土曜日の朝。
葵は、いつもより少しだけ早く目を覚ました。
カーテンを開けると、柔らかな光が部屋に差し込んでくる。
以前なら、休日でも目覚ましが鳴る前に仕事のことを考えていた。
メールは来ていないだろうか。
月曜日の打ち合わせに必要な資料は揃っているだろうか。
そんなことばかり考えていた。
けれど今日は、違った。
スマートフォンを手に取る。
悠真からメッセージが届いていた。
『昼くらいに、駅の近くまで来られる?』
葵は少しだけ笑った。
『うん。行く』
短い返信を送る。
それだけなのに、不思議と心が軽かった。
「今日はどこに行くの?」
駅で待ち合わせると、葵は尋ねた。
「特に決めてない」
「え?」
「いつも通りに過ごそうかなって」
悠真はそう言って歩き出した。
「いつも通り?」
「うん。俺が普段行くところとか」
その言葉に、葵は少し驚いた。
以前この街を訪れたときは、二人で過去の話をした。
昔のこと。
二人が付き合い始めた頃のこと。
これからのこと。
でも今日は違う。
悠真が今、ここでどう暮らしているのか。
それを知るための時間だった。
「まず、昼飯」
「そこから?」
「腹減ってるから」
あまりにも悠真らしい答えに、葵は笑った。
「変わらないね」
「何が?」
「そういうところ」
「四年も付き合ってたんだから、知ってるだろ」
「……うん」
葵は少しだけ間を置いた。
「でも、知らないことも多かったみたい」
悠真は何も言わなかった。
ただ、歩く速度を少しだけ緩めた。
昼食を終えたあと、二人は商店街を歩いた。
悠真が立ち止まったのは、小さなパン屋だった。
「ここ、よく来るの?」
「うん。朝、時間があるとき」
「知らなかった」
「言ってなかったから」
「どうして?」
「聞かれなかったからかな」
その言葉に、葵は返事ができなかった。
責めるような口調ではなかった。
だからこそ、胸に残った。
聞かなかった。
知らなかった。
知らないままでも、四年間一緒にいた。
それが悪いことだったのかどうか、葵には分からない。
ただ、自分が思っていたほど、悠真のすべてを知っていたわけではなかったのだと気づいた。
「悠真って、朝はパン派だったんだ」
「そこ?」
「だって知らなかったから」
「じゃあ、今知った」
「うん」
葵は笑った。
悠真も小さく笑った。
それだけの会話だった。
でも、以前の二人なら、こういう何気ない話をもっとしていた気がした。
午後は、悠真がよく歩くという道を二人で歩いた。
川沿いの遊歩道。
ベンチ。
小さな公園。
遠くに見える山。
特別な場所ではない。
観光地でもない。
けれど、悠真にとっては日常の一部だった。
「ここ、毎日歩いてるの?」
「毎日じゃないけど、考え事するときは来る」
「何を考えるの?」
「いろいろ」
「たとえば?」
「仕事のこととか」
「家のこととか?」
「……うん」
悠真が少しだけ前を向いた。
「あと、葵のこと」
葵の足が止まりそうになった。
「私?」
「そう」
「何を考えてたの?」
悠真はすぐには答えなかった。
川の水面を見ながら、ゆっくりと言った。
「どうしたらよかったのかなって」
「……何が?」
「俺たち」
風が吹いた。
葵の髪が揺れる。
悠真はそれ以上、何も言わなかった。
葵も聞かなかった。
今すぐ答えを出す必要はないと思った。
昔なら、答えを求めていたかもしれない。
どうして。
いつから。
何が悪かったの。
でも今は、それだけではない気がしていた。
二人とも、きっと同じように分からないのだ。
いつから少しずつ離れてしまったのか。
どこで何を言えばよかったのか。
何を諦めなければよかったのか。
「私も考えてた」
葵が言った。
「何を?」
「もっと、悠真の話を聞けばよかったなって」
悠真は葵を見る。
「今からでも聞けるよ」
その言葉に、葵は少しだけ笑った。
「うん」
恋人としてではない。
過去を取り戻すためでもない。
ただ、目の前にいる人のことを知るために。
帰り道。
葵はスマートフォンを取り出した。
以前なら、こんな時間になると仕事の連絡を確認していた。
けれど今日は画面を開かなかった。
「見ないの?」
悠真が聞いた。
「今日はいいの」
「仕事?」
「うん。でも、明日でもできるから」
そう言うと、悠真は少しだけ笑った。
「変わったな」
「そうかな」
「うん」
葵は歩きながら考えた。
自分は少しずつ変わっている。
悠真も変わった。
二人が変わったから、今の二人がある。
だからきっと、過去の二人に戻ることはできない。
でも。
過去に戻れないことと、今までの時間が無意味になることは違う。
それだけは、少し分かるようになってきた。
「悠真」
「ん?」
「今日、楽しかった」
「俺も」
「また、こういう時間があってもいいね」
悠真は少し考えてから、頷いた。
「そうだな」
駅へ向かう道を、二人は並んで歩いた。
昔のように手はつながない。
けれど、以前よりも互いの歩幅を気にしていた。
葵はふと思った。
私は、悠真のことを知らなかった。
でも、それを知ったことを、悲しいだけだとは思わなかった。
知らなかったからこそ、今日初めて知れたことがある。
そして、自分自身についても。
知らないまま過ごしてきたことが、まだたくさんある。
これからは、それを少しずつ知っていけばいい。
悠真のことも。
そして、自分のことも。
葵は、いつもより少しだけ早く目を覚ました。
カーテンを開けると、柔らかな光が部屋に差し込んでくる。
以前なら、休日でも目覚ましが鳴る前に仕事のことを考えていた。
メールは来ていないだろうか。
月曜日の打ち合わせに必要な資料は揃っているだろうか。
そんなことばかり考えていた。
けれど今日は、違った。
スマートフォンを手に取る。
悠真からメッセージが届いていた。
『昼くらいに、駅の近くまで来られる?』
葵は少しだけ笑った。
『うん。行く』
短い返信を送る。
それだけなのに、不思議と心が軽かった。
「今日はどこに行くの?」
駅で待ち合わせると、葵は尋ねた。
「特に決めてない」
「え?」
「いつも通りに過ごそうかなって」
悠真はそう言って歩き出した。
「いつも通り?」
「うん。俺が普段行くところとか」
その言葉に、葵は少し驚いた。
以前この街を訪れたときは、二人で過去の話をした。
昔のこと。
二人が付き合い始めた頃のこと。
これからのこと。
でも今日は違う。
悠真が今、ここでどう暮らしているのか。
それを知るための時間だった。
「まず、昼飯」
「そこから?」
「腹減ってるから」
あまりにも悠真らしい答えに、葵は笑った。
「変わらないね」
「何が?」
「そういうところ」
「四年も付き合ってたんだから、知ってるだろ」
「……うん」
葵は少しだけ間を置いた。
「でも、知らないことも多かったみたい」
悠真は何も言わなかった。
ただ、歩く速度を少しだけ緩めた。
昼食を終えたあと、二人は商店街を歩いた。
悠真が立ち止まったのは、小さなパン屋だった。
「ここ、よく来るの?」
「うん。朝、時間があるとき」
「知らなかった」
「言ってなかったから」
「どうして?」
「聞かれなかったからかな」
その言葉に、葵は返事ができなかった。
責めるような口調ではなかった。
だからこそ、胸に残った。
聞かなかった。
知らなかった。
知らないままでも、四年間一緒にいた。
それが悪いことだったのかどうか、葵には分からない。
ただ、自分が思っていたほど、悠真のすべてを知っていたわけではなかったのだと気づいた。
「悠真って、朝はパン派だったんだ」
「そこ?」
「だって知らなかったから」
「じゃあ、今知った」
「うん」
葵は笑った。
悠真も小さく笑った。
それだけの会話だった。
でも、以前の二人なら、こういう何気ない話をもっとしていた気がした。
午後は、悠真がよく歩くという道を二人で歩いた。
川沿いの遊歩道。
ベンチ。
小さな公園。
遠くに見える山。
特別な場所ではない。
観光地でもない。
けれど、悠真にとっては日常の一部だった。
「ここ、毎日歩いてるの?」
「毎日じゃないけど、考え事するときは来る」
「何を考えるの?」
「いろいろ」
「たとえば?」
「仕事のこととか」
「家のこととか?」
「……うん」
悠真が少しだけ前を向いた。
「あと、葵のこと」
葵の足が止まりそうになった。
「私?」
「そう」
「何を考えてたの?」
悠真はすぐには答えなかった。
川の水面を見ながら、ゆっくりと言った。
「どうしたらよかったのかなって」
「……何が?」
「俺たち」
風が吹いた。
葵の髪が揺れる。
悠真はそれ以上、何も言わなかった。
葵も聞かなかった。
今すぐ答えを出す必要はないと思った。
昔なら、答えを求めていたかもしれない。
どうして。
いつから。
何が悪かったの。
でも今は、それだけではない気がしていた。
二人とも、きっと同じように分からないのだ。
いつから少しずつ離れてしまったのか。
どこで何を言えばよかったのか。
何を諦めなければよかったのか。
「私も考えてた」
葵が言った。
「何を?」
「もっと、悠真の話を聞けばよかったなって」
悠真は葵を見る。
「今からでも聞けるよ」
その言葉に、葵は少しだけ笑った。
「うん」
恋人としてではない。
過去を取り戻すためでもない。
ただ、目の前にいる人のことを知るために。
帰り道。
葵はスマートフォンを取り出した。
以前なら、こんな時間になると仕事の連絡を確認していた。
けれど今日は画面を開かなかった。
「見ないの?」
悠真が聞いた。
「今日はいいの」
「仕事?」
「うん。でも、明日でもできるから」
そう言うと、悠真は少しだけ笑った。
「変わったな」
「そうかな」
「うん」
葵は歩きながら考えた。
自分は少しずつ変わっている。
悠真も変わった。
二人が変わったから、今の二人がある。
だからきっと、過去の二人に戻ることはできない。
でも。
過去に戻れないことと、今までの時間が無意味になることは違う。
それだけは、少し分かるようになってきた。
「悠真」
「ん?」
「今日、楽しかった」
「俺も」
「また、こういう時間があってもいいね」
悠真は少し考えてから、頷いた。
「そうだな」
駅へ向かう道を、二人は並んで歩いた。
昔のように手はつながない。
けれど、以前よりも互いの歩幅を気にしていた。
葵はふと思った。
私は、悠真のことを知らなかった。
でも、それを知ったことを、悲しいだけだとは思わなかった。
知らなかったからこそ、今日初めて知れたことがある。
そして、自分自身についても。
知らないまま過ごしてきたことが、まだたくさんある。
これからは、それを少しずつ知っていけばいい。
悠真のことも。
そして、自分のことも。



