翌朝。
葵は、目覚ましが鳴る少し前に目を覚ました。
カーテンの隙間から差し込む光が、部屋の床を細く照らしている。
昨日、悠真と歩いた川沿いの道を思い出した。
パン屋のこと。
散歩道のこと。
考え事をするときに、悠真があの場所を歩いていること。
どれも、四年間付き合っていた自分が知らなかったことだった。
それなのに、不思議と胸は痛まなかった。
むしろ、もっと聞いてみたいと思っていた。
スマートフォンを見る。
悠真からメッセージが届いていた。
『起きてる?』
葵は少し笑って返信した。
『起きてるよ』
すぐに返事が来る。
『じゃあ、朝飯食べに行かない?』
『行く』
短いやり取り。
けれど、それが少し嬉しかった。
「眠そう」
待ち合わせ場所に現れた悠真は、開口一番そう言った。
「そっちこそ」
「俺はいつもこんな感じ」
「じゃあ、私も今日からこんな感じにする」
「何それ」
二人で笑う。
昨日までより、少しだけ自然だった。
悠真が連れて行ったのは、駅から少し離れた食堂だった。
「ここ、朝早くからやってるんだ」
「よく来るの?」
「父さんと来ることもある」
葵は箸を持つ手を止めた。
「お父さんと?」
「うん」
「……最近?」
「最近も」
悠真は味噌汁を一口飲んだ。
「父さん、前より外に出なくなったから。天気がいい日は、なるべく連れ出すようにしてる」
淡々とした口調だった。
でも、その言葉の奥にあるものを、葵は少しだけ感じ取った。
「病院は?」
「定期的に行ってる。今のところは落ち着いてるよ」
「そっか」
葵はそれ以上、聞かなかった。
昨日までなら、もっと聞いていたかもしれない。
病状は。
いつから。
どれくらい大変なのか。
でも、今日は聞かないという選択もできた。
悠真が話したくなったら、話してくれる。
そう思えた。
「葵」
「ん?」
「父さんに会ってみる?」
一瞬、言葉を失った。
「……いいの?」
「うん。たぶん喜ぶ」
少しだけ緊張した。
以前にも会ったことはある。
けれど、そのときの自分は「悠真の恋人」として訪れていた。
今日は違う。
悠真が今暮らしている場所で。
今の悠真の生活の中で。
父親に会う。
その意味を、葵は考えていた。
悠真の家に着くと、玄関先で彼の父親が迎えてくれた。
「お久しぶりです」
「葵ちゃんか。久しぶりだな」
穏やかな笑顔だった。
昔と変わらない。
そう思ったあとで、葵は少し違うことに気づいた。
悠真が自然に父親の歩く速度に合わせている。
玄関の段差では、何も言わずに手を差し出す。
父親が「大丈夫だ」と笑えば、少しだけ手を引く。
そんな何気ない動作を見ていると、昨日まで知らなかった悠真の姿が、またひとつ増えた。
「悠真は昔から変わらないだろ?」
父親が笑う。
「そうですか?」
「昔から、誰かのことばかり気にするんだ」
「父さん、それは言いすぎ」
「本当のことだろ」
葵は思わず笑った。
悠真が少し困った顔をする。
その表情を見て、葵も笑った。
こんな時間を過ごすのは、いつ以来だろう。
仕事の話もない。
将来の話を決める必要もない。
ただ、目の前にいる人たちと笑っている。
それだけだった。
帰り道。
二人は並んで歩いていた。
「今日はありがとう」
葵が言う。
「何が?」
「お父さんに会わせてくれて」
「別に」
「でも、嬉しかった」
悠真は少し黙った。
「……俺も」
「何が?」
「葵が来てくれて」
その言葉に、葵は前を向いた。
胸の奥が、少しだけ苦しくなる。
こういう瞬間があるから、離れたくないと思ってしまう。
でも同時に、分かっていた。
悠真には悠真の暮らしがある。
家族がいて。
仕事があって。
この街で過ごす時間がある。
自分にも、自分の暮らしがある。
東京での仕事。
自分の時間。
これから見つけていきたいもの。
昔は、それらを全部ひとつにしようとしていた。
二人の未来を決めれば、それでいいと思っていた。
でも今は、少し違う。
「悠真」
「ん?」
「私、昨日からずっと思ってたことがある」
「何?」
「私たち、知らないことがいっぱいあるね」
悠真は笑った。
「四年も付き合ってたのにな」
「うん」
葵も笑う。
「でも……それって、悪いことじゃないのかもしれない」
「どうして?」
「知らないことが残ってるってことは、まだ知れることがあるってことでしょ?」
悠真はしばらく黙っていた。
そして、小さく頷いた。
「そうだな」
それから二人は、しばらく何も話さなかった。
でも、その沈黙は以前ほど苦しくなかった。
駅が近づいてくる。
やがて、葵の帰る時間が来る。
「また連絡する」
悠真が言った。
「うん」
葵は頷いた。
そして、駅へ向かって歩き出した。
振り返る。
悠真はまだそこにいた。
手を振ることもなく、ただ立っている。
葵も手を振らなかった。
ただ、目を合わせた。
それだけで、十分だった。
帰りの電車の中。
窓に映った自分の顔を見ながら、葵は思った。
私は、悠真のことを知らなかった。
でもきっと。
悠真も、私のことを知らない。
仕事に追われていた私。
休日さえ仕事のことを考えていた私。
本当は何をしたかったのか、自分でも分からなかった私。
恋人だから分かってもらえると思って、言葉にしなかったこと。
きっと、彼にもある。
四年間一緒にいたからこそ、分かっていると思い込んでいた。
でも。
二人の間にあったのは、知らないことではなく。
知らないままでも、一緒にいられると思っていたことなのかもしれない。
葵は窓の外を見た。
流れていく景色の向こうに、悠真の暮らす街が遠ざかっていく。
寂しかった。
それでも、昨日までとは少し違う。
ただ失うことを怖がるのではなく。
今の彼を、ちゃんと見ようと思った。
そして。
自分自身のことも、ちゃんと見ようと思った。
葵は、目覚ましが鳴る少し前に目を覚ました。
カーテンの隙間から差し込む光が、部屋の床を細く照らしている。
昨日、悠真と歩いた川沿いの道を思い出した。
パン屋のこと。
散歩道のこと。
考え事をするときに、悠真があの場所を歩いていること。
どれも、四年間付き合っていた自分が知らなかったことだった。
それなのに、不思議と胸は痛まなかった。
むしろ、もっと聞いてみたいと思っていた。
スマートフォンを見る。
悠真からメッセージが届いていた。
『起きてる?』
葵は少し笑って返信した。
『起きてるよ』
すぐに返事が来る。
『じゃあ、朝飯食べに行かない?』
『行く』
短いやり取り。
けれど、それが少し嬉しかった。
「眠そう」
待ち合わせ場所に現れた悠真は、開口一番そう言った。
「そっちこそ」
「俺はいつもこんな感じ」
「じゃあ、私も今日からこんな感じにする」
「何それ」
二人で笑う。
昨日までより、少しだけ自然だった。
悠真が連れて行ったのは、駅から少し離れた食堂だった。
「ここ、朝早くからやってるんだ」
「よく来るの?」
「父さんと来ることもある」
葵は箸を持つ手を止めた。
「お父さんと?」
「うん」
「……最近?」
「最近も」
悠真は味噌汁を一口飲んだ。
「父さん、前より外に出なくなったから。天気がいい日は、なるべく連れ出すようにしてる」
淡々とした口調だった。
でも、その言葉の奥にあるものを、葵は少しだけ感じ取った。
「病院は?」
「定期的に行ってる。今のところは落ち着いてるよ」
「そっか」
葵はそれ以上、聞かなかった。
昨日までなら、もっと聞いていたかもしれない。
病状は。
いつから。
どれくらい大変なのか。
でも、今日は聞かないという選択もできた。
悠真が話したくなったら、話してくれる。
そう思えた。
「葵」
「ん?」
「父さんに会ってみる?」
一瞬、言葉を失った。
「……いいの?」
「うん。たぶん喜ぶ」
少しだけ緊張した。
以前にも会ったことはある。
けれど、そのときの自分は「悠真の恋人」として訪れていた。
今日は違う。
悠真が今暮らしている場所で。
今の悠真の生活の中で。
父親に会う。
その意味を、葵は考えていた。
悠真の家に着くと、玄関先で彼の父親が迎えてくれた。
「お久しぶりです」
「葵ちゃんか。久しぶりだな」
穏やかな笑顔だった。
昔と変わらない。
そう思ったあとで、葵は少し違うことに気づいた。
悠真が自然に父親の歩く速度に合わせている。
玄関の段差では、何も言わずに手を差し出す。
父親が「大丈夫だ」と笑えば、少しだけ手を引く。
そんな何気ない動作を見ていると、昨日まで知らなかった悠真の姿が、またひとつ増えた。
「悠真は昔から変わらないだろ?」
父親が笑う。
「そうですか?」
「昔から、誰かのことばかり気にするんだ」
「父さん、それは言いすぎ」
「本当のことだろ」
葵は思わず笑った。
悠真が少し困った顔をする。
その表情を見て、葵も笑った。
こんな時間を過ごすのは、いつ以来だろう。
仕事の話もない。
将来の話を決める必要もない。
ただ、目の前にいる人たちと笑っている。
それだけだった。
帰り道。
二人は並んで歩いていた。
「今日はありがとう」
葵が言う。
「何が?」
「お父さんに会わせてくれて」
「別に」
「でも、嬉しかった」
悠真は少し黙った。
「……俺も」
「何が?」
「葵が来てくれて」
その言葉に、葵は前を向いた。
胸の奥が、少しだけ苦しくなる。
こういう瞬間があるから、離れたくないと思ってしまう。
でも同時に、分かっていた。
悠真には悠真の暮らしがある。
家族がいて。
仕事があって。
この街で過ごす時間がある。
自分にも、自分の暮らしがある。
東京での仕事。
自分の時間。
これから見つけていきたいもの。
昔は、それらを全部ひとつにしようとしていた。
二人の未来を決めれば、それでいいと思っていた。
でも今は、少し違う。
「悠真」
「ん?」
「私、昨日からずっと思ってたことがある」
「何?」
「私たち、知らないことがいっぱいあるね」
悠真は笑った。
「四年も付き合ってたのにな」
「うん」
葵も笑う。
「でも……それって、悪いことじゃないのかもしれない」
「どうして?」
「知らないことが残ってるってことは、まだ知れることがあるってことでしょ?」
悠真はしばらく黙っていた。
そして、小さく頷いた。
「そうだな」
それから二人は、しばらく何も話さなかった。
でも、その沈黙は以前ほど苦しくなかった。
駅が近づいてくる。
やがて、葵の帰る時間が来る。
「また連絡する」
悠真が言った。
「うん」
葵は頷いた。
そして、駅へ向かって歩き出した。
振り返る。
悠真はまだそこにいた。
手を振ることもなく、ただ立っている。
葵も手を振らなかった。
ただ、目を合わせた。
それだけで、十分だった。
帰りの電車の中。
窓に映った自分の顔を見ながら、葵は思った。
私は、悠真のことを知らなかった。
でもきっと。
悠真も、私のことを知らない。
仕事に追われていた私。
休日さえ仕事のことを考えていた私。
本当は何をしたかったのか、自分でも分からなかった私。
恋人だから分かってもらえると思って、言葉にしなかったこと。
きっと、彼にもある。
四年間一緒にいたからこそ、分かっていると思い込んでいた。
でも。
二人の間にあったのは、知らないことではなく。
知らないままでも、一緒にいられると思っていたことなのかもしれない。
葵は窓の外を見た。
流れていく景色の向こうに、悠真の暮らす街が遠ざかっていく。
寂しかった。
それでも、昨日までとは少し違う。
ただ失うことを怖がるのではなく。
今の彼を、ちゃんと見ようと思った。
そして。
自分自身のことも、ちゃんと見ようと思った。



