンに立って、冷蔵庫を開ける。
何か作ろうかと思ったけれど、面倒になった。
代わりに近所の惣菜を買いに出る。
帰り道、空を見上げる。
東京の空は、悠真の街で見た空より狭い気がした。
でも。
ここも自分が暮らしてきた場所だ。
四年間、悠真と過ごした時間だけではない。
仕事をして。
友達と笑って。
一人で泣いた夜もあった。
この街にも、自分の時間がある。
夕食を終えると、葵は買ってきた本を開いた。
静かな部屋。
テレビもつけない。
スマートフォンも見ない。
ただ、本を読む。
しばらくすると、悠真からメッセージが届いた。
『無事着いた?』
葵は画面を見つめた。
少し考えてから返信する。
『うん。今、家』
すぐに返事が来る。
『今日はありがとう』
『こっちこそ。お父さんにもよろしく伝えて』
『分かった』
そこで会話が終わる。
以前なら、もっと何か言おうとした。
寂しい。
会いたい。
次はいつ会える?
そんな言葉を探したかもしれない。
でも今日は、スマートフォンを置いた。
会話が終わったことが、以前ほど怖くなかった。
悠真との時間が終わっても、自分の時間は続いていく。
それを少しだけ実感していた。
寝る前。
葵は机の上に、一枚の紙を置いた。
以前、悠真と話していた「行きたい場所」のメモだった。
海。
温泉。
京都。
北海道。
海外。
四年前の自分は、これを悠真と一緒に行く未来として考えていた。
でも今は、少し違う。
ペンを持つ。
その下に、新しく書き足した。
──一人でも行ってみたい場所。
少し考えてから、最初の一つを書いた。
海。
書いたあと、葵は笑った。
「……行ってみようかな」
誰かと約束した未来ではない。
仕事が落ち着いたら、でもない。
いつか、でもない。
自分が行きたいと思ったから行く。
それだけのことだった。
窓の外では、東京の夜が静かに光っている。
悠真は今、遠い街で暮らしている。
それでも、葵の一日はここにある。
悠真と過ごした四年間も、自分がこれから過ごす時間も。
どちらも、自分の人生なのだ。
葵は紙を折りたたんだ。
そして、明日のために眠った。
少しだけ。
自分の人生を、自分で選べるようになった気がした。



