君が思い出になる前に

「ここ」

悠真が立ち止まった。

商店街から少し離れた場所にある、小さな坂道だった。

その先には、古い木造の建物が見えている。

「何、ここ?」

葵が尋ねると、悠真は建物を指差した。

「俺が高校生の頃、よく通ってた本屋」

「本屋?」

「今はもう閉まってるけど」

近づいてみると、店先には色あせた看板が残っていた。

シャッターは下りている。

それでも、長い間そこにあった店だということは分かった。

「ここで何してたの?」

「学校帰りに立ち読み」

「悠真が?」

「俺だって立ち読みくらいするよ」

「なんか意外」

「どういう意味?」

「もっと真面目に、家に帰って勉強してそう」

「それは葵の中の俺が真面目すぎる」

二人で笑った。

それだけのことなのに、葵は嬉しかった。

東京にいた頃の悠真なら、こういう話をすることはあまりなかった。

仕事のこと。

休日の予定。

食事。

二人のこれから。

そんな話ばかりだった。

悠真がどんな高校生だったのか。

どんな友達と過ごしていたのか。

どんな道を歩いて帰っていたのか。

葵は知らない。

「何の本を読んでたの?」

「いろいろ。小説とか、歴史の本とか」

「歴史?」

「昔から好きだったんだよ」

「初めて聞いた」

「言ってなかった?」

「聞いてない」

悠真は少し考えるように黙った。

「そっか」

その短い言葉が、妙に胸に残った。

言っていなかった。

葵も、聞かなかった。

それだけなのだ。

誰かが悪いわけではない。

ただ、四年間という時間の中には、まだ知らない部分が残っていた。

「私、悠真のこと、結構知ってると思ってた」

葵が言うと、悠真は笑った。

「俺も、葵のこと知ってるつもりだった」

「つもり?」

「うん」

悠真は坂道の先を見た。

「でも、最近は知らないことも増えた気がする」

葵は、その言葉に何も返せなかった。

責められているわけではない。

だからこそ、余計に心に響いた。

「例えば?」

ようやく聞くと、悠真は少しだけ笑った。

「最近、葵が何を考えてるのか分からない」

「……私も」

「え?」

「悠真が何を考えてるのか、分からない」

二人の間に、短い沈黙が落ちた。

風が坂道を上っていく。

葵の髪が揺れた。

悠真がそれを見ながら、静かに言った。

「東京にいたときは、分かってるつもりだったんだけどな」

「私もそうだった」

「忙しかったからかな」

「たぶん」

葵は頷いた。

忙しい。

その言葉は、便利だった。

仕事が忙しい。

悠真も忙しい。

だから会えない。

だから話せない。

だから、また今度。

そうやって、二人は何度も先送りにしてきた。

「ねえ」

葵が言った。

「もっと早く、こういう話すればよかったね」

悠真は少しだけ目を伏せた。

「……そうだな」

「今さらだけど」

「今さらでも、話せるならいいんじゃない?」

その言葉に、葵は顔を上げた。

悠真は笑っていた。

いつもの優しい笑顔だった。

けれど、その奥に何かを抱えているようにも見えた。

「じゃあ、聞いていい?」

「何?」

「高校生の悠真は、どんな人だった?」

「それ聞く?」

「聞きたい」

「そうだな……」

悠真は少し考えてから話し始めた。

部活の帰りに友達と寄り道したこと。

テスト前だけ慌てて勉強したこと。

父親と喧嘩したこと。

母親に怒られたこと。

将来、東京に出たいと思っていたこと。

葵は一つひとつ聞いた。

笑ったり。

驚いたり。

時々、質問したり。

気づけば、いつの間にか夕方になっていた。

「……知らなかった」

葵が呟く。

「何が?」

「悠真のこういう話」

「今度は葵の話も聞かせて」

「私?」

「高校生の葵」

「そんなに面白くないよ」

「それでも聞きたい」

葵は笑った。

「じゃあ、今度ね」

そう言ってから、少しだけ考える。

以前なら何気なく使っていた言葉。

「今度」。

けれど今日は、その言葉の重さが違って感じられた。

「……ちゃんと今度、話す」

言い直すと、悠真が笑った。

「うん」

二人は坂道を下り始めた。

来たときよりも、少しだけゆっくりと。

葵は隣を歩く悠真を見た。

四年間、一緒にいた。

それでも知らない時間がある。

知らない場所がある。

知らない気持ちもある。

そのことが、悲しいというより──少しだけ愛おしく思えた。

もっと知りたい。

そう思った。

そして同時に。

もっと早く知りたかった、とも思った。

夕暮れの街を歩きながら、葵はふと気づいた。

二人の間にある距離は、東京とこの町の距離だけではないのかもしれない。

その距離を、これからどうするのか。

まだ、答えは出せなかった。