君が思い出になる前に

 来週の土曜日に、悠真に会う。

 そう決まってから、葵は少しだけ落ち着かなくなった。

 月曜日。

 火曜日。

 水曜日。

 仕事をしている間は、いつもと変わらない。

 会議に出て、資料を作り、クライアントから届いたメールに返信する。

 忙しくしていれば、悠真のことを考える時間も少なくなる。

 けれど、仕事が終わると違った。

 帰りの電車の中で、ふと考える。

 土曜日、何を着ていこう。

 どこで会おう。

 何を話そう。

 そんなことばかりが頭に浮かぶ。

 以前なら、こんなふうに考えることはなかった。

 四年間付き合っていたのだから、会うことに特別な準備なんて必要なかった。

 仕事帰りに待ち合わせる。

 休日にどちらかの家へ行く。

 それが当たり前だった。

 今は違う。

 一度離れたからこそ、次に会えることが特別に感じられる。

 木曜日の夜。

 葵はクローゼットの前で服を選んでいた。

「……これかな」

 手に取ったワンピースを鏡の前で合わせる。

 少し考えて、首を横に振った。

「いや、気合い入れすぎかな」

 別の服を取り出す。

 それも違う気がする。

 結局、何着かベッドの上に並べてしまった。

 自分でもおかしくなって、葵は笑った。

「何やってるんだろ、私」

 悠真に会うだけなのに。

 付き合っている恋人に会うだけ。

 そう思うのに、胸が落ち着かない。

 スマートフォンが震えた。

 悠真からだった。

『土曜、駅まで迎えに行くよ』

 葵はすぐに返信する。

『ありがとう。楽しみにしてる』

 送信してから、画面を見つめる。

 「楽しみにしてる」。

 その言葉を送ったことが、なぜか嬉しかった。

 少しして、悠真から返信が来る。

『俺も』

 葵はその二文字に微笑んだ。

 金曜日。

 仕事中、葵は上司から週明けの案件について呼び止められた。

「高橋さん、来週の月曜なんだけど、この企画もう少し詰められる?」

「はい。今日中に一度整理しておきます」

「助かるよ」

 以前の葵なら、そのまま残業していただろう。

 週末にまで仕事を持ち帰ることも、珍しくなかった。

 けれど今日は違った。

「ただ、今日は定時で帰らせてください」

 自分からそう言った。

 上司が少し驚いた顔をする。

「珍しいね。何か予定あるの?」

「はい」

 葵は少しだけ笑った。

「明日、恋人に会うので」

 口にした瞬間、不思議な気持ちになった。

 恋人。

 その言葉を自分がこんなにも意識するのは、いつ以来だろう。

「そうか。じゃあ今日は切り上げていいよ」

「ありがとうございます」

 葵はデスクに戻った。

 残っていた仕事を片づける。

 定時になると、パソコンを閉じた。

 会社を出る。

 夕暮れの街を歩きながら、葵は空を見上げた。

 明日。

 悠真に会える。

 それだけで、足取りが少し軽くなる。

 けれど帰宅すると、葵はふと立ち止まった。

 テーブルの上に、一つだけ残ったマグカップ。

 悠真が持っていったもう一つは、もうここにはない。

 葵はそれを見つめた。

 明日、直接会ったら。

 この一週間、ずっと考えていたことを聞いてみよう。

 遠距離になって、どう思っているのか。

 これからどうしたいのか。

 自分たちは、このままでいいのか。

 けれど、考えれば考えるほど怖くなった。

 もし悠真が、自分とは違うことを考えていたら。

 もし「遠距離でも大丈夫」と思っているのが、自分だけだったら。

 葵は首を横に振った。

「考えすぎ」

 そう言って、自分を落ち着かせる。

 悠真は会おうと言ってくれた。

 迎えにも来てくれる。

 だったら大丈夫。

 今は、それでいい。

 翌朝。

 葵はいつもより早く目を覚ました。

 窓を開ける。

 爽やかな風が入ってくる。

 鏡の前に立ち、昨日選んだ服に着替える。

 髪を整えて、何度も鏡を見る。

「……よし」

 玄関を出る。

 駅へ向かう途中、スマートフォンが震えた。

『今、駅に向かってる』

 悠真からのメッセージだった。

 葵は笑って返信する。

『私も。気をつけて来てね』

 電車に乗る。

 窓の外を流れる景色を眺めながら、葵は胸の中で何度も言葉を繰り返した。

 会ったら、まず何て言おう。

 久しぶり。

 元気だった?

 それとも。

 会いたかった。

 そう言ってもいいだろうか。

 やがて、待ち合わせの駅に到着する。

 改札を出る。

 人の流れの向こうを見渡す。

 まだ悠真の姿は見えない。

 葵はスマートフォンを握りしめた。

 少しして。

 見慣れた姿が、人混みの向こうに見えた。

 悠真も葵に気づいた。

 二人の目が合う。

 悠真が、少しだけ笑った。

 その瞬間。

 葵の胸に、四年間の記憶が一気に押し寄せてきた。

 何度も見た笑顔。

 何度も隣で聞いた声。

 当たり前だった時間。

 けれど今は、その一つ一つが遠く感じる。

 悠真が近づいてくる。

「久しぶり」

「……うん。久しぶり」

 それだけの言葉なのに。

 葵は泣きそうになった。

 会えた。

 ただそれだけのことが、こんなにも嬉しい。

 そして同時に。

 離れて初めて気づいたことが、もう一つあった。

 会えることが当たり前ではなくなったとき。

 人は初めて、その人がそばにいた時間の重さを知るのかもしれない。

 葵は悠真の隣を歩き出した。

 今日は、二人にとって久しぶりの一日になる。

 けれどそれは。

 以前と同じ一日ではなかった。