翌朝。
葵は、いつもより早く目を覚ました。
カーテンの隙間から、柔らかな光が差し込んでいる。
時計を見る。
まだ七時前だった。
「……早すぎ」
呟いて、もう一度目を閉じようとする。
けれど、眠れなかった。
昨日のことが頭から離れない。
公園。
喫茶店。
展望台。
四年前の記憶を、ひとつずつ辿った。
そして、そのたびに思った。
──私、こんなことも忘れてたんだ。
スマートフォンを手に取る。
悠真からのメッセージは届いていなかった。
少しだけ残念に思った自分に、葵は苦笑する。
「何期待してるんだろ」
付き合っているのだから、連絡が来てもおかしくない。
けれど。
以前のように「おはよう」と毎朝メッセージを送り合う関係ではなくなっていた。
葵はベッドから起き上がった。
洗面所へ向かい、顔を洗う。
鏡の中の自分を見る。
いつもと変わらない顔。
いつもと変わらない朝。
それなのに、何かが違っていた。
朝食を作るため、冷蔵庫を開ける。
卵。
牛乳。
ヨーグルト。
野菜。
以前なら、二人分を考えて買い物をしていた。
悠真が好きなもの。
悠真が嫌いなもの。
休日に一緒に食べるもの。
そういうことを自然に考えていた。
今は。
一人分でいい。
その事実が、少しだけ寂しかった。
葵は卵を一つ取り出した。
フライパンを火にかける。
目玉焼きを作る。
それだけの朝だった。
食事を終えると、葵は洗い物をした。
そして、ふとスマートフォンを見る。
仕事のメールが何件か届いている。
反射的に開こうとして。
指を止めた。
「……今日は休み」
自分に言い聞かせる。
以前なら、休日でも仕事の連絡を確認していた。
急ぎの案件があれば対応する。
月曜日を楽にするために、少しだけ作業しておく。
そうしているうちに、休日が終わる。
それが当たり前だった。
葵はスマートフォンをテーブルに置いた。
そして、窓の外を見る。
天気がいい。
「……どこ行こう」
誰かと約束しているわけではない。
悠真との予定もない。
だからこそ。
自分で決めなければならない。
葵はしばらく考えた。
映画。
買い物。
カフェ。
図書館。
どれも一人でできる。
けれど、なぜか決められない。
ふと、机の隅に置いてあるノートが目に入った。
仕事用のノートだった。
そこには、次の企画についてのメモがびっしり書かれている。
ページをめくる。
会議の予定。
締め切り。
クライアントの要望。
修正点。
葵の生活のほとんどが、仕事で埋まっていた。
それに気づいてしまうと、少し怖くなった。
──私、仕事以外に何が好きだったんだろう。
思い出そうとする。
映画。
昔はよく観ていた。
本。
学生の頃は休日に一冊読むのが楽しみだった。
料理。
悠真と暮らし始めてからは、休日に一緒に作ることもあった。
旅行。
行きたい場所を書いたメモが、どこかに残っている。
葵は引き出しを開けた。
古いメモ帳が出てきた。
ページをめくる。
そこには、四年前の自分が書いた文字があった。
『行きたい場所』
その下に、いくつもの地名が並んでいる。
海。
温泉。
京都。
北海道。
海外にも行きたい。
その横には、悠真の字で小さく書かれていた。
『いつか全部行こう』
葵の指が止まった。
「……いつか」
昨日、展望台でも口にした言葉。
便利な言葉。
そして、何度も先送りしてきた言葉。
葵はメモ帳を閉じた。
でも、捨てることはできなかった。
そのまま鞄に入れる。
今日は映画を観に行こう。
一人で。
そう決めた。
映画館に着くと、思ったより人が多かった。
ポップコーンを買う。
一人分。
席に座る。
隣には誰もいない。
上映が始まる。
最初は少し落ち着かなかった。
以前なら、隣に悠真がいた。
面白い場面では顔を見合わせた。
感想を小声で話した。
上映が終わったあと、どこかで食事をする。
そんな時間まで含めて、映画だった。
けれど今日は。
映画は映画だった。
葵は一人で最後まで観た。
そして、映画館を出たところで思った。
「……意外と、悪くない」
誰かと一緒じゃなくても。
自分が楽しみたいと思ったものを、自分で選ぶ。
それだけのことだった。
帰り道、葵は小さな書店に立ち寄った。
仕事とは関係のない本を一冊買った。
昔好きだった作家の新刊だった。
家に帰る。
夕方になっていた。
買った本をテーブルに置く。
スマートフォンを見る。
悠真からメッセージが届いていた。
『今日はゆっくりできた?』
短い一文。
葵はしばらく画面を見つめた。
それから、
『うん。映画観て、本買ってきた』
と返した。
すぐに返信が来る。
『珍しいね』
葵は笑った。
『そう?』
『仕事以外の話、久しぶりに聞いた気がする』
その言葉に、胸が少しだけ痛んだ。
けれど。
嫌な痛みではなかった。
葵はスマートフォンを置いた。
窓の外を見る。
夕暮れの空が、ゆっくり色を変えている。
今日一日。
悠真と会っていない。
それでも、昨日より少しだけ自分のことを考えられた。
それが何を意味するのかは、まだ分からない。
ただ。
葵は買ったばかりの本を手に取った。
ページを開く。
そして、静かに読み始めた。
四年前の自分が「いつか」と書いた未来には、まだ辿り着いていない。
けれど。
自分一人の今日を、ちゃんと過ごすこと。
それもきっと、これからの未来につながっていく。
葵はそう思いながら、ページをめくった。
葵は、いつもより早く目を覚ました。
カーテンの隙間から、柔らかな光が差し込んでいる。
時計を見る。
まだ七時前だった。
「……早すぎ」
呟いて、もう一度目を閉じようとする。
けれど、眠れなかった。
昨日のことが頭から離れない。
公園。
喫茶店。
展望台。
四年前の記憶を、ひとつずつ辿った。
そして、そのたびに思った。
──私、こんなことも忘れてたんだ。
スマートフォンを手に取る。
悠真からのメッセージは届いていなかった。
少しだけ残念に思った自分に、葵は苦笑する。
「何期待してるんだろ」
付き合っているのだから、連絡が来てもおかしくない。
けれど。
以前のように「おはよう」と毎朝メッセージを送り合う関係ではなくなっていた。
葵はベッドから起き上がった。
洗面所へ向かい、顔を洗う。
鏡の中の自分を見る。
いつもと変わらない顔。
いつもと変わらない朝。
それなのに、何かが違っていた。
朝食を作るため、冷蔵庫を開ける。
卵。
牛乳。
ヨーグルト。
野菜。
以前なら、二人分を考えて買い物をしていた。
悠真が好きなもの。
悠真が嫌いなもの。
休日に一緒に食べるもの。
そういうことを自然に考えていた。
今は。
一人分でいい。
その事実が、少しだけ寂しかった。
葵は卵を一つ取り出した。
フライパンを火にかける。
目玉焼きを作る。
それだけの朝だった。
食事を終えると、葵は洗い物をした。
そして、ふとスマートフォンを見る。
仕事のメールが何件か届いている。
反射的に開こうとして。
指を止めた。
「……今日は休み」
自分に言い聞かせる。
以前なら、休日でも仕事の連絡を確認していた。
急ぎの案件があれば対応する。
月曜日を楽にするために、少しだけ作業しておく。
そうしているうちに、休日が終わる。
それが当たり前だった。
葵はスマートフォンをテーブルに置いた。
そして、窓の外を見る。
天気がいい。
「……どこ行こう」
誰かと約束しているわけではない。
悠真との予定もない。
だからこそ。
自分で決めなければならない。
葵はしばらく考えた。
映画。
買い物。
カフェ。
図書館。
どれも一人でできる。
けれど、なぜか決められない。
ふと、机の隅に置いてあるノートが目に入った。
仕事用のノートだった。
そこには、次の企画についてのメモがびっしり書かれている。
ページをめくる。
会議の予定。
締め切り。
クライアントの要望。
修正点。
葵の生活のほとんどが、仕事で埋まっていた。
それに気づいてしまうと、少し怖くなった。
──私、仕事以外に何が好きだったんだろう。
思い出そうとする。
映画。
昔はよく観ていた。
本。
学生の頃は休日に一冊読むのが楽しみだった。
料理。
悠真と暮らし始めてからは、休日に一緒に作ることもあった。
旅行。
行きたい場所を書いたメモが、どこかに残っている。
葵は引き出しを開けた。
古いメモ帳が出てきた。
ページをめくる。
そこには、四年前の自分が書いた文字があった。
『行きたい場所』
その下に、いくつもの地名が並んでいる。
海。
温泉。
京都。
北海道。
海外にも行きたい。
その横には、悠真の字で小さく書かれていた。
『いつか全部行こう』
葵の指が止まった。
「……いつか」
昨日、展望台でも口にした言葉。
便利な言葉。
そして、何度も先送りしてきた言葉。
葵はメモ帳を閉じた。
でも、捨てることはできなかった。
そのまま鞄に入れる。
今日は映画を観に行こう。
一人で。
そう決めた。
映画館に着くと、思ったより人が多かった。
ポップコーンを買う。
一人分。
席に座る。
隣には誰もいない。
上映が始まる。
最初は少し落ち着かなかった。
以前なら、隣に悠真がいた。
面白い場面では顔を見合わせた。
感想を小声で話した。
上映が終わったあと、どこかで食事をする。
そんな時間まで含めて、映画だった。
けれど今日は。
映画は映画だった。
葵は一人で最後まで観た。
そして、映画館を出たところで思った。
「……意外と、悪くない」
誰かと一緒じゃなくても。
自分が楽しみたいと思ったものを、自分で選ぶ。
それだけのことだった。
帰り道、葵は小さな書店に立ち寄った。
仕事とは関係のない本を一冊買った。
昔好きだった作家の新刊だった。
家に帰る。
夕方になっていた。
買った本をテーブルに置く。
スマートフォンを見る。
悠真からメッセージが届いていた。
『今日はゆっくりできた?』
短い一文。
葵はしばらく画面を見つめた。
それから、
『うん。映画観て、本買ってきた』
と返した。
すぐに返信が来る。
『珍しいね』
葵は笑った。
『そう?』
『仕事以外の話、久しぶりに聞いた気がする』
その言葉に、胸が少しだけ痛んだ。
けれど。
嫌な痛みではなかった。
葵はスマートフォンを置いた。
窓の外を見る。
夕暮れの空が、ゆっくり色を変えている。
今日一日。
悠真と会っていない。
それでも、昨日より少しだけ自分のことを考えられた。
それが何を意味するのかは、まだ分からない。
ただ。
葵は買ったばかりの本を手に取った。
ページを開く。
そして、静かに読み始めた。
四年前の自分が「いつか」と書いた未来には、まだ辿り着いていない。
けれど。
自分一人の今日を、ちゃんと過ごすこと。
それもきっと、これからの未来につながっていく。
葵はそう思いながら、ページをめくった。



