君が思い出になる前に

駅へ向かう道を、二人で歩いた。

夕方だった街は、いつの間にか夜の色に変わっている。

街灯がひとつ、またひとつと灯っていた。

「新幹線、何時?」

悠真が聞く。

「八時半」

「じゃあ、まだ少しあるな」

「うん」

そう答えたものの、葵は少しだけ歩く速度を落とした。

もう少しだけ。

もう少しだけ、悠真と一緒に歩いていたかった。

駅が近づくにつれて、人の数が増えていく。

行き交う人たちの中に、仕事帰りらしい人もいれば、買い物袋を提げた人もいる。

みんな、それぞれの場所へ帰っていく。

「今日、どうだった?」

悠真が聞いた。

「どうって?」

「楽しかった?」

「うん」

葵はすぐに答えた。

「すごく楽しかった」

「よかった」

「悠真は?」

「俺も」

少し間を置いてから、悠真が続ける。

「葵が来てくれて、嬉しかった」

その言葉が、葵の胸に静かに落ちた。

以前なら。

「じゃあ、また明日ね」

と言えた。

明日も会える。

明後日も、その次の日も。

そんなふうに思っていた。

でも今は違う。

次に会える日を決めなければ、いつ会えるのか分からない。

駅の入口が見えてきた。

「次、いつ来られそう?」

悠真が聞く。

葵は少し考えた。

「来月なら……」

「仕事?」

「うん。今月はちょっと忙しい」

言ってから、葵は苦笑した。

「でも、前みたいに全部仕事を優先しないようにする」

「無理しなくていいよ」

「無理じゃない」

葵は悠真を見る。

「会いたいから来るんだもん」

悠真は少しだけ目を細めた。

「そっか」

「うん」

二人は駅の前で立ち止まった。

改札の向こうへ行けば、今日の時間は終わる。

それが分かっているのに、葵はなかなか動けなかった。

「……じゃあ」

悠真が言う。

「気をつけて帰って」

「悠真も」

「着いたら連絡して」

「うん」

その言葉を交わして。

二人とも、動かなかった。

「何?」

悠真が笑う。

「いや……」

葵も笑った。

「帰りたくないなって思って」

口にしてから、少し恥ずかしくなった。

けれど悠真は笑わなかった。

「俺も」

その一言だけだった。

悠真がそっと手を伸ばした。

葵の手を握る。

東京にいた頃なら、何度も繋いだ手。

なのに今日は、初めて触れるみたいに緊張した。

「……またね」

「またね」

手が離れる。

葵は改札へ向かった。

何度か振り返りそうになったけれど、振り返らなかった。

振り返ったら、本当に帰れなくなりそうだったから。

新幹線の座席に座り、窓の外を見る。

駅のホームに、悠真の姿はもう見えない。

発車のアナウンスが流れる。

列車がゆっくり動き出した。

葵はスマートフォンを取り出した。

悠真とのメッセージ画面を開く。

最後の言葉は、さっきの「またね」。

その文字をしばらく眺めてから、スマートフォンを伏せた。

今日は、すぐにメッセージを送らなくてもいい。

会えた。

話せた。

笑えた。

それだけで、今は十分だった。

窓の外を流れていく明かりを眺めながら、葵は考えた。

会えない時間が増えたことで、悠真のことをもっと知りたいと思うようになった。

同時に。

自分自身のことも、少しずつ知りたいと思うようになった。

仕事以外の自分。

恋人としてではない自分。

一人の人間として、何をしたいのか。

何を大切にしたいのか。

まだ分からない。

でも。

分からないままでもいい気がした。

今までは、答えを急いでいた。

仕事も。

恋愛も。

将来のことも。

全部、ちゃんと決めなければいけないと思っていた。

けれど今は。

少しずつでいい。

そう思える。

自宅に着いたのは、夜遅くなってからだった。

玄関を開ける。

静かな部屋。

テーブルの上には、朝のまま置いていったマグカップがある。

いつもの部屋。

いつもの生活。

その中に戻ってきた。

葵は荷物を置き、スマートフォンを見る。

悠真からメッセージが届いていた。

──今日はありがとう。

短い文章だった。

葵は少し考えてから、文字を打った。

──こちらこそ。すごく楽しかった。

送信する。

すぐに既読がついた。

──俺も。

それだけ。

でも、今日はそれでよかった。

葵はスマートフォンをテーブルに置いた。

そして、悠真からもらったマグカップにお湯を注ぐ。

一人分の飲み物。

以前なら、そのことが寂しかった。

今も少し寂しい。

けれど。

今日見た街。

聞いた話。

一緒に食べた夕食。

川沿いを歩いた時間。

それらを思い出すと、寂しさだけではなかった。

会えないなら、会える日に大切にすればいい。

そして、会えない日は、自分の時間を大切にすればいい。

そんな当たり前のことを。

葵はようやく少しだけ理解し始めていた。

カップを両手で包む。

「またね」

誰もいない部屋で、葵は小さく呟いた。

それは別れの言葉ではなく。

次に会うための約束のように聞こえた。