君が思い出になる前に

週が明けた。

月曜日の朝。

葵はいつものように電車に乗り、会社へ向かった。

けれど、何かが少しだけ違っていた。

窓に映る自分の顔を見ながら、昨日までとは違うことを考えている。

仕事の予定。

今日の打ち合わせ。

午後のプレゼン。

今週中に仕上げる企画書。

どれも、もちろん大切だった。

けれど、それだけではなくなっていた。

土曜日に悠真と歩いた街のことを思い出す。

知らない本屋。

小さな定食屋。

川沿いの道。

悠真が高校生の頃に見ていた景色。

自分が知らなかった彼の時間。

四年間一緒にいたのに。

まだ知らないことが、たくさんあった。

会社に着くと、葵はパソコンを開いた。

いつもの仕事が始まる。

昼休みになっても、以前のようにスマートフォンを何度も確認することはなかった。

悠真から連絡が来ているか。

次はいつ会えるか。

そんなことばかり考えるのではなく、自分の目の前にある仕事にもちゃんと集中できた。

午後の打ち合わせが終わった頃。

スマートフォンが震えた。

悠真からだった。

──今日、少し電話できる?

葵は画面を見つめた。

以前なら、すぐに「できるよ」と返していた。

けれど今日は、時計を確認した。

まだ仕事が残っている。

だから。

──うん。帰ってからでもいい?

そう返した。

すぐに返信が来る。

──分かった。待ってる。

その文字を見て、葵は小さく笑った。

待ってる。

その言葉が、以前よりも嬉しく感じた。

その日の仕事を終えたのは、午後七時過ぎだった。

以前の葵なら、まだ会社に残っていたかもしれない。

けれど今日はパソコンを閉じた。

「お疲れさまでした」

そう言って会社を出る。

外はもう暗かった。

帰宅して簡単に夕食を済ませる。

そして、八時半。

スマートフォンが鳴った。

「もしもし」

『もしもし』

悠真の声。

たったそれだけで、土曜日の景色が蘇る。

「今日はどうだった?」

『普通。父さんの病院に行ってきた』

「そっか。具合は?」

『今のところ落ち着いてる』

「よかった」

少し話してから、葵が聞いた。

「ねえ、悠真」

『ん?』

「土曜日、楽しかった?」

『楽しかったよ』

「私も」

そこで会話が途切れた。

いつもの電話なら、どちらかが仕事の話をしたり、今日あったことを話したりする。

でも今日は、二人とも何かを待っているようだった。

先に口を開いたのは、悠真だった。

『葵』

「うん」

『もう少し、ちゃんと話さない?』

「……何を?」

『俺たちのこと』

胸が小さく跳ねた。

「……うん」

『別れてるわけじゃない』

「うん」

『でも、前と同じでもないよな』

葵は黙った。

その言葉を、否定できなかった。

「……そうだね」

『俺、土曜日に葵と会って、少し安心した』

「私も」

『でも、安心しただけじゃ駄目なんだと思う』

葵は黙って聞いた。

悠真の声は穏やかだった。

責めるわけでもない。

別れを迫るわけでもない。

ただ、逃げずに話そうとしている。

『俺たち、四年間一緒にいたから』

「うん」

『だから、離れたからって簡単に終わるものじゃないと思う』

「私もそう思う」

『でも』

その一言のあと、少し長い沈黙があった。

『続けるなら、今までとは違う形じゃないといけないと思う』

葵は目を閉じた。

それは、ずっと心のどこかで感じていたことだった。

「……どういう形がいいと思う?」

『分からない』

悠真は正直に答えた。

『俺も分からない』

その答えに、葵は少しだけ救われた。

分からないのは、自分だけではなかった。

『だから、もう少し一緒に考えたい』

「うん」

『次に会ったときに』

「うん」

『そのとき、昔のことも話さない?』

「昔のこと?」

『俺たちが付き合い始めた頃のこととか』

葵は少し笑った。

「急にどうしたの?」

『土曜日、葵が俺の昔の話を聞きたがっただろ』

「ああ……」

『俺も、葵のことをもっと知りたいと思った』

葵の胸が、静かに温かくなる。

『だからさ』

悠真が言った。

『今度は、俺たちが一緒に行った場所を、もう一回行ってみない?』

「……一緒に行った場所?」

『うん』

葵は少し考えた。

思い浮かぶ場所はいくつもあった。

初めて手を繋いだ場所。

雨宿りしたカフェ。

二人で将来の話をした場所。

四年間の中に、たくさんの場所がある。

「……いいね」

葵は笑った。

「行きたい」

『じゃあ、次に会うときは、そうしよう』

「うん」

電話を切ったあと。

葵はしばらく動かなかった。

昔の場所へ行く。

それが何を意味するのかは、まだ分からない。

ただ、ひとつだけ分かることがある。

二人は、過去に戻るために会うのではない。

今の二人で、過去を見つめ直すために会うのだ。

葵はスマートフォンを置いた。

窓の外を見る。

東京の夜景。

ここは、自分が今暮らしている場所。

悠真は遠くの町で暮らしている。

距離は変わらない。

それでも。

今日までとは、少しだけ違う気がした。

「次は、どこから行こうかな」

葵は小さく笑った。

そして、四年間の記憶を一つずつ思い浮かべ始めた。