君が思い出になる前に

 公園を出てから、二人はしばらく無言で歩いた。

 駅とは反対方向へ向かう道。

 四年前にも歩いたはずなのに、葵には初めて通る道のように感じられた。

「この辺だったよね?」

 葵が尋ねる。

「うん。もう少し先」

 悠真は迷うことなく答えた。

「よく覚えてるね」

「葵よりはね」

「それ、どういう意味?」

「葵、昔から方向音痴だっただろ」

「……それは否定できない」

 二人で笑った。

 その笑い方だけは、昔と変わらなかった。

 しばらく歩くと、商店街が見えてきた。

 古い建物が並ぶ通り。

 その一角に、小さな喫茶店がある。

 木製の看板。

 少し色あせた文字。

 入口の横には、四年前と同じように小さな植木鉢が置かれていた。

「ここ」

 悠真が足を止めた。

 葵も立ち止まる。

「……まだあったんだ」

「俺も少し心配だった」

「なくなってるかと思った」

「俺も」

 二人は顔を見合わせる。

 それから、同時に店の扉を開けた。

 カラン、と小さなベルが鳴った。

「いらっしゃいませ」

 店内には、静かな音楽が流れていた。

 窓際の席。

 古い木のテーブル。

 壁に飾られた時計。

 どれも記憶の中とほとんど変わっていない。

「ここ、座ろうか」

 悠真が窓際を指した。

「うん」

 二人は向かい合って座った。

 メニューを開く。

 葵はページを眺めながら、ふと顔を上げた。

「……あ」

「何?」

「私、ここでコーヒー飲めなかったんだ」

「そう」

「覚えてる?」

「覚えてるよ」

 悠真は笑った。

「苦いのが苦手だったから」

「そうだった」

「それなのに、葵が『大人っぽいから』って注文した」

「……そんなこと言った?」

「言った」

「恥ずかしい」

 葵は顔を伏せた。

 四年前の自分が、急に目の前に現れたようだった。

 付き合い始めたばかりで、悠真の前では少しでも大人っぽく見られたくて。

 普段は飲まないコーヒーを頼んだ。

 一口飲んで。

 苦くて。

 結局、悠真に半分飲んでもらった。

「あのとき、悠真が笑ってた」

「笑った」

「ひどい」

「だって、葵がすごい顔してたから」

「もう」

 葵は笑った。

 その瞬間。

 胸の奥が、少しだけ温かくなった。

 忘れていた。

 こんなこと。

 こんな小さなことまで。

「……覚えてるんだね」

 葵が呟いた。

「うん」

「私、忘れてた」

「そう?」

「うん」

 葵は窓の外を見る。

 通りを歩く人。

 自転車。

 信号が変わる音。

 四年前と同じ街なのに、時間だけが遠く離れている。

「悠真ってさ」

「ん?」

「私とのこと、そんなに覚えてる?」

 悠真は少し考えた。

「全部じゃないよ」

「そっか」

「でも、忘れたくないことは覚えてる」

 葵は何も言えなかった。

 胸の奥が、きゅっと締めつけられる。

「……私も」

 小さな声で答えた。

「忘れたくないことは、覚えてる」

 悠真は何も言わなかった。

 店員が注文を取りに来る。

 葵は迷った末に、紅茶を頼んだ。

「コーヒーじゃないんだ?」

 悠真がからかう。

「もう無理して大人っぽくする必要ないから」

「そうだね」

「悠真は?」

「俺はコーヒー」

「変わらないね」

「そこは変わらない」

 二人は笑った。

 飲み物が運ばれてくるまで、しばらく沈黙が続いた。

 以前なら、その沈黙も気にならなかった。

 けれど今は、何かを言わなければいけないような気がする。

 葵はカップに手を添えた。

「ねえ」

「うん?」

「あの日、雨すごかったよね」

「うん」

「傘一本しかなくて」

「葵が濡れるから、俺が傘を傾けてた」

「だから悠真の肩、びしょびしょだった」

「葵が気づいたの、店に入ってからだったけどね」

「……ごめん」

「今さら?」

「今さら」

 二人で笑う。

 けれど、その笑いが静まったあと。

 葵はぽつりと言った。

「私、あの頃のこと、もっと覚えてると思ってた」

「四年も経ったからね」

「そうだけど……」

 葵は言葉を探した。

「思ってたより、忘れてる」

 悠真は紅茶の向こうから葵を見る。

「俺は、結構覚えてるよ」

「どうして?」

「どうしてって……」

 悠真は少しだけ困ったように笑った。

「好きだったからじゃない?」

 葵の指が止まった。

 過去形。

 その一言が、静かに胸へ落ちていく。

「……だった、なんだ」

 思わず口に出ていた。

 悠真は答えなかった。

 葵も、それ以上は聞かなかった。

 店の時計が、静かに時を刻んでいる。

 しばらくして、悠真が窓の外を見た。

「雨、降りそうだね」

「本当?」

「空、暗くなってきた」

 葵も外を見る。

 確かに、遠くの空が少しずつ灰色になっていた。

 四年前と同じだった。

 突然降り始めた雨。

 一本の傘。

 そして、この喫茶店。

 けれど。

 あの日と違うのは、今の二人がもう、あの日の二人ではないことだった。

「……ねえ、悠真」

「ん?」

「今日、来てよかった」

 悠真は葵を見る。

「俺も」

 それだけだった。

 けれど、その短い言葉が、今の葵には嬉しかった。

 恋人だから嬉しいのか。

 昔を思い出せたから嬉しいのか。

 それとも。

 まだ自分たちの間に、こうして一緒に過ごせる時間が残っているからなのか。

 葵には、まだ分からなかった。

 店を出る頃には、本当に雨が降り始めていた。

「やっぱり降ったね」

 葵が空を見上げる。

「傘、買おうか」

「うん」

 悠真がスマートフォンを取り出す。

 その横顔を見ながら、葵はふと思った。

 四年前は、この雨が嬉しかった。

 雨が降ったから、もう少しだけ悠真と一緒にいられた。

 今は違う。

 雨が降ったからといって、時間が延びるわけではない。

 それでも。

 葵は歩き出した悠真の隣に並んだ。

 そして、ほんの少しだけ。

 昔と同じ距離まで近づいた。