君が思い出になる前に

 喫茶店を出ると、雨は少し弱くなっていた。

 悠真が買ってきた傘を開く。

「入る?」

「うん」

 二人で一本の傘に入った。

 肩が触れそうで、触れない。

 葵は少しだけ迷ってから、悠真との距離を縮めた。

 四年前なら、何も考えずにそうしていた。

 今は、ほんの少し勇気が必要だった。

「次、どこ行く?」

 葵が聞く。

 悠真は歩きながら考えた。

「……展望台」

「展望台?」

「覚えてる?」

「もちろん」

 葵は答えた。

 そこだけは、忘れていなかった。

 駅から少し離れた丘の上。

 街を一望できる小さな展望台。

 二人が付き合い始めて半年ほど経った頃、初めて一緒に訪れた場所だった。

 あの日。

 夕暮れの街を見ながら、二人は未来の話をした。

 いつか一緒に暮らしたい。

 旅行に行きたい。

 仕事が落ち着いたら、海の近くにも行ってみたい。

 歳を取っても、こうして隣にいたい。

 当時は、それが特別な約束だとは思っていなかった。

 ただ好きな人と話す未来は、自然と自分の未来でもあると思っていた。

 だから。

 その場所へ向かう道で、葵の胸は少しだけ苦しくなった。

「まだ上るの?」

「そう」

「昔は平気だったのに」

「今も平気でしょ」

「仕事ばっかりしてると体力なくなるの」

「それは仕事のせいなの?」

「……たぶん」

 悠真が笑う。

 その笑顔を見て、葵も笑った。

 坂道を上る。

 雨上がりの道には、水たまりが残っている。

 傘を閉じる頃には、雲の切れ間から少しだけ青空が見えていた。

 展望台に着く。

 街が一望できた。

「……変わってないね」

 葵が言った。

「うん」

 遠くに見える建物。

 道路を走る車。

 駅へ向かう電車。

 四年前に見た景色と、ほとんど同じだった。

 けれど、葵には違って見えた。

 隣にいる人が同じなのに。

 あの頃と同じ場所にいるのに。

 なぜか、少しだけ遠い。

「ここで何話したか、覚えてる?」

 悠真が聞いた。

「覚えてるよ」

「本当に?」

「うん」

 葵は笑った。

「一緒に暮らしたいって言った」

「言ったね」

「旅行もしたいって」

「言った」

「海にも行きたいって」

「それも言った」

 悠真は笑った。

「あと、歳を取っても一緒にいようって」

 葵はそこで黙った。

 悠真も何も言わない。

 風が吹く。

 濡れた木の葉が、かすかに揺れた。

「……あの頃はさ」

 葵が口を開いた。

「こうなるなんて思わなかったね」

「うん」

「四年後も、普通に一緒にいると思ってた」

「俺も」

 悠真の声は静かだった。

「ずっとそう思ってた」

「じゃあ……」

 葵は言いかけた。

 けれど、言葉が続かなかった。

 じゃあ、どうして。

 どうして今、ここに二人で立っているのだろう。

 どうして悠真は、もうすぐこの街を離れるのだろう。

 どうして未来の話が、過去の話になってしまったのだろう。

「……葵」

「なに?」

「俺たち、変わったよね」

 葵はしばらく黙っていた。

 そして、ゆっくり頷いた。

「うん」

 認めるのは怖かった。

 でも、もう否定できなかった。

「でも」

 葵は街を見下ろした。

「変わったのは、私だけじゃないよね」

 悠真が葵を見る。

「うん」

「私、ずっと自分が悪かったんだと思ってた」

「どうして?」

「仕事ばっかりしてたから」

 葵は苦笑した。

「会う時間も減ったし。連絡もちゃんと返さないことあったし」

「それは……」

「分かってる。悠真が責めてるわけじゃないのも」

 葵は言葉を続けた。

「でも、私がもっとちゃんとしてたら、今も何か違ったのかなって」

 悠真はすぐには答えなかった。

 しばらく街を見つめてから、言った。

「俺も、もっと言えばよかったと思ってる」

「何を?」

「寂しいって」

 葵は息を止めた。

「……言ってくれればよかったのに」

「言えなかった」

「どうして?」

「葵が頑張ってるの知ってたから」

 その言葉に、葵は俯いた。

「邪魔したくなかった」

「私、そんなに怖かった?」

「怖いっていうより……」

 悠真は少し笑った。

「葵が一生懸命だったから、俺までわがままを言ったらいけない気がした」

「わがままじゃないよ」

「今ならそう思う」

 葵は何も言えなかった。

 自分は仕事を頑張っていた。

 悠真は、それをずっと応援してくれていた。

 だからこそ、葵は何も問題がないと思っていた。

 応援してくれる。

 待っていてくれる。

 いつでも帰れば、そこにいる。

 そう思っていた。

「私……」

 葵が呟く。

「悠真がいることを、当たり前だと思ってたのかもしれない」

 悠真は否定しなかった。

 責めもしなかった。

 ただ、静かに隣に立っていた。

「ごめん」

 葵が言う。

「謝らなくていいよ」

「でも」

「俺も同じだから」

「……悠真も?」

「うん」

 悠真は街を見ながら答えた。

「葵がいつまでも隣にいるって、俺も勝手に思ってた」

 その言葉に、葵は少しだけ笑った。

「じゃあ、お互い様だね」

「そうだね」

 二人の間に、穏やかな沈黙が落ちた。

 以前なら、その沈黙の先には未来があった。

 今は違う。

 未来は、まだ見えない。

 けれど。

 葵は思った。

 見えないからといって、無理に答えを出さなくてもいいのかもしれない。

 今日はただ。

 この場所に来られた。

 四年前の自分たちを、今の自分たちで見つめられた。

 それだけで十分だった。

「悠真」

「ん?」

「海、行けなかったね」

「ああ……」

 悠真が笑う。

「仕事が忙しいって言ってた」

「……そうだった」

「いつか行こうって言って、そのままだった」

 葵は苦笑した。

「本当に、私たちって『いつか』が多かったね」

「うん」

「いつか旅行しよう」

「うん」

「いつか一緒に暮らそう」

「うん」

「いつか海に行こう」

「うん」

 二人は顔を見合わせた。

「……いつかって、便利な言葉だったね」

 葵が言う。

 悠真は少しだけ寂しそうに笑った。

「そうだね」

 夕方の光が、街の向こうへゆっくり沈んでいく。

 葵はその景色を見つめた。

 四年前。

 ここで語った未来は、まだ何も決まっていなかった。

 それでも、二人には無限に時間があるように思えた。

 今は違う。

 残された時間を、数えるようになっている。

 そのことに、葵はまだ気づかないふりをしていた。

 けれど。

 胸の奥では、もう分かり始めていた。

 この一週間は。

 ただの思い出巡りではない。

 きっと二人が、これまで見ないふりをしてきたものと向き合うための時間なのだ。

 葵は隣に立つ悠真を見た。

「ねえ」

「うん?」

「今日は、もう少し一緒にいたい」

 悠真は少し驚いた顔をした。

 それから、静かに笑った。

「うん」

 二人は並んで、夕暮れの街を見つめ続けた。