君が思い出になる前に

 土曜日の朝。

 葵はいつもより早く目を覚ました。

 カーテンの隙間から差し込む光をぼんやり眺めながら、昨夜のやり取りを思い出す。

『……会いたいな』

 自分が送った言葉。

 そして、悠真から返ってきた。

『俺も』

 たった二文字だった。

 それなのに、何度思い返しても胸が温かくなる。

 葵はスマートフォンを手に取った。

 メッセージを開く。

 最後の「俺も」を眺めていると、自然と次の言葉が浮かんできた。

『じゃあ、いつ会える?』

 入力して、指を止める。

 これまでなら、もっと簡単だった。

 「来週の土曜空いてる?」

 それだけでよかった。

 会うことが当たり前だったから。

 でも今は違う。

 新幹線に乗らなければならない。

 悠真にも仕事がある。

 それに、お父さんのこともある。

 葵は少し迷ったあと、メッセージを送った。

『私、来週の土曜日なら休みだよ』

 しばらくして、既読がついた。

 けれど、すぐには返信がない。

 葵はスマートフォンをテーブルに置き、朝食を作り始めた。

 卵を焼きながら、何度もスマートフォンを気にする。

 自分でも可笑しくなる。

 以前なら、こんなに返信を待ったりしなかった。

 悠真から連絡が来るのが当たり前だったから。

 朝食を食べ終えた頃、ようやく通知音が鳴った。

『来週か……』

 その一言だけ。

 葵は少し不安になった。

『うん。そっちに行こうかなって』

 すぐに返す。

 今度はしばらく既読もつかなかった。

 数分後。

『父さんの病院があるんだ』

 葵は画面を見つめた。

『そっか。じゃあ病院の予定が分かったら教えて』

『うん』

 そこで会話は終わった。

 葵はスマートフォンを伏せた。

 仕方がない。

 分かっている。

 悠真には悠真の生活がある。

 父親のことも大切だ。

 自分だって仕事がある。

 だから、何も責めることはできない。

 それでも。

「……来週、会えるかな」

 小さくつぶやいた。

 昼過ぎ。

 葵は一人で街へ出た。

 目的は特になかった。

 ただ家にいると、スマートフォンばかり気にしてしまいそうだった。

 駅前の本屋に入り、雑誌を眺める。

 そのとき、旅行雑誌の表紙が目に入った。

 地方の観光地を特集したものだった。

 葵は手に取った。

 悠真の住んでいる町の名前が載っている。

 ページをめくる。

 知らない景色。

 知らない店。

 知らない場所。

 四年間付き合ってきたのに、自分は悠真の故郷について何も知らないことに気づいた。

「……そういえば、行ったことなかったな」

 付き合っていた頃。

 悠真から何度か誘われたことはあった。

「今度、実家の近くにも遊びに来る?」

 そんなふうに言われたこともある。

 そのたびに葵は、

「また今度ね」

と答えていた。

 仕事が忙しかったから。

 休日は休みたかったから。

 いつでも行けると思っていたから。

 葵は雑誌を閉じた。

 胸の奥が、少しだけ痛んだ。

 「また今度」

 その言葉を、自分は何度使っただろう。

 そして、その「今度」は。

 気づかないうちに、来なくなっていた。

 夕方、自宅へ戻る。

 玄関を開ける。

 静かな部屋。

 葵はコートを脱ぎ、テーブルの上のマグカップを見た。

 それから、スマートフォンを確認する。

 悠真からの連絡はない。

 今日はもう来ないかもしれない。

 そう思ったとき、通知音が鳴った。

『来週の土曜、午後なら時間作れそう』

 葵の顔が明るくなる。

『本当?』

『うん。病院は午前中だから』

『じゃあ会おう』

 すぐに返した。

 今度は、悠真からもすぐに返信が来た。

『うん。会おう』

 葵はスマートフォンを胸元に抱えた。

 来週、悠真に会える。

 それだけで嬉しかった。

 けれど、少しして。

 葵はふと気づいた。

 今まで二人は、

「いつ会う?」

ではなく、

「いつもの日に会おう」

だった。

 会うために予定を合わせる必要なんてなかった。

 それが今は違う。

 病院の予定。

 仕事の予定。

 移動時間。

 いくつもの予定を調整して、ようやく会える。

 それは当たり前のことなのかもしれない。

 遠距離になったのだから。

 でも。

 葵は窓の外を見た。

 夕暮れの空が、少しずつ暗くなっていく。

 来週、悠真に会ったら。

 今まで話せなかったことを、ちゃんと話そう。

 仕事のこと。

 これからのこと。

 遠距離になった二人のこと。

 そして。

 悠真が本当は何を考えているのか。

 葵はまだ、その答えを知らない。

 ただ一つだけ。

 今度は「また今度」にしたくなかった。

 会えるときに会う。

 話したいときに話す。

 大切だと思ったことを、後回しにしない。

 それだけは、もう決めていた。

 葵はスマートフォンを置いた。

 来週の土曜日。

 二人は、離れてから初めて顔を合わせる。

 その再会が、二人に何をもたらすのか。

 葵はまだ知らなかった。