君が思い出になる前に

駅を出ると、悠真が少しだけ先を歩いた。

「こっち」

「うん」

葵はその背中を追いかけた。

久しぶりに見る悠真の後ろ姿。

歩く速さも、信号を渡るタイミングも、昔と変わらない。

それなのに。

その背中を見ていると、妙な気持ちになった。

以前なら、何も考えずに隣を歩いていた。

今日は、ほんの少しだけ距離がある。

「疲れてない?」

悠真が振り返った。

「大丈夫。新幹線でも寝てたし」

「ならよかった」

そう言って、悠真はまた前を向いた。

駅から十分ほど歩くと、小さな商店街が見えてきた。

大きな店はほとんどなく、昔ながらの八百屋やパン屋が並んでいる。

「ここ、よく来るの?」

「うん。家から近いから」

「へえ」

葵は辺りを見回した。

知らない景色だった。

当然だ。

四年間付き合ってきたのに、悠真の暮らしていた場所を、葵はほとんど知らない。

「なんか……悠真がここで生活してるって、不思議」

「俺もまだ不思議だけど」

悠真が笑った。

「戻ってきて一週間くらいは、実家に帰ってきたっていうより、旅行してるみたいだった」

「そっか」

「でも、父親の病院行ったり、家のことやったりしてたら、すぐ慣れた」

その言葉に、葵は少し黙った。

悠真の生活は、東京にいた頃とは変わった。

仕事だけをして、帰りに葵と食事をして、休日には二人で出かける。

そんな毎日ではなくなったのだ。

「お父さん、どう?」

「この前よりは落ち着いてる。でも、まだしばらくは通院が必要かな」

「そっか」

「だから、しばらくはこっちにいると思う」

その言葉を聞いた瞬間、葵の胸が少しだけ重くなった。

分かっていたことだった。

悠真が戻ってきた理由も。

これからすぐに東京へ戻れるわけではないことも。

それでも、本人の口から聞くと現実味が増した。

「葵は?」

「私?」

「仕事」

「相変わらずかな」

そう答えてから、葵は少し考えた。

「……でも、最近は前より早く帰るようにしてる」

「本当?」

「本当」

「何かあった?」

「何かっていうか……」

葵は笑った。

「ちゃんと自分の時間も作ろうかなって」

悠真が足を止めた。

「それ、いいと思う」

「でしょう?」

「うん」

その返事が、思っていたより嬉しかった。

けれど同時に、少しだけ寂しかった。

以前なら。

「もっと早く帰ってきてよ」

とか。

「じゃあ今度、早く帰れた日にご飯食べよう」

とか。

そんな言葉が続いていた気がする。

今日は違う。

悠真はただ、「いいと思う」と言った。

葵も、それ以上を求めなかった。

商店街を抜けると、小さな公園があった。

ベンチの脇に自動販売機がある。

悠真が立ち止まった。

「飲む?」

「うん」

「何がいい?」

「いつもの」

「……いつものって」

悠真が笑う。

「ここ、東京じゃないよ」

「あ……」

葵も笑った。

「そうだった」

悠真は自動販売機の前に立った。

「じゃあ、葵はこれだろ」

そう言って、温かいミルクティーを買ってくれた。

「覚えてたんだ」

「四年付き合ってたんだから、それくらい覚えてるよ」

缶を受け取る。

温かさが、手のひらに伝わってきた。

それだけで、少し泣きそうになった。

四年。

長かったようで、短かった。

たくさんのことを知っている。

好きな飲み物も。

苦手な食べ物も。

疲れたときに無口になることも。

機嫌がいいときに歩く速度が少し速くなることも。

けれど。

知らないことも、たくさんある。

今、悠真がどんな毎日を送っているのか。

何を考えているのか。

東京を離れて、何を感じているのか。

葵は缶を両手で包みながら、隣に座る悠真を見た。

「ねえ、悠真」

「ん?」

「こっちに来て……寂しくない?」

少しだけ間があった。

「寂しいよ」

意外なほど、素直な答えだった。

「そっか」

「葵と会えなくなったのは、普通に寂しい」

その言葉に、胸が温かくなる。

「私も」

葵はそう言った。

「すごく寂しい」

二人とも、それ以上は言わなかった。

けれど。

その沈黙は、以前とは違った。

東京にいた頃なら、どちらかが冗談を言って、話題を変えていたかもしれない。

今は、寂しさを寂しいまま置いておける。

それが少しだけ、大人になったような気がした。

「このあと、どうする?」

悠真が尋ねる。

「葵が行きたいところがあるなら、付き合うよ」

葵は少し考えた。

そして、ふと笑った。

「じゃあ、悠真の好きなところに行きたい」

「俺の?」

「うん。私、悠真の地元ってちゃんと知らないから」

悠真は少し驚いた顔をした。

それから、柔らかく笑った。

「じゃあ、案内する」

立ち上がった悠真の隣に、葵も立つ。

今度は、さっきより少し近い距離で歩き始めた。

肩が触れそうで、触れないくらいの距離。

それは昔と同じようでいて、少し違っていた。

知らない街を歩く。

隣にいるのは、四年間一緒にいた人。

知っていることと、知らないこと。

変わらないものと、変わってしまったもの。

その全部を抱えたまま。

葵は悠真の隣を歩いた。

会えた。

それだけで嬉しかった。

でも。

会えたからといって、以前と同じ場所に戻れるわけではない。

そのことを、葵はまだ言葉にはできなかった。

ただ。

今日一日だけは。

この隣を、大切に歩いていたかった。