君が思い出になる前に

「お腹、空かない?」

坂道を下りながら、悠真が言った。

「空いた」

葵は即答した。

「早いな」

「朝から新幹線に乗ってきたんだから」

「駅弁食べてたじゃん」

「それはもう昔の話」

「まだ半日も経ってないけど」

悠真が笑う。

その笑い声を聞いて、葵もつられて笑った。

久しぶりだった。

こうやって、くだらないことで笑うのは。

東京にいた頃は、もっと近くにいた。

仕事帰りに待ち合わせて、ご飯を食べて。

どちらかが疲れていれば、家で簡単なものを作った。

特別な話をしなくても、一緒にいることが自然だった。

今は、違う。

今日の時間を作るために、二人とも予定を合わせた。

葵は新幹線に乗ってきた。

悠真も父親の予定を調整した。

会うことそのものに、少しだけ準備が必要になった。

それでも。

「何食べたい?」

悠真が聞く。

「悠真がいつも食べてるもの」

「それ、一番困る」

「じゃあ、悠真のおすすめ」

「分かった」

連れて行かれたのは、駅から少し離れた小さな定食屋だった。

店内には地元の人らしい客が何人かいる。

「ここ、よく来るの?」

「戻ってきてからは何回か。昔からある店だから」

「高校生の頃も?」

「たまに」

「へえ」

葵はメニューを開いた。

「何がおいしいの?」

「焼き魚」

「じゃあ、それにする」

「葵、魚好きだったっけ?」

「好きだよ」

「知らなかった」

「……私も、悠真が歴史好きなの知らなかった」

一瞬、二人で顔を見合わせる。

そして、同時に笑った。

「じゃあ、お互い様だな」

「そうだね」

注文を終えると、葵は店内を見回した。

東京の店とは違う。

騒がしくない。

流れている時間も、少しゆっくりしているように感じる。

「こういうところ、落ち着くね」

「葵は東京のほうが好きかと思ってた」

「東京も好きだよ」

少し考えてから、葵は続けた。

「でも、ずっとあそこにいると、たまに疲れる」

「仕事?」

「仕事もだけど……」

葵は言葉を選んだ。

「何かに追われてる感じがする」

悠真は何も言わずに聞いていた。

「早く仕事を終わらせなきゃとか、次の予定を決めなきゃとか。休日だって、せっかく休みなんだから何かしなきゃって思ってた」

「分かる」

「悠真も?」

「俺も似たようなところあったよ」

運ばれてきた料理から湯気が立ち上る。

二人は箸を手に取った。

「いただきます」

「いただきます」

焼き魚を一口食べた葵が、目を細める。

「おいしい」

「でしょ?」

「これ、東京にも出店してほしい」

「無理じゃない?」

「じゃあ私が通う」

「新幹線で?」

「……それは無理」

二人でまた笑った。

その瞬間。

葵は、不思議な安心感を覚えた。

距離ができても。

住む場所が変わっても。

こういう笑い方だけは、変わらない。

そう思った。

食事を終え、店を出る。

「このあと、どうする?」

悠真が聞いた。

「まだ帰りの新幹線まで時間あるよね?」

「ある」

「じゃあ、もう少し歩きたい」

「分かった」

二人は駅とは反対方向へ歩いた。

しばらくすると、住宅街の先に小さな川が見えてきた。

水面が夕方の光を反射している。

「ここ、きれい」

「昔、よく来てた」

「また?」

「まただな」

悠真が苦笑する。

「俺、思ったより昔の話してるな」

「いいじゃん」

葵は川沿いの道を歩きながら言った。

「もっと聞きたい」

「そんなに面白くないよ」

「私には面白い」

悠真が少しだけ黙った。

「……そっか」

その声が、ほんの少し柔らかくなった。

二人は並んで歩いた。

しばらくして、悠真が口を開く。

「葵」

「ん?」

「今日、来てくれてありがとう」

「こちらこそ」

「無理してない?」

「してないよ」

葵は笑った。

「会いたかったから来たの」

それは、今までなら簡単に言えた言葉だった。

でも今日は、少し違った。

「電話じゃなくて?」

「うん」

「どうして?」

葵は川を見ながら答えた。

「声を聞くだけじゃなくて、悠真が今どんな顔してるのか見たかったから」

悠真は何も言わなかった。

葵も、もう一度説明しようとはしなかった。

しばらくして。

「俺も」

悠真が小さく言った。

「葵の顔、見たかった」

それだけだった。

けれど、その言葉が胸に残った。

二人は川沿いのベンチに腰を下ろした。

夕暮れが少しずつ濃くなっていく。

「ねえ」

葵が言った。

「今日、楽しかった」

「俺も」

「なんか、久しぶりにちゃんとデートした感じ」

「そうだな」

悠真が笑う。

葵も笑った。

そして、ふと思う。

会えなくなったから、会いたいと思った。

会うために、予定を合わせた。

会えたことが嬉しかった。

でも。

今日一日を過ごして分かったことがある。

以前と同じ場所に戻りたいわけではない。

今の悠真を知りたい。

今の自分を知ってほしい。

それだけなのかもしれない。

「悠真」

「ん?」

「また来てもいい?」

悠真は少し驚いた顔をした。

それから、ゆっくり頷く。

「もちろん」

その答えを聞いて、葵は笑った。

帰る時間が近づいている。

寂しい。

でも、今日はその寂しさから逃げたくなかった。

二人の距離は、以前より遠くなった。

それでも。

今日一日、一緒に歩いたことで分かった。

距離ができたからこそ、見えるものもある。

葵は隣に座る悠真を見た。

そして、心の中でそっと思った。

──次は、いつ会えるんだろう。

その問いに、まだ答えはなかった。