君が思い出になる前に

 土曜日の午後。

 葵は、駅前の時計を見上げた。

 約束の時間まで、あと五分。

 待ち合わせ場所に指定されたのは、駅から少し離れた小さな公園だった。

 四年前。

 まだ付き合い始めたばかりだった頃、悠真と何度か訪れた場所だ。

 けれど、葵はそれをすぐには思い出せなかった。

 スマートフォンに届いた悠真からのメッセージを見て、ようやく気づいた。

『今日は、あの公園からでいい?』

 あの公園。

 そう書かれて初めて、記憶の奥から景色が浮かび上がってきた。

 駅から歩いて十分ほど。

 大きな遊具もない。

 ベンチと、季節の花が植えられた小さな花壇があるだけの、ごく普通の公園。

 それなのに、葵の胸には妙な懐かしさが広がっていた。

「……覚えてたんだ」

 小さく呟く。

 そのとき。

「葵」

 後ろから声がした。

 振り返る。

 悠真が立っていた。

「久しぶり」

「……うん」

 直接会うのは、故郷へ戻ってから初めてだった。

 電話では何度も話している。

 メッセージも交わしている。

 声を聞けば、いつもの悠真だと思えた。

 けれど。

 こうして目の前に立たれると、少しだけ違って見える。

 髪が伸びた。

 少し日に焼けた気がする。

 そして何より──。

「なんか、変な感じ」

 葵が笑うと、悠真も笑った。

「俺も」

「電話では普通だったのにね」

「顔を見ると、そうでもない?」

「……うん」

 葵は誤魔化すように視線を逸らした。

 何が違うのか、自分でも分からない。

 ただ、以前なら当たり前だった距離が、今は少し遠く感じた。

「行こうか」

 悠真が言った。

「うん」

 二人は並んで歩き始めた。

 公園の入り口を抜ける。

 風に揺れる木々。

 子どもの声。

 ベンチの横に置かれた古い自動販売機。

 見覚えのある景色が、少しずつ蘇ってくる。

「あ」

 葵が立ち止まった。

「ここ……」

「思い出した?」

「うん」

 四年前。

 まだ恋人と呼ぶには少し照れくさかった頃。

 その日も、二人はこの公園を歩いていた。

 帰る時間になっても、なかなか別れられなかった。

 駅へ向かう途中、悠真が何度も何かを言おうとしていた。

 そして。

「葵」

 そう呼ばれた。

「なに?」

「……手、つないでもいい?」

 あのときの悠真は、今よりずっと緊張していた。

 葵は恥ずかしくて、返事をする代わりに手を差し出した。

 悠真が、その手を握った。

 ただそれだけのことだった。

 けれど。

 あの日は、それだけで世界が少し変わったように感じた。

「ここだったよね」

 悠真が言った。

「うん」

「覚えてた?」

「忘れるわけないじゃん」

 葵は笑った。

 悠真も笑った。

 けれど、その笑顔はどこか寂しそうだった。

「……あのとき、手をつないだだけで一日中嬉しかったな」

「分かる」

「帰ってからも、ずっと思い出してた」

「私も」

「メールも何回も読み返して」

「それは私も」

 二人で笑う。

 ほんの一瞬だけ。

 四年前の空気が戻ってきたような気がした。

 葵は隣を歩く悠真を見た。

 昔と同じ横顔。

 けれど、昔とは違う時間を生きている。

「ねえ、悠真」

「ん?」

「今も……覚えてるんだね」

「何を?」

「こういうこと」

「覚えてるよ」

 悠真は当たり前のように答えた。

「葵とのことだから」

 その言葉に、胸の奥が少しだけ痛んだ。

「……そっか」

「どうした?」

「ううん」

 葵は首を横に振った。

「なんでもない」

 本当は、もっと聞きたかった。

 どれくらい覚えているのか。

 今でも思い出すのか。

 自分と同じくらい、大切に思っているのか。

 けれど、聞けなかった。

 代わりに、葵はベンチへ腰を下ろした。

 悠真も隣に座る。

 以前なら、肩が触れるくらい近くに座っていただろう。

 けれど今は、ほんの少しだけ間が空いている。

 その距離を、二人とも埋めようとはしなかった。

「ここから駅まで歩いたんだよね」

「うん」

「途中でコンビニ寄って」

「葵がアイス買った」

「そうだっけ?」

「買ったよ。しかも、溶けるから早く帰ろうって言ったのに、葵がずっと話してた」

「……そんなことあった?」

「あった」

「覚えすぎじゃない?」

 葵が笑う。

 悠真も笑った。

 でも。

 笑い終わったあとに、沈黙が残った。

 葵はその沈黙を嫌だとは思わなかった。

 ただ、昔とは違うと思った。

 昔は、何も話さなくても安心できた。

 今は、何を話せばいいのか分からない。

「……不思議だね」

 葵が言った。

「何が?」

「同じ場所なのに」

 目の前の景色を見る。

「全然違って見える」

 悠真はすぐには答えなかった。

 しばらくしてから、静かに言った。

「俺も、そう思ってた」

 その言葉が、妙に胸に残った。

 葵は隣を見る。

 悠真は公園の先を見つめていた。

「でも」

 悠真が続ける。

「場所が変わったわけじゃないんだよな」

「……うん」

「俺たちが変わっただけで」

 葵は返事をしなかった。

 できなかった。

 その言葉を否定することが、できなかった。

 しばらくして、悠真が立ち上がる。

「次、行こうか」

「どこ?」

「覚えてる?」

「……何を?」

「雨の日に行ったところ」

 葵は少し考えてから、目を見開いた。

「あ……」

 記憶の中に、古い喫茶店が浮かぶ。

 突然の雨。

 一本の傘。

 濡れた髪。

 そして、二人で笑いながら駆け込んだ店。

「覚えてる」

「じゃあ、行こう」

「うん」

 葵も立ち上がった。

 二人は並んで公園を出る。

 駅とは反対方向へ歩き始める。

 その距離は、以前より少しだけ遠い。

 それでも葵は思った。

 今日だけは。

 この時間を大切にしたい。

 過去に戻るためではなく。

 過去の二人を、今の自分たちで見つめるために。

 葵は隣を歩く悠真を、そっと見た。

 その横顔は、四年前と変わらない。

 なのに。

 どうしてこんなにも遠く感じるのだろう。

 その答えを、葵はまだ知らなかった。